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34 和馬視点
その日の夜は、妙に気がそわそわして、寝付けなかった。
試しに本を読んだり、部屋を暗くして布団に入ってみたりしたけれど、ざわついた神経が落ち着くことはなかった。それもこれも、あの甘い香りが時折鼻を掠めるからだ。
鼻につく、ということではない。普段の家の香りに交じって、ほんの少し匂う程度だ。
だが、それが和馬にしてみれば慣れない空気であり、敏感に感じ取ってしまう。
仕方がない、と和馬は布団から出た。初夏のこの時期はまだ夜は過ごしやすく、月明かりだけで和馬は部屋を出て行く。
昼間の食事の時は紘一とも普通に話せた。彼の健康状態も診て、邪気がなくなっていたことも説明した。とはいえ、元の生活に戻るには準備もいる、もうしばらくは屋敷に住むことになっているのだ。
そして、用は済んだから帰ると言った和馬に、佑平は干してきた洗濯物は取り込んだ、と帰る理由を失くされ、渋々屋敷に残ることとなった。
和馬はため息をつく。もうこれ以上紘一の近くにいたら、自分が何をするのか分からないのだ。
和馬は中庭へと足を運んだ。その近くの縁側は、和馬のパワースポットがあるのだ。そこへ行って、気持ちを落ち着かせようとする。
だが、そこには先客がいた。
「あ、和馬」
こちらに気付くなり嬉しそうに笑う紘一。ふわりとまたあの甘い風が吹く。
場所を変えようかと思ったが、その前に隣に座るようジェスチャーされ、仕方なくそれに従う。
「眠れないのか?」
あなたのせいです、とは言えず、和馬は無言でうなずく。
(目が……優しすぎる)
紘一はそっか、と言ったきり、じっと和馬を見つめている。温かい、すべてを包むようなまなざしは、和馬をさらに落ち着かなくさせた。
「あ、あの……」
耐え切れなくなって声を上げれば、柔らかい声で「なに?」と聞き返してきた。
「いつ……ここを出て行くつもりですか?」
紘一は確か部屋を借りていたはず。そちらを放っておくわけにはいかないし、何より留年させてしまった責任もある。できる限り手伝うつもりでいると伝えると、紘一は真面目な顔をして言い放った。
「俺、出て行かないよ? ここに住んで、和馬たちの仕事の手伝いをするつもりだ」
「えっ?」
「もう部屋は解約したし、大学も辞めた。佑平に力をコントロールする方法も、現在進行形で教わってる」
「ちょ、ちょっと待ってください」
和馬は頭を抱えた。いつの間にそんな話になっているんだ、と慌てる。では、今まで和馬がぐるぐると考えていたことは、すでに紘一の中で解決していたということか。
いやしかし、それを許すわけにはいかない。
「何を考えてるんですか。あなたは人間、きちんと大学を出て、就職して、そしていつか素敵な女性と結婚して、子供を産むのが役目でしょう?」
「んー、でももう大学辞めちゃったしなぁ」
呑気な声で呟く紘一は、諦めや迷いなどの色は一切見えない。
和馬の声が震える。
「どうして……」
返ってくる答えは予測ついた。でも聞かずにはいられない。
さわさわと、温かい風が和馬の頬を撫でる。
「和馬が好きだから」
紘一は真っ直ぐ和馬を見ている。しかし、和馬は紘一を見られない。顔が熱くなり、月明かりの下でもその変化は分かってしまうのでは、と緊張する。
「それは……力の相性が良いから、惹かれあうのは当然です。でも、勘違いですよ」
「俺が信じられない?」
的を射た返しに和馬は言葉が出なくなった。そう、誰よりも紘一を信じていないのは、和馬自身だからだ。
「だって……」
周りの空気が一気に濃くなる。若草の香りと甘い香りが混ざって、和菓子の中にいるような気分だ。
「だって、柳さんは人間だ。今からなら普通の生活が送れるはず……」
「すでに和馬がいない生活が、もう考えられなくなってる」
「……っ」
不意に抱き寄せられ、紘一の香りがつんと鼻に沁みた。
(だめ……)
ずっと逃げてきたのに、こんな風に捉えられては大人しく捕まるしかない。
和馬はダメ押しのように彼の胸に向かって呟いた。
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