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ーー2006 6
こじんまりとしたアパートに不釣り合いの鏡台を持ち込んだのは他でもない、貴雄だった。
夕食を済ませた柊が外泊のアリバイを作る間、貴雄は軋む椅子へ体重を預け、目を閉じ、瞼の裏で常識だの良識の輪郭がなくなるのを待つ。
縁取りを無くした善悪は無意味な質量しかなくなって身体の奥へ、奥へと沈む。しかし、最近の貴雄は自分に底のない闇が存在するのではないか疑う。見たくない過去や忘れたい記憶をいくら突き落としても、それらは誰かが垂らす糸を辿り戻ってきてしまうのだ。
どうやら今夜は貴子にアリバイ協力を求めるらしい。貴雄は遠くのやりとりを聞く。
根っからの男好きである貴子が貴雄と柊の関係に考えが及ぶ可能性はゼロに近い。仮に感付いたとしても、貴子は快楽や金銭を得る目的以外のセックスを知らない。
とはいえ、貴子は貴雄の変調は感じている。でなければ貴雄を追い出したりしないはずだ。貴子は生きていく為、イコール殺されない為に貴雄を捨てた。
「まだ?」
「電話終わったんですか?」
「君のお母さんにお願いしたよ」
「妬かせたかったんですね?」
柊は応えず、背後から貴雄を抱き締める。貴雄は柊が香らないところだけは気に入り、妻にも貴子にも、なにより貴雄の所有物でないと思えた。
「まだ。待って下さい。妹になりきれてません」
膨らみもない空っぽな胸元をまさぐられつつ、貴雄は引き出しを漁る。嘘つきな唇に紅を引くだけで貴雄は生まれてくるはずだった妹となれる。貴雄の妹は生者でも死者でもない、金色の糸で操られるマリオットだ。
「あのワンピース着ようか? 君にとてもよく似合うと思うんだ」
「貴子じゃなく?」
「はは、知ってるよね? 彼女には他の男がたくさん居る。来月、駅前に新しい店を出すらしいぞ」
「かわいそう。慰めてあげる先生」
あえて爪を立て、柊の癒着した仮面を引き剥がせば金色の糸が引いた。勢いのまま貴雄は馬乗りとなり、月みたいな素顔を引っ掻いてやる。
傷でバーコードを描く。
柊はそんな母親譲りの値踏みを仰ぎ、は、は、は、短く息を吸って吐く。
「かわいそう? 君ほどではないけれどーー君は誰だ?」
柊は言った。
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