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娘
遠くで誰かが言い争っている声が聞こえる。女性の声と、男性の声。女性は怒っているのだろうか、何を言っているのかまでは分からないが、語気が荒い気がする。一方で男性はそんな女性を宥めるように、柔らかく、優しい声色を出していた。誰だろう……?意識が浮上していくにつれて、バラバラになっていた声が文字列として耳から脳へ流れ込んでいく。
「ねぇ!邪魔なんだけど!早くコレ、どかしてくれない?!」
「ちょ、ちょっと落ち着いて、茜。朝起きたらもうこうなっていたんだ、頭を打っているかもしれないだろう?やたらと動かしたらダメだ」
「はぁ?!こんなのちょっと寝ぼけて階段で寝ただけでしょ?!それより春樹がもう迎えに来るの!だからどいて!」
「茜!自分の母親が階段で意識を失っているんだぞ?!今は彼氏にかまけてる場合じゃないだろう!救急車を呼んで、それから」
「っさいな!もう!!」
ドカッ!と衝撃が体を駆け抜け、そこで初めて私はハッと意識を取り戻した。言い争っていたのは私の娘・茜と、夫の恵一だ。そして私は反抗期真っ盛り――というには荒々しすぎるほどに気性の激しい娘に蹴られたのだと理解した。力の入っていなかった私の身体はガタガタと階段を三段ほど転げ落ち、止まった。まだどこかぼんやりとした視界と頭で、茜を見上げる。目すら合わなかった。茜はこれでもかと踵を廊下に叩きつけながら玄関へ向かい、バタン!と大きく音を鳴らして外へ出て行った。
「依子!」
ただただ冷たく無関心な娘とは対照的に、恵一は瞳を潤ませて私の上半身を両腕で抱き上げた。ぎゅううと込められる夫の両腕の力がなんだか可愛くて、つい小さく笑いを零してしまった。恵一は改めて私の顔を覗き込むと、「どうした、何かおかしいか」と心配そうに眉を下げた。そして続ける「依子、どうして階段なんかで寝ていたんだ?何があった?」
夫の問いかけを受けながら、確かにどうして私は階段なんかで……と昨晩の記憶を手繰り寄せ、ハッと息を呑んだ。そうだ。物音で目が覚めて、強盗か何かが入り込んでしまったと思ったから、スマホを片手にゆっくり階段を下りていって……そこから記憶が曖昧だった。何かとてつもなく怖いモノを見た気がするが、恵一に伝えようとしても適切な言葉が出てこない。いやそんな事よりも、まずは家の中が無事かどうか確かめるべきだ。ひとまず恵一に言えるところまで事情を伝えると、彼も顔を真っ青にして、一緒に家中を見回ってくれた。小窓の鍵、貴重品の入ったタンス、クローゼットの奥底……誰か何かが隠れていやしないかとヒヤヒヤしたものだが、結局、何も見つからないどころか、家族以外の誰かが家に入った形跡ひとつ見つからなかった。家はいつも通り安泰だったのだ。私はそこでやっとホッと息をつくことが出来て、思わずソファに全身を投げ出してしまった。階段で眠りこけてしまったからだろうか、体の節々が痛んでたまらない。恵一はそんな私を労りつつ、リビングの時計に目をやりながら「そろそろ僕も仕事に出ても大丈夫かな」と子犬のような目で私を見つめた。体を動かせばあちこちパキリと骨は鳴るものの、恵一が心配するような大きな怪我や、ましてや頭を打って気分が悪いという事もない。昨晩の妙な出来事は、夢か幻か、そうでないならば、たまたま私に夢遊病のような可笑しな症状が出てしまったのだろう。自分で自分を病人扱いする事は気が進まないが、茜との不仲によるストレスや、年齢と共に押し寄せてくる未病の辛さは否定できない。今回のように家族に迷惑をかけてしまうような事があれば、その時は迷わず病院に行こう……。そう心の中で呟きながら、玄関先で恵一を見送った。
私は玄関の鍵をしっかり掛けたことを確認してから、キッチンへ向かった。そして毎朝飲んでいるルイボスティーを淹れてから、カップを両手で持ってリビングに戻る。今度はゆっくりとソファに腰かけ、しばらくお茶の香りを楽しんだ。
ふと、テーブルに置いたままのスマホが目に入る。カップを置いて代わりにスマホを持ち、スリープから画面を立ち上げる。ライトの光量が少ない……。やはり昨晩スマホを片手に何かしようとしていた事は、紛れもない事実のようだ。
私は自分の不可思議な行動にハァと一つため息をついて、さて朝のニュースでもチェックするかとアプリをタップしようとした。その時、指先以外が画面に触れてしまったのか、アプリの使用履歴がパパッと画面に並んだ。すると、アプリの最新の使用履歴に『カメラ』が表示された。カメラ機能を使わないわけではないが……普段は、そう積極的に使うこともない機能だ。知らないうちに起動していたようだ。私は特に気に留めず流そうとして――いや、待って。と、指を止めた。もしかして……いや……もしそうなら……。一つの考えが頭に浮かんだ途端、それがグルグルと回り始める。確認しない方がいいかもしれない。いや、何でもないならそれはそれでいいじゃないか。気付けば私の指先は震えていた。嫌な予感がしていた。なぜ私は震えているのか分からなかった。けれど体はその理由を知っているようだった。『アルバム』を開く。サムネイルを見た時点で、私は悲鳴を上げてスマホを床に投げつけた。心臓が激しく波うっている。喉がつかえる。眩暈がしている、気がする。はぁ、はぁ、と荒い息を繰り返していると、唐突にスマホが大きな音を立てた。ひっ!とまた鋭い悲鳴が漏れてしまう。落ち着け、落ち着け。この音は着信音だ。電話だ。私のスマホの電話の音だ。私は恐る恐るスマホに近寄った。頭ではスマホが鳴っているだけだと分かっていても、どうしても、私に投げられたスマホ本体が文句を上げているように思えてしまったのだ。妄想甚だしい。自虐的になることで、私は冷静さを取り戻していった。
スマホの画面を覗き込むと、そこには知らない番号からの着信が表示されていた。
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