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「試すようなことをしたのは、悪いと思ってる。それに、香取くんがそうやって強がりをするのはきっと、わたしの前でカッコつけたいって思ってくれてる証拠でもあって、それはそれでうれしい。だけど」
朝比奈さんが火を止めて卵焼き器を持ち上げる。いつのまにか調理が完了していたらしい。フライ返しを巧みに操る美しい右手。金属の擦れる音がして、白い長皿の上に卵焼きの眩しい色彩が現れた。
朝比奈さんがカトラリーラックから箸を一膳取り、卵焼きとともに僕に差し出す。
「召し上がれ」
お箸を受け取って手を合わせ、軽く頭を下げる。心臓に風穴を空けられたような気分で、「いただきます」すらきちんと発音できなかった。
ふわふわの卵焼きを、一切れ口に運ぶ。
噛み締めるたびに体全体を温めてくれるような、やさしくて朗らかな味だった。
「おいしい」
「よかった」
十分に冷まさないまま口の中に入れてしまったせいで、舌が少し焼けたかもしれない。
舌と、それから胸の奥に痛みを覚えながら、僕は一旦空っぽになった口を開いた。
「あのさ、朝比奈さん」
「ん」
「君の言う通り、僕は卵焼きを作ったことがない。それどころか、料理はほんとダメなんだ」
朝比奈さんは、左手を口元に近づけて卵焼きをほうばりながら、黙って僕の話を聞いていた。
「朝比奈さんにがっかりされるかもしれないって思うと、怖くて言えなかった」
逃げ出したいくらいに恥ずかしくて、もしこのあと調理室から火事が起こったとすれば、火元はきっとコンロではなくて僕の顔だろうと思う。
「だけど」
ぴきぴきっと。心の中で音がした。
僕のちっぽけなプライドを守る殻が、少しだけひび割れた。
「やっぱり僕は、朝比奈さんに嘘をつきたくない。もう、ダサいことはしたくないんだ」
お箸を皿の上に置き、椅子から立ち上がった。
「卵焼きの作り方、教えてくれないかな」
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