尾久の栄依子ちゃんシリーズ 本町通りのミルクホール

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時は昭和15年 東京下町 荒川区 尾久(おぐ) 荒川の支流、音無川の河畔の桜も散り始める頃 戦争は始まってるけど まだ戦況は良くて、 世の中の空気はそれほど差し迫っていない。 栄依子は5人兄妹の真ん中 国民小学校4年生。 家は、父親、藤平が始めた木工工場が 軍の下請けで成功し 職人を10人ほど抱えて賑やか 貸家を数件持ち、店子を大勢抱えた ちょっとした「下町のプチ・ブル」と言ったところ さて 晩御飯の片付けも終わり 母親のおワカさんは茶の間でラジオを聞きながら 繕い物をしている。 「李香蘭の 春宵値千金(シュンショウアタイセンキン)でした」 アナウンサーの軽妙な声が終わると すぐテナーサックスとディック・ミネの低音が響く。 「いい歌だねえ、栄依子、音を大きくしておくれよ」 「マンチュリーってなんのこと?」 妹の年子が母親のおワカさんに訊いた。 「満洲のことじゃない? 英語でそういうのよ」 知ったかぶりの栄依子が答える。 「ディック・ミネ 霧のマンチュリー   をお届けいたしました」 「マンチュリーって街は やっぱり霧が多いのかね 寒いところなのかねえ」 おワカは夢見るように呟きながら 子供たちのスカートのほつれや 長男トシオの詰襟のボタンを 付け直している。
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