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◇◇◇
「蘭、あんたどうかしたか?」
「あ……」
気付けば教室は人がまばらだ。
親友の鵜沼留美が椅子に腰掛けたままの蘭を見下ろす。
四年生に進級したと同時に「浜通り」と呼ばれる海側の地域から転校してきた留美とは、出席番号と自宅が近いことから仲良くなった。
この日の三時間目と四時間目は、学区内にある幼稚園への実習だ。
主な内容は合奏と合唱の披露、そして園児との交流である。
「そっか。次は幼稚園訪問だったね」
「そうだよ。蘭のフルートの腕前をちびっ子達さ披露するチャンスなのによ。優等生のあんたが最近ボケ~っとしてて変だよ。何があったんだ? えぇ?」
殺伐とした口調でも端々に留美なりの気づかいを感じ取れる。
その証拠に、つり上がった太い眉をひそめていた。
「ごめん。……詳しいことは帰りに話すよ」
蘭はあたりを睥睨する。
幸いにも厄介な人物はいない。
秘密にしたい事柄を嗅ぎ付けてはどんな秘密かを探るべくしつこく食い下がる者がクラスに一人は必ずいるのだ。
周りの児童がリコーダーや鍵盤ハーモニカの袋を持ち出す中で、蘭だけがボストンバッグを小さくした革製の黒いケースを持つ。
フルートのケースだった。
「しかし、蘭のワンピースいいよなあ。私、こういうシンプルだけどこだわりのある服好きなんだっけえ」
リコーダーの袋を片手に、留美はまじまじと蘭の着ている服を眺めた。
「横浜のお祖母ちゃんが誕生日プレゼントだって贈ってくれたんだ」
マリンルックのワンピース。
紫と灰色味を帯びた紺色で、四角い襟のセーラーカラーにブルーグレーの細い紐を編み上げたデザインが気に入っている。
蘭は言う。お祖母ちゃんがこの色はプルシアンブルーって言ってた、と。
桜の木の下で、少年と会った時に着ていたワンピースだった。
◇◇◇
お遊戯室という名の体育館にて合唱と合奏の披露を終えた小学生達は、休む間もなく園児達との触れあいの時間に入る。
園庭に出ると「笛吹いてたお姉ちゃん」と園児達がわらわらと蘭に集まり、まとわりついてきた。
ちびっ子は好きだし懐かれるのは嬉しい。
だが、バレエ教室以外で未就学児と関わる機会が薄いためか、ちびっ子への接し方がおぼつかない蘭は戸惑うほかなかった。
そんな中でワンピースの裾を引っ張られた。
振り返って見下ろすと一人の女の子が蘭のワンピースの裾をつかんでいた。
よくある二つ結びだが、飛び抜けて愛らしい顔立ちをしている。
「この前の……」
名札を見て間違いないと蘭は確信する。
慧子の近所に住んでいる、すごい苗字の家の『カリンちゃん』だった。
カリンちゃんこと花梨は石拾いをしたかと思えば散った桜やサザンカの花びらを集めたり、友達と土に絵を描いたかと思えば「あっ、ありんこ!」と嬉しそうに叫んでアリの観察を始める……など、気まぐれに遊ぶ。
後ろからは蘭と留美が歩調を合わせて付き添うのだった。
アリの観察を一番気に入ったらしい花梨はアリを眺めたまま口を開いた。
「あのね。兄ちゃんね、変なんだよ?」
「んー、お兄ちゃんって?」
作り笑いで蘭は動揺を隠す。
あの日、慧子の言う『心当たりのある少年』は友人宅に出向いて会えなかった。名前は確か……。
「花梨ちゃん、お兄ちゃんいるんだ?」
留美が花梨の顔をのぞき込みながら聞く。
肉食獣さながらの威圧感を纏う佇まいから転校早々「なんか怖い」と同級生達から遠巻きにされたまま現在に至る留美だが、子供は好きらしく花梨とその友達を見下ろす眼差しは優しいものとなる。
「うん。兄ちゃん、変なんだよー?」
「変? お兄ちゃん、どうかしたの?」
一生懸命にアリの観察をする小さな横顔に蘭は問いかけた。
「あのね、兄ちゃんね、桜を見に行くって外さ出たの。そしたらね、女の子と会ってね、ポケーっとしててね、ご飯も食べないの」
桜。
心臓が奏でる独奏曲は、誰にも止められない。
平常心、平常心だと我が身に言い聞かせて蘭は更に花梨に問いかける。
「花梨ちゃん、お兄ちゃんの名前、何ていうの?」
ようやく、花梨はアリの巣から蘭に向けて顔を上げた。
いかにもな女の子らしい容姿で気づけなかったが、よく見れば、花梨は眦の上がった大きな目が猫のようで桜の下の少年と瓜二つだった。
「えーっと……カズちゃん! 兄ちゃんね、カズラって名前だよー」
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