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「あー、帰ってたの?」
相変わらず気配をさせず帰宅し、鏡の前で瞑想する姿は貴子を呆れさせた。貴雄も貴雄で、他人の唾液と他人の汗でデコルテを湿らせる姿を鏡越しに軽蔑する。
「まぁ、ね、そんな顔しないで。仕方ないじゃない」
貴子の口癖など聞き慣れた貴雄の耳は言外に込められる「生きていく為には」まできちんと拾う。
貴雄の授業が終わる頃に起きる生活を長く続けるうち、貴子の肌は色白を通り過ぎ透明になった。もちろん称賛しているのではなく、安値なブリーチ剤で色素を落とした髪が辛うじて母の輪郭を保つことへの揶揄だ。
「学校はどう?」
「……どうって?」
「ちゃんと通ってるんでしょうね?」
二人の足元に三代目となるランドセルが転がっている。クラスメートに隠されたり悪戯されても貴子は新調するのみ。苛めをする生徒を追及する訳でもなければ、貴雄に事情を尋ねる訳でもない。とにかく貴子は満たされたグラスを提供するのが好きだ。
「奴等もさすがに三つ目になると、やっても無駄だって気付くみたいだよ」
諦めを吐き出す貴雄に貴子はまた肩を竦め、不揃いの毛先を揺らす。
貴子が店を開けるまで化粧をしないのは、シングルマザーという素っぴんを最大限に活かす為だと言う。眉も二重も曖昧な顔は雄達の都合の良い言い分を塗りたくれる。
「それは良かった。今の人はランドセルを買えないから」
「貧乏なの?」
「違う、子供嫌い。彼、子供を殺したことがあるのよ」
しっしと手を払い、貴雄を鏡台から退かすと引き出しを漁る。乱雑に放り込んだ中より目当ての避妊具を摘まみ、ぴんと人差し指で弾くと、今度は貴子が鏡越しに貴雄を探った。
「会ってみたい? 彼に」
口角を上げる表情に思わず貴雄もつられ、合わせ鏡がごとく笑顔が重なる。
「でも……仕事相手には会わせないんじゃなかったっけ?」
貴子は関係を持つ相手を仕事相手と呼び、貴雄も倣う。
「仕事相手じゃないから。おいで、紹介してあげる」
「……でも」
「いいから! 来なさい」
気が乗らず言い淀む貴雄。しかし手を引っ張られ、一歩踏み出すと強烈に甘い香りが粘膜へまとわりつき、貴雄は爪先から良心が麻痺していく感覚に襲われる。そして貴子の指がノブにかかった時、たまらず見開く。貴子のテリトリーに入れることが好奇心を膨らめ、瞬きと同時に弾け飛ぶ。
求め合うのに最低限の光源は空間を淫靡に仕立て、半裸でソファーへ腰掛ける男を金色に浮き上がらせていた。
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