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◇◇◇
名札の文字数が多くて見えなかったが「一」の字が書いてあったような気がする。
少年を警戒しなかったと言えば嘘だ。
しかし、蘭を見つめる少年の眼差しには敵意など見受けられなかった。
濃紺の、折襟の制服が似合う少年。
高めの整った鼻筋と、黒目がちの澄んだ瞳が美しい。
その瞳は磨き上げたガラスに星の輝きを、一等星の輝きを封じ込めたの如し。
如何なる時も少年は十つの少女の胸を離れない。
――あの子に、会いたい――
次に会えたら彼の質問への答えを話そう。
桜は好きだと。
そして一番好きな花の名も。
少年の澄んだ瞳に、再び見つめられたい。
◇◇◇
「男嫌いの蘭にも春が来たんだねえ」
「それ、親戚のお姉さんにも言われた」
いつも慧ちゃんと呼んでいる慧子を「親戚のお姉さん」と呼ぶことに違和感を覚えるものの、それが一番伝わりやすい表現なのは事実。
帰り道、留美に事の経緯を打ち明けた蘭。
留美は蘭を冷やかすこともなく「会えるといいよな、あんたの好きな人」とコワモテを笑顔に変えて励ました。
帰宅後、部屋にランドセルを置くなり蘭は自宅から駆け出した。
「慧ちゃん!」
玄関の引戸が開くなり蘭は転がり込む。
息が弾んでいた。
又従妹の両肩を支えて「なんだ、息を切らして」と驚く慧子は中学校のセーラー服のままだ。
慧子の眉下で揃えた前髪の隙間から、白い額と直線的な眉がちらちらと覗く。
とりあえず、と蘭は和室に通され慧子の母の薫が紅茶とお茶菓子を運んできた。
ベルガモットの香り。
紅茶はアールグレイだ。
「今日は幼稚園の交流会だったって? 清水が丘の五年生が来る日だってサーヤのお母さんが言ってたよ」
「そう。行ってきた。慧ちゃん、斜め向かいの家の子いる?」
いつもならばアールグレイの香りを楽しみつつゆったりと飲むのに、この時はくつろぎすらじれったい。
「一哉君? わかんないけど張り込んでみるか?」
「うん!」
「わかったから、まずは紅茶飲んで落ち着け。あんたの好きなルマンドとエリーゼの白もある。ほら、縁側さ来な?」
蘭は促されるまま縁側に腰掛けた。
ライラックの生け垣は薄紫の小さな花を咲かせる。
10年ほどドイツで生活していた反動なのか、慧子の両親は日本風にこだわり尽くした庭と家屋を気に入っているそうだ。
例えば、敢えて苔むしさせた石灯籠に、決して大きくはないが趣のある藤棚。
古伊万里らしき水盤には椿を浮かべている。
それでもドイツの工芸品やイベントには愛着があるようで、クリスマスの毎にはアドベントとして薫が作ったシュトーレンを食べ、(しかし慧子はベタベタするからとの理由でシュトーレンを好まない)玄関にはくるみ割り人形を飾る。
今、縁側に置かれているお茶菓子を盛り付けた器はマイセンの器だ。
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