9人が本棚に入れています
本棚に追加
そもそも自分で飲食店をする予定はなかったそうで、たまたま縁があっただけだと、香里さんは言った。
たまご食堂を三年前にオープンした当初は、食堂一本ではなく、会社員と両立して働いていたという。食堂は週に二日ほどしか開いていなかったというから、なかなか気付けなかったのも納得した。
元々は近所のおばあちゃんがここで店を出していたのだけれど、高齢になり、店を閉めようと思うと相談をされ、その時に、もし良かったらと譲り受けたという。子供の頃から可愛がってもらっていて、おばあちゃんとはとても仲が良かったこともあり、さらには料理が好きだったことも重なって、今では食堂一本でやっているそうだ。ちなみに、おばあちゃんの得意料理だっただし巻き玉子が彼女の好物でもあり、店を出す時の目玉となる料理を考えた時、これしかないと思ったと言っていた。さらには、なんのひねりもない店名に、自分でも笑ってしまうくらいセンスがないと言っていたけれど、今となってみれば、分かりやすくて気に入っていると、少し照れながら教えてくれた。
そして、ずっと気になっていたことも、何度目かにここへ来た時に思い切って聞いてみた。
クローズ、午前二時半。ラストオーダー、午前二時。どうしてこんなに遅い時間までやっているのかと聞くと、ものすごく単純な答えが返ってきた。「早起きが苦手だから」、言いながらはにかむ香里さんを、その瞬間、可愛いと思った。きっとその時だろう、彼女に淡い想いを抱くようになったのは。
聞けば、僕よりもふたつほど年上だと知って驚いた。その見た目は、到底三十代半ばには見えない。大げさでもなんでもなく、大学のキャンパスを歩いていても全く違和感はないだろう。
太陽が昇っている時間にこの坂を見上げることはほとんどない。僕がここを見上げる時は、仕事帰りの完全に日が沈んだあとだ。さらには仕事の行き帰りくらいにしか歩くことのないこの道を、休日に、それも昼をだいぶ過ぎたこんな時間に歩いていることが新鮮で、不思議な気分でもあった。休日は、もっぱら車一択だ。
この街の人たちが、自転車に乗れないのも頷けるであろう傾斜の激しい坂道を、今は、香里さんに借りた黄色いエコバックをぶら下げながらのぼっている。
たまご一パック。「絶対にLLサイズだからね」と言った彼女が可愛くて、あやうくだらしない顔になりそうになり、慌てて笑顔に切り替え、「行ってきます」、言いながら店を出た。
つい数分前のことを思い返しながら、周りに誰もいないことをいいことに、ここぞとばかりに思い切りだらしない顔をしてみる。
香里さんが僕のことを信頼してくれているのはもちろん嬉しいし、居心地も、全く持って悪くない。けれど、ずっとずっとこのままの関係というわけにもいかない。いや、いけないことはないのだけれど、僕だけの事情で言うならば、彼女にもっと近付きたい。
今日こそは、折を見てこの気持ちを香里さんに伝えようと思う。
店の前で一旦立ち止まり、すっと息を吸い込む。引き戸を開け、子供の頃にそうしていたみたいに、大きな声でただいまを言うと、カウンターの中にいた彼女が笑いながらおかえりなさいと言ってくれた。
黄色のエコバックごとたまごを手渡し、彼女のありがとうに少しだけ照れくさくなる。
手前の椅子を引いて腰を下ろすと、途端に動悸が早くなった。テーブルの下で握りこぶしをぎゅっとにぎりしめ、今だと自分に言い聞かせた。
「あのさ……」
完
最初のコメントを投稿しよう!