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「今日は久しぶりに卵焼きを入れてきたんだけど、なかなかうまくできなくて。卵焼きって、意外と難しいよねえ」  そう言って朝比奈さんが弁当箱を愛おしそうにぎゅっと抱きしめる。僕は胸の中で弁当箱に対する嫉妬の炎を燃やしつつ、「定番だからこそ意外と奥深いよね」と一般論を返した。 「香取くんは、卵焼き作る時のこだわりはある?」 「どうだろう。いつも感覚でやってるから、別にないかな。朝比奈さんは?」  詳しく答えるより質問を選んだ。いくつかの点から考えて、このまま僕のターンを続けてもあまりメリットがないと判断したから。男性がたくさん話すよりも女性の話を引き出した方がうまくいくらしい。この前読んだ恋愛心理学の本にそう書いてあった。 「わたしは最近ね、卵をかき混ぜる時に少し水を加えてるの」 「へえ」 「水入れるとさ、仕上がりがふわっふわになるじゃん」 「うんうん」 「一回やってみたらハマっちゃって」  生き生きと話す朝比奈さんの顔を見て、僕の中で恋愛心理学への信頼度が大きく高まった。 「香取くんは、卵焼きの味付けってどうしてる?」 「あー、普通かな」 「お砂糖、醤油、はちみつ、塩とか?」 「そうそう。朝比奈さんは?」 「わたしも似たような感じ。最近はね、砂糖を多めにして少し甘めの卵焼きを作るのにハマってるの」 「いいな。おいしそう。朝比奈さんのお弁当一口もらいたくなってきた」  本音が漏れた。こういう発言は場合によっては距離を縮める大きな一手となるけれども、今回はどうだっただろうか。  ありうるリアクションをいくつか思い浮かべてみる。現実的なのは、「食べてもらえるほどじゃないよ」とか。もう少し良ければ、「ほんと? なら今日、一緒にお昼食べる?」あたり。さらに良ければ、「じゃあ今度、家来る?」とか、それはさすがにないと思うけど、万が一そう言ってもらえた場合には、よからぬ願望を悟られないように「いや、それは悪いよ」などと一度は遠慮したほうがいいはず。  こんな妄想をぐだぐだ繰り広げる余裕があったということはつまり、一時的に会話が止まっていたということだ。 「あ、朝比奈さん?」    ふと妄想から覚めた僕は、朝比奈さんの沈黙に気がついて彼女を呼んだ。けれど返事はなく、それどころか彼女は僕の方を見ようともしなかった。  いったい、どうしたというのだろう。
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