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夢先デート
1、夢の始まり
とある教室と思しき空間で、紺色のブレザーの制服に身を包んだ2人組の高校生男女が隣り合って座っている。
少し赤みがかったミディアムヘアが、すぐ横で揺れる気配を感じながら、男の方である須川直道は同級生の女子、勢登(せと)聖子と隣合わせで映画を観ていた。
机に立てられたタブレット端末には古いミュージカル映画が流れ、俳優が口笛を吹き始めた。
すると、勢登が同じ様に口笛で吹き始める。
その音は空気が多分に含まれており、はっきり言ってしまうと下手な部類に入っていた。
須川はその姿に思わず「ふふっ」と吹き出してしまう。
すると、勢登は少し不機嫌そうな顔をして須川をジトッとした目で見た。
「なにさ、じゃあ須川くんも吹いてみなよ。」
その言葉を聞いて須川は口を尖らせる。
小学校の時から高校の今に至るまで、口笛は度々吹いてるので自信があったのだ。
しかし、先程の勢登の必死にならない口笛を思い出してにやけたせいで、口笛は途切れ途切れの下手なものとなった。
須川が我ながら気色悪いなと思っていると、勢登はほら見ろと言わんばかりに、にやけていた。
「ちょっとタンマ。本気出すから本気。」
須川は呼吸を整えて、唇を尖らす。
今度は、ピィという高音の輪郭がハッキリとわかるぐらいに上手いものとなっていた。
「あ、本当に上手いね。」
勢登は深いブラウンの瞳を丸くしながら褒めてきた。
その言葉に須川は「でしょ?」という言葉を自身満々に返す。
こんな距離感でいる事なら、須川と勢登はさぞかし仲が良いのかと思われるかもしれない。
だが残念ながら、これは夢の中での出来事だ。
始まりは2週間前、冬の寒さがまだ残るある日、須川と勢登は2限目の休み時間に机を一個挟んで2人の共通の趣味である映画の話をしていた。
「須川君はこの映画観たことある?」
物静かな雰囲気でそう言うと、勢登はスマホの中に、とある男女がひび割れた氷の上で寝そべっている映画のパッケージを表示させ、須川に向けてきた。
須川はその画像に覚えがあったが、実際にはその映画を観たことはなかった。
「ミシェル・ゴンドリーの作品だよね?残念ながら、まだ観てはいないんだ。」
「そうなのね。凄く良いんだよ。」
少し微笑みを滲ませながら、落ち着いた雰囲気で返す勢登に須川はそうなんだと優しい声で返す。
この様な感じで須川は勢登から良いと思う映画を時々紹介してもらっていた。
勢登聖子は赤みがかったミディアムヘアー、目は少し釣り目で、肌は白く、目はぱっちりと大きく、眉目秀麗だと言える。
しかし、黙っていると冷たい印象を周囲に受けさせ、無意識に圧迫感を感じさせる事があるのだ。
それ故か、彼女をチラチラ見る男子はいても、彼女から視線を向けられるとスッと顔を背けてしまう。
かつては須川直道もそんな男子の一人だった。
彼女の容姿目当てと、そのクールでハードルの高そうな様子から、カーストが高めの先輩などから目をかけられているという噂を須川自身も聞いた事がある。
一方の須川直道は、あまり自分に自信を持てない男だった。
顔色は常に青白く、見た目は目つきが鋭く、前髪は目にかかり気味なので暗い印象を受けさせ、体は平均的な体型であり、彼自身は面白みのない暗そうな奴だと自分自身を認識させていた。
しかし、その実、そこまで周囲の印象は悪いもではなく、趣味が映画という事でサブカルチャーが好きそうな物静かな男子というイメージを周囲から持たれていた。
そんな2人だが、この様に仲良く話せているのは、映画という共通の話題が彼らを繋げていたためである。
とある場面に遭遇した須川は、彼女も映画が好きだという事を知り、それから良く話すようになったのだ。
勢登曰く、彼女の家族は昔から映画が好きな一家であるらしく、彼女自身もそこから映画好きになったという。
須川は彼女との映画トークが楽しくて仕方がなかった。
それまで、自己内で完結していた趣味を誰かと共有するのが楽しいという事を彼女を通して知った為だ。
そして、勢登から映画を紹介された日、須川は彼女に勧められた作品を夜に観る事にした。
映画の内容は、とある男女カップルが破局し、男側が彼女の記憶を消す為に専門の業者を雇うというSFの話だ。
須川は映画のパッケージ自体は見た事はあったが、SF作品であった事は全く知らなかった為に少し驚いてしまった。
だが、夢を見ながら記憶を消す過程で、彼女との思い出をかえりみて、その記憶が痛みと共に幸福に満ち溢れていたものだと男は自覚する……そんな作品内容に、まだ交際経験もまともに無い須川でも寂寥感と恋への憧れを感じずにはいられなかった。
映画を見終わった後に、須川はつい勢登の顔を思い浮かべた。
それは明日、この映画の事を勢登と話す事が出来る期待と、映画によって引き起こされたある感情が引き起こしたものだったと言える。
ふと、心の中でその様に考えていると、彼の心に急に羞恥心が呼び起された。
「我ながら恥ずかしいものだ…。」
須川はそう心の中で呟きながら気を取り直すと、少し自らの気を引き締めるために、その日は少し熱めのシャワーを浴びる事にした。
しかし、そういう映画を就寝前に観ると、彼自身が影響を受けやすい為か、普段は支離滅裂な内容の夢の中に、特別なゲストが登場したのだ。
ベッドに横になって間もなく、須川は灰色のスモークが充満している白の壁に囲まれた謎空間にいた。
そして、服装は紺色のブレザーという、いつも学校で来ている物。
座っているのも、いつもの学校の木製の椅子と机。
ただ、机を挟んだ向こうには、一つ開いた席が存在していた。
まあ、夢なんてこんな意味不明なものだよなと須川が思っていると、
その開いた椅子の更に向こうのスモークに人の影が見えた。
須川がスモークの先を凝視していると、人影は同じ高校の女子生徒の制服を着ている事がわかった。
そして、更に凝視していると、須川の心に暖かい感情が湧き上がる。
「勢登さん…?」
須川がそういうと同時に、キョトンとした勢登聖子がスモークから抜け出してきた。
「あれ…?須川君?」
2人してキョトンとして向かい合ってると、その内、須川が噴き出した。
更に目を丸くする勢登に須川が優しく言葉をかける。
「ごめん、とりあえず座らないかい?」
そう言われた勢登は微笑み、少し駆け足で椅子に近づき、椅子に座る。
須川も目の前にあった椅子に着席しようとすると、今まで白い何もない空間が教室にいつの間にか変わっていた。
須川は自分の欲求がついに、夢にまで意中の相手を登場させるにまで至ったかと思い苦笑いし、夢の中の勢登は教室の空間が変わった事と須川の表情を見て困惑顔を浮かべていた。
着席後に須川は勢登に先ほど見た映画の話をする。
「そういえば、勢登さんから勧められた映画を観たよ。」
「本当!?」
そう言いながら、いつもよりも倍近いテンションで身を乗り出して反応してきた勢登に須川は少しおののいてしまった。
その瞬間に「あ…っ」と恥じらいながら勢登は席に着席する。
驚きはした須川であったが、その勢登の意外な態度に引くどころか、可愛さを覚えてしまった。
とは言え、夢の中と言えども可愛そうだと思い、先程の勢登の羞恥は見なかった振りをして須川は話を繋げる。
「というか、あの主演の俳優さん、あんなに悲しい演技できるんだね。ギャグがメインの人だと思ってた。」
その言葉を聞いた勢登は先程の恥じらいをまるで忘れたかの様に喋りだす。
「そう!あの人がそれまでに出ていた作品って基本ギャグ物とかが多くて、シリアスは縁遠いんだよね!でも!あの映画の中だとそのノリも持ち合わせながら失恋して自分でも情けなさを自覚しながらも……。」
須川は今度は驚きもせずに、夢中で映画の話をする彼女に相槌を打つ。
彼にとって、いつもは見られない彼女の無邪気な姿を消してしまわない様にしたのだ。
目の前で子供の様に夢中で喋る彼女は須川にとって愛おしく思えた。
……太陽の光が顔に差すと、須川は心地よい夢から覚めた。
少し朧げな意識の中で多幸感が溢れている。
しかし、段々と意識が覚醒していくと、その感覚は羞恥へと変わっていった。
のそりと体を起こした須川の顔は今や耳まで真っ赤に染まっている。
そして、彼はぼそりとつぶやく。
「我ながら恥ずかしいものだ…。」
その日、登校すると、いつもと変わらない様子の勢登が教科書を準備していた手を止め、微笑んだか微笑まないか微妙に判別つかない顔で「おはよう。須川君。」と声をかけてきた。
須川はそのいつものクールな印象を受ける勢登聖子のあいさつに安堵しながら、「おはよう。勢登さん」と返す。
そして、彼は着てきた黒いPコートと赤いマフラーを椅子に掛けながら、勢登の顔をちらりと見る。
昨晩の夢の中で出てきた勢登は無邪気過ぎてクールとは程遠い顔をしていた。
しかし、勢登が夢の中とは違う、いつもの態度を見せた事で、須川は結局あれは自分の求めた虚像に過ぎなかったんだなと再び思い直せた。
「いかんな…、勢登さんにそういう勝手な印象を押し付けてしまったら失礼だ…。」
そう考え、須川は休み時間になったら、いつもの様にお勧めされた映画の感想を、いつもと同じく静かに共有する。
勢登もいつもと変わらず須川の話に物静かな雰囲気で返答する。
これが、いつもの「正しい」勢登との会話。
須川は薄々感じている物足りなさを押し殺しながら自分をそう納得させていた。
しかし、その須川の努力を裏切り、その日の夜も彼女は須川の夢の中にやってきた。
「須川君?」
昨日と同じ夢の中の教室と似た空間に、あの明るい勢登が再び現れたのだ。
須川は自分の顔に手をあてて下を向く。
そこまで自分は明るい勢登さんを求めているのかと自分の飽くなき欲求に飽きれたのだ。
「え…?どうしたの?具合悪い?」
心配そうに夢の中の勢登が須川の顔を下からのぞき込んできた。
近くなった顔に須川は赤面し、思わず顔をガバっと上げてしまう。
その様子を見て、夢の勢登の顔が少し曇ったのを感じ取ると、須川は言い訳を始めた。
「あ…、違う違う!ちょっと思わず顔が近くなったから驚いちゃって…。」
夢の中で自分が作り出した虚像と思いながらも、何故か須川は夢の中の勢登に申し訳ないと弁明する。
すると、勢登は明らかにわかる程の微笑みを浮かべる。
「そうなんだ!良かったよー…嫌われてるのかと思ってしまった…。」
その安堵した言葉といつもは見れないニッコリとした笑顔に須川はドキッとする。
その感情を隠すように須川は言葉を返した。
「あー…昨日は映画の話したけど今日はどうしようか?」
その言葉に勢登も少し顎に手をあてて考えたが、彼女らしいと思える答えが返ってきた。
「映画を観よう。」
須川は思わずにやっと笑ってしまったが、その考えに賛同した。
すると、昨日と同様に存在していた机の上にカバースタンド付きのタブレット端末がいつの間にか置かれていた。
須川と勢登は、そのいつの間にか現れたタブレット端末に同時に首をかしげながらも起動してみると、映画一覧がパッと現れる。
「段取りが良い事で…」
と、タブレットを持った須川が内心思っていると、ヌッと横から勢登がタブレットを覗き込む。
慣れない須川は赤面したが、気を取り直して映画一覧を見続ける。
すると、勢登が思いついたかのように言葉を発した。
「あっ!そういえば、須川君からのおすすめ映画って聞いた事がないね…?」
須川は予想だにしていなかった質問に、たどだとしく返す。
「勢登さんが俺よりも映画知り尽くしてるから…なんか俺が勧めていいものかなって…。」
その答えを聞いた勢登は少しむすっとした。
「須川君、映画沢山見てる人が別に偉いわけじゃないんだよ?私も知らない映画は沢山あるし、何より……君の好きな映画を知りたいんだよ。」
少し顔を赤らめながらそう言った彼女に、須川も同じ様に赤面する。
「ごめん…。それなら俺の好きな映画があるんだけど、これは知ってる?」
そう言いながら、ある映画をタップすると詳細ページが現れ、映画のタイトルとビジュアルが表示された。
それを勢登の前に差し出すと、彼女は嬉しそうに返答する。
「ううん!じゃあこれ見よう!」
タブレットを机に立たせて、2人して少し離れた距離を保ちながら席に着くと、勢登が疑問を須川に投げかけてきた。
「自分で提案しといてなんなんだけど…、須川君は一回この映画観てるよね?大丈夫?」
「あー…まあ夢だから内容が忠実とは限らないし、もしかしたら別物の映画になってるかもしれないし…、全く同じでもいい映画だから気にしないよ。」
その言葉を聞いた勢登は目を丸くした後に、少し悪げな笑みを浮かべて自分の椅子を思い切り須川の隣へとググっと近づけた。
「へっ!?」と困惑する須川に勢登は満面の笑みで返す。
「夢だから!」
須川が勧めた映画は女性刑務所に入った女にピアノの才能があり、それを見出したピアノ教師との話。
意外な事に内容は須川が現実で観た内容に忠実だった。
それ故に、須川には新鮮味が欠けていたが、すぐ隣で髪を揺らしながら夢中で映画に釘付けにされている勢登にドキドキしながらも、そのリアクションの多彩さを楽しんでいた為に退屈では無かった。
……目が覚めると、須川は不思議と昨日よりは恥ずかしさを感じず、どちらかと言うと多幸感を感じてさえいた。
そして同時に寂寥感を感じずにいられない。
「もし現実でも勢登さんと一緒に映画を隣あって見られたら…。」
心の中で無意識にそう呟いてしまうが、それをかき消すかのように須川はベッドから出た。
そんな彼の自戒を手助けするかの様に、学校に到着するといつもの彼女が待っていた。
「おはよう。須川くん。」
夢の中とは違う温度感の勢登を見て、須川は少し心がキュッと絞まる思いをした。
だが、これが正しい自分の願望じゃない勢登なのだとすぐさま思い直すと、須川はいつもと同じようにと心がけて返す。
「おはよう。勢登さん。」
そして、いつもの様に席に着く、しかしそこでいつもと違う事が一つだけ起きた。
勢登が須川の肩をトントンと叩いたのだ。
何かと思いキョトンとしながら勢登の方を振り返る須川。
すると、ほんの少し顔に朱を差した勢登が口を開いた。
「あのさ…、最近観る映画が似通い過ぎる様になったから、須川君のオススメの映画があったら教えてくれない?」
夢の中のテンションとはかけ離れているが、その様子を見た須川は無意識にだらしない笑顔を浮かべそうになったが、抑えて少しの微笑みでもって応対する。
「いいよ。丁度オススメの映画があるんだ。」
2、夢先デート
自分のオススメの映画を一緒に観る夢を見た後に、現実でもオススメの映画を求められるという体験をした須川だが、それだけで夢と現実の関連を疑う様な事を彼はしなかった。
現実と夢がリンクしているなどという非現実的な事を信じられる気は彼にはさらさら無かったのである。
しかし一方で、その後も彼の夢には連日勢登が現れる様になり、なにもしないのもどうかと思ったので、そこから数日は映画を一緒に観るなどして過ごしていた。
そんな中、勢登がとある疑問を須川に投げかけた。
「これ、外に出る事は出来ないのかな?」
そう言うと、彼女は教室に瓜二つの、本来なら廊下に繋がる引き戸をガラガラと引く。
すると中から窓を通して見えていた真っ白な空間が現実と同じ廊下へと変化していた。
「おや?」
首を傾げながら勢登はそう言うと、恐る恐る廊下に足先だけつける。
そして意を決して飛ぶと、スカートが捲れ上がり、心配になっていつでも駆けつけられる様に起立していた須川は目のやり場をどうするか一瞬混乱した。
彼女の体は無事廊下に着地する。
「須川君!外出られそうだよ!」
そう新たな発見をして嬉しさがわかる調子で喋った勢登の元に須川も行く。
そして、焦った感じで彼女の行動に注意した。
「危ないよ!そのままスッと落ちるかもしれなかったのに……。」
少しムスッとした勢登は須川に言葉を返す。
「じゃあ須川君にやってと言われたらやってくれたの?」
須川はそこで素直に真面目な顔で返す。
「勿論やるよ。と言うか今度からここで何か試す時は俺を使ってくれ。君に何か起こる方が嫌だ。」
夢の中の自分が作った虚像でも勢登の姿をしている以上、須川にとって彼女に何かが起こるのは避けたい事であり、それは本心から出た言葉であった。
しかし、言われた当人は不意打ちを食らったかの様に固まり、しばらくして照れ隠しするかの様に笑いながら言った。
「あはは……冗談だよ……でも、それを言うなら私も須川くんに何か起こるのは嫌だよ……。」
勢登は須川に顔を見せない様にクルリと回り、足元の廊下を確認する為か、はたまた別な意図があるのか、廊下の床を足でトントンと叩いた。
そこから夢の中の校内探索が始まった。
現実でも2人のうち片方だけでも知っている場所は白い空間から現実のものと全く同じになった。
しかし、2人とも知らない場所(例えば屋上)に関しては白い空間のままであり、そこに足をつけようにも、そもそも、その白い空間に見えない壁がある事が確認出来た。
再び勢登が首を傾げて言う。
「なんなんだろうねこれ?」
「まあ夢の中だからこう言うこともあるでしょう。」
須川はそうも言いながらも、頭の中では違う考えが浮かんでいた。
せっかく勢登との夢を見ているのだから、どこか学校じゃない遠くへとデートに行きたいという考えだ。
その様な考えに須川が囚われていると、急に勢登が驚きの声を上げた。
「須川君!見て!」
なんだろうと思い、須川が勢登の方を見ると、先程まで白い空間に繋がっていた引き戸の先に、明らかに学校とは違う空間が広がっているのを確認できた。
勢登が恐る恐る引き戸に手をかけようとしたが、それを見た須川はその手を自分の手で静止させると、自分から引き戸を開ける。
その空間は須川と勢登共に見覚えがあった。
「海だ…。」
そう、そこには彼らの住む県内にある海水浴場があったのだ。
これに関しては2人とも目を丸くせざる得なかったが、少しして顔を合わせて頷いてから、須川が先に砂浜に足を踏み入れた。
波の音が響く辺りを見渡しながら、勢登が口を開く。
「ここO町の海水浴場だよね?」
「うん……そうだね、僕も何回か来た事があるから間違いないと思う……。」
何故、扉が海に繋がったかは大体の憶測が須川の中でついていた。
それを彼自身が強く望んだからだ。
そして、何故海なのかというと…。
「これ、前に私が勧めてた映画に海が出てきたからかなあ…?」
須川が思案するより先に勢登が答えを出してしまった。
確かに須川は以前彼女から勧められていた映画に海が登場した際に考えていたのだ。
「勢登さんと一緒に海に行ってみたい」と。
そして、先程は彼女とどこか少し遠くに行きたいと考えていた。
それなら……と須川は彼の考えを口に出してみる。
「もしかしたら……夢の中だから僕達が行きたいと願えばその場所に繋がるのかな?」
その言葉を聞いた勢登は提案で返す。
「じゃあ……試しに近場のシネコンを想像してみようか?」
そう言われた須川は素直にこくんと頷き、お互いに近場のシネマコンプレックスを念じ始めた。
「シネコン……シネコン……。」
そう唸る勢登の様子に少し吹き出しそうになった須川だが、我慢して自分も念じ続ける。
すると、先程海に移動する際に使った、砂浜にぽつんと残っていた引き戸の先に黒とグレーを基調にした空間が広がった。
恐る恐る扉を須川が開けると、そこには彼らが友人達や時には個人でよく使う地元の映画館の姿があった。
実際に自分達の考えが当たっていた事に驚きと喜びを感じながら、2人は顔を見合わせた。
……しかし喜んだのもつかの間で、須川はある感覚が自信に押し寄せて来るのを感じた。
「あっ……。」
須川がそう言うと、瀬戸は残念そうに手を小さく振り、それに須川も返す。
徐々に目の前が黒一色になり、間もなく彼は朝の光でまぶたを徐々に上げる。
完全に覚醒した後、彼は体を起こして残念そうに溜息をついた。
学校に行くと、いつもの様に勢登と挨拶を交わす。
しかし、その日の勢登は心なしか須川から見ても少し気が沈んでいるかの様に思えた。
どこか映画の話をしていても、いつもは声の調子が僅かに上がる時があるのだが、その日に関しては常に声が一定のまま僅かに沈んでいたのだ。
「大丈夫?何か元気ない気がするけど?」
須川が心配になり、思わずそう聞いてしまうと、勢登は無理に微笑みを作って優しい声で返す。
「大丈夫だよ……ごめんね。」
その顔に須川は見覚えがあった。
彼女と話すきっかけになった日に須川はこの表情を見た。
しかし、彼は深く彼女に踏み込めないまま言葉を返す。
「そう……。」
……その日の夜も須川は勢登の夢を見た。
いつもの教室からのスタートだったが、今回は先にいたのは勢登だった。
教室の窓の方を見て、鼻歌を口ずさんでいる。
その情景に須川は言葉を失った。
それはまさしく、今日、彼が想起した彼女との大切な日に酷似した状況だったからだ。
しかし、そのセンチメンタルな雰囲気は勢登が振り返り、満面の笑みで「須川君!」と言う事で破られる。
その笑顔に須川は、本当に自分にとって都合がいい夢だなあ……と思わずにいられなかった。
昨日の検証結果から2人はある結論に至っていた。
2人は机を間に挟みながら椅子に座って向かい、話し合う。
「私達が望めば、この夢はどこにも行けるっぽいね……つまり……どこにもデートに行き放題という事だ!」
「デ…!」
勢登の言葉に須川は耳まで真っ赤になる。
これまで女性との交際経験がない彼にとって、その言葉は劇物であった。
しかし、勢登も言ったは良いが、耳が紅潮しており、自傷ダメージを食らっていたので無傷という訳ではなかった。
気を取り直して、勢登が咳払いをした後に言う。
「だから……まずは水族館とかどうかな?須川君?」
その提案に須川は少し驚いた。
夢の勢登にしても、まずは映画関連の場所に行きたがるかと考えていた為だ。
しかし別段断る理由もない須川は笑顔で返答する。
「いいよ。」
「じゃあ!決定!水族館いこー!」
前回と同じ様に教室の出口のドアの前に立つと、彼らは水族館を念じる。
すると、ドアの小窓の先にイルカが向かい合った像と茶色を基調にした建物が見えた。
2人がドアを開き、足を踏み出すと、そこには須川も一度家族で来た事のある水族館があり、思わず声が漏れた。
「あー、ここか。」
「うん。昨日、海に来た時に、現実だとここから少し離れてるけど水族館があったなと思って。」
勢登がそう言うと、2人は歩きだした。
そして、須川が質問を投げかける。
「そういえば、なんで水族館?」
その言葉を聞いた勢登は人差し指を口の前にあてて、悪戯そうに笑う。
「へへへ……入ってからのお楽しみ。」
その水族館は、現実では休日ならば親子連れやカップルでごった返り、子供の叫び声や大暴れで何かしら音が聞こえ続けているのが常だったが、夢の中では来場者は須川と勢登しかいない為、静寂に包まれていた。
須川は、それに少し物足りなさを感じはしたが、一方で貸し切り状態の為に、普段は人が多くて、少し困難になってしまっている魚の鑑賞がゆっくり出来た。
小さくて可愛いピンクの魚、実際に見ると若干怖さのあるタコ、大きな水槽に入った銀色に光る魚群、足が長くて実際に夜に遭ったら変な声が出てしまいそうな蟹、赤紫や青紫のライトで照らされているクラゲ……。
どれも見応えがあるが、須川が勢登の様子を見ると、そこまで彼女が興味がある様には思えなかった為に、目当ての物は別だと感じ取れた。
そして、とある水槽を泳ぐ魚影を見た瞬間に勢登の目の色が変わった。
「須川君!サメだよ!」
そう言うと、彼女はサメが沢山入った水槽の前に駆けつけた。
水槽の中には、数種類のサメがおり、数は10頭程。
小さい物もあるが、中には勢登よりも身長が大きそうな個体もいる。
周りの照明が暗い中、水槽のライトだけが明るい。
その明りに照らされ、目をキラキラさせながらサメを眺める勢登に須川は何気なく聞く。
「もしかして、これが目的?」
すると、勢登は少し下を向いて頬に朱を差し、こくんと頷いた。
そして、ためらいがちに須川に問いかける。
「昔からサメ映画好きで……親にはグロテスクなの多いからって止められてたんだけど、隠れて見たりしてて、変……かな?」
須川は微笑みを浮かべて勢登の隣に立つ。
そして、優しい声で答えた。
「変じゃないよ。いいよねサメ映画。」
それは夢の中の勢登の話に限ったわけではなかった、現実の勢登が変わった映画を見ていたとしても彼はそれだけで勢登への好意が消える訳ないと考えていたのだ。
その声に勢登の顔は晴れ、同時に微笑みと共に頬を紅潮させ、そして、何気ないジョークを放った。
「この水槽が割れたら、私と須川君、ひとたまりもなく食べられちゃうね。」
「そうしたら、前に一緒に観た映画みたいに、サメの体にぴたりと張り付いて一緒に逃げよう。」
須川のとあるサメ映画に絡めた返しを聞いた勢登は満足そうに笑い、須川もつられて笑う。
蒼い巨大な水槽に照らされた2つの影は、その後も楽しそうにサメや映画の話を続けた。
しばらくの歓談の後に順路を進むと、そこには巨大なサメの歯型や剥製など、サメにまつわる展示が多くあるスペースが広がっていた。
そのサメにまつわる展示を勢登はまるで子供の様に楽しむ。
大型のサメの歯型の前に立つと、「須川くーん!」と彼を呼び、自分の身長と須川の身長とサメの歯型を手で比べる。
「あー…須川君は抵抗できそうだけど、私はダメだね……一飲みだ。」
「勢登さんはサメ映画基準過ぎるね……。」
須川の苦笑に対し、勢登は少し不服そうに返す。
「えー、映画とか見てるとそういう考え起きない?ここ映画ならミュージカルが始まるなとか、ここ映画なら感動的なサントラがかかるなとか。」
「あー…まあ分からなくもない。」
すると何かに気が付いたのか、勢登は早足でスペースのある一角に向かい始めた。
須川は首をかしげながらも、後を追うと、勢登の前にあったのはお土産のストラップだった。
ストラップの先には球体の天然石とサメの牙の欠片がついており、高校生が買えない額ではないが、少しばかり買うのは躊躇する額ではある。
勢登がそれをじっと眺めているのに須川が再び首をかしげると、彼女が口を開く。
「例えば、このストラップを見つけた時、私の中では感動的で壮大なBGMが流れてカメラが徐々にストラップに近づいていく画が想像できた。」
「……つまりは欲しいって事?」
「ご名答。」
そうニヤリとしながら言うが、少ししても勢登は特にストラップに触れようとしない。
勢登とストラップを交互に見た後に須川が疑問を投げかける。
「取らないの?」
すると、勢登が少し肩をすくめて、諦め気味に言う。
「欲しいけど……店員さんがいない事にはね。」
勢登はストラップコーナーの後ろを向く。
そこには、確かにレジがあり、現実だとそこでお土産等の会計をする様だった。
須川は自分が作った虚像なのに、その様な常識を持っている夢の勢登に意外さを感じたが、同時に疑問を持った。
「……水族館にタダで入ってる時点で気にする様な事かな?」
その疑問に勢登は困惑の様相を見せる。
どう返したら良い物かと、考えあぐねている様だ。
なぜ彼女が悩んでいるかを須川は図りかねたが、彼女を困惑させるのも悪いと思い、切り上げの言葉を発する。
「まあ……今ここじゃなくて、げ……。」
そこまで言いかけて、口を閉じる。
今度は勢登が須川の発言を図りかねる番となったが、須川はすぐ様に別の言葉を紡ぐ。
「まあ、ストラップは置いておこう。次行こうか。」
そう言うと、勢登も微笑みと頷きで同意し、2人は歩き始める。
「今、ここじゃなくて現実で買えばいい。」
夢の中にしかいない相手にそんな事を言っても詮なき事。
そう考えた為に、須川は言葉を切ったのだ。
それからは順路通りに進み、子供用の巨大な魚の頭がついている館内遊具、淡水の魚等のコーナー、そして、今はイルカしかいないイルカショー用と思われるスペースを通ったが、目当ての物は既に見終えていた為か、サメの水槽の時ほどの盛り上がりはなかった。
途中に巨大なサメのオブジェや骨格が天井からぶら下がっており、それに関しては勢登が食い入るように見ている程度であった。
順路をめぐり、出口が見え始めた時に、須川は自分が夢から覚醒するのではないかという感触を覚えた。
初回と2回目は覚醒のタイミングが急に来た感じではあったが、何回かこの勢登と逢う夢を見ていくうちに、映画のフェードアウトの様に段々と意識が暗闇に沈んでいく感覚が掴めていたのである。
その場で立ち止まると、勢登も悟った様で歩みを止めて須川に語りかける。
「そろそろ?」
「うん。そうみたい。」
その言葉を聞いた勢登は、どこかしら悲しみを帯びた微笑みを浮かべながら、須川に小さく手を振る。
「バイバイ須川君、また今夜。」
……部屋の中に光の柱が差している。
いつもの見慣れた部屋を徐々に視認すると、須川はベッドから立ち上がり、背伸びをする。
本当はよろしくない事だと思いながらも、彼は言葉にはできない充足感を感じていた。
それから毎夜、夢の中で2人だけのデートが続いた。
2人の共通の趣味の映画館での映画鑑賞、モールでのウィンドウショッピング、カラオケ、地元にある大きな公園散策、2人ともすっ転びながらのスケート場やスキー場……。
外出の気分ではない時には、いつもの教室が彼らの憩いの場となった。
次第にデートを重ねる毎に距離が縮まった彼らは、机の上にタブレット端末を置き、隣り合って動画を見たり映画を見たりする事も段々と無意識に出来る様になっていった。
デート先が現実的に行けそうな所ばかりになったのは理由があり、一度思い切って海外に行きたいと考えた勢登がフランスのモンサンミシェリを提案したが、扉の向こうにあったのは、勢登が画像で見たモンサンミシェリのハリボテであり、その事によってデート先は彼らのうち誰かが実際に行った事のある場所に限られると判明したのだ。
それでも、夢の中のデートは彼らにとって刺激的であり、終始笑いが絶える事がなかった。
しかし、そんな幸せな夢と現実は反比例するかのように乖離していった。
3、ティファニーで朝食でも食べそうだね
夢の中では須川と勢登の距離は縮まったが、現実の2人の関係には暗雲が立ち込めていた。
須川の方の原因は明白である。
夢の中の勢登との距離感が縮まり過ぎてしまっていたが為に、現実での勢登との距離感を見失い初めていたのだ。
外見に関しては現実と夢で同じであるが為に、思わず夢の時の様な対応をしかねないと考えてしまい、須川の勢登への態度はぎこちないものへとなっていた。
一方で、勢登の方も何故か声が常に沈む様になっていた。
映画の話をするにしても心ここにあらずという感じで、会話がぶつぶつと切れる事が多くなっていたのだ。
「勢登さん?聞いてる?」
と須川が時たま聞く事さえあり、その声にハッとすると勢登はただ下を向いて「ごめん…。」と謝る事が多くなっていった。
そんな勢登の様子を見て、須川も「大丈夫だよ。」と優しく返していたが、段々と自分と話すのに乗り気ではないのでは?と声をかけるのに躊躇をし始め、最終的に2人が話すのは朝の挨拶のみという事がザラになっていた。
そんな状況が続く中、須川はますます夢の中に早く行きたいと考えてしまっていた。
夢の中では勢登との関係は良好なのだ。
だからこんな彼女と話すのが少なくなっていく現実はあまり見たくない。
そんな風に無意識に考えてしまったのだ。
しかし、現実で起こったが事に夢が影響されるのはよくある事。
その日、彼は夢の中でやらかしをしてしまった。
いつもの教室に2人でいる際に、夢の勢登は次のデートプランを考えていた。
「2人が知っている範囲なら更に遠くに行っても良いのかもね。須川君と私で知っている遠くの県に今度は行ってみる?」
「うん…。」
須川の心のこもってない相槌に勢登が言葉をかける。
「大丈夫?なんかあったの?」
その言葉に須川は自己嫌悪を感じた。
この目の前にいる勢登は自身が夢の中に作った虚像だ。
自分を心配してくれて、デートをしてもいつも笑顔で、サメ映画が好きで、意外とウインタースポーツは得意じゃない。
そして明るい。
だが、現実の勢登の事を須川は知らなかった。
映画が好きだけど、どんな映画が特に好みかさえもわからない。
そして映画以外の事もよくわかっていない。
知るのを気がつかないうちに止めてしまっていたのだ。
夢の中が心地良過ぎて自分に都合が良過ぎたから。
そんな考えが頭を支配していた為か、須川はあまりにも迂闊な言葉を吐いてしまった。
「どうせ夢だよ……。」
瞬時に須川はハッとしてしまい、勢登の顔を見る。
彼女は今にも泣きそうな顔を浮かべていた。
そして、彼女は走り出すとスッと姿自体がどこかに消えてしまった。
須川はドアを使い、様々な場所で彼女の姿を探す。
水族館、モール、カラオケ、大きな公園、スキー場やスケート場、それ以外のデート先も……。
しかし、どこにも彼女の姿はなかった。
そして、いつもの覚醒の感覚が彼を襲った。
「なんで、もう……。」
その日の目覚めは最悪だった。
いつもは明確な夢を見てる浅い睡眠をしてる筈なのに充足感があったが、その日は明らかに体の疲れが取れていなく、睡眠不足気味だったのだ。
とは言っても、学校には行かねばならず、須川はノソノソと支度を始めた。
学校に着くと、いつもの席に勢登はいなかった。
別に現実の勢登は須川とは関係は濃くないし、時たま話す程度の関係でしかなかったが、須川は夢の件もあってか、らしからぬ行動を取る。
廊下に出て彼女の姿を探してしまったのだ。
すると、廊下の奥の方に勢登と背が高めの男子生徒が話をしている姿を見つけた。
男子生徒の顔は須川から見て背を向けていた為に見る事が出来なかったが、勢登の顔は見る事が出来た。
……勢登は夢の中の彼女の様に無邪気な笑みを浮かべていた。
途端に須川は教室の中に戻り、自身の席からバッグ、コート、マフラーを掴むと、友人が「直道!?どこ行くんだ!?」という言葉とクラスメイトの驚いた表情を背に教室から出ていく。
そして、そのまま駅へと向かい、電子カードで改札の中に入っていく。
少しホームで待った後に電車に乗り、とある駅で降り、バスに乗る。
彼が行き着いた先はとある水族館だった。
水族館の中は平日という事もあり、空いてはいたが、夢の中とは違い、人の声もある事で雰囲気が全く違うと感じられた。
その頃になると、須川も冷静になっており、馬鹿げた事をしてしまったという考えと自己嫌悪が彼を襲う。
水族館に来たのはもしかしたら夢への無意識の逃避、夢の中の彼女を求めてしまったのではないかと考えたのだ。
順路を回り、サメの水槽の前に来た時に、他には個人の客がもう1人いるぐらいの中で彼は呟く。
「気持ち悪いな……俺。」
順路を更に行くと、夢の中で見たサメにまつわる色々なものが置いてあるスペースへと辿り着いた。
そこには例のストラップが置いてあり、須川はそれを手に取り、会計へと持っていった。
水族館から出た須川は再びバスに揺られている。
とあるバスのアナウンスを聞いた所で、彼は降車のスイッチを押す。
バスから降りて彼が少し歩いてたどり着いたのは、見覚えのある海水浴場だった。
波が見えるが、音は聞こえないぐらいには離れた場所にある段差に腰掛け、須川は先程買ったストラップを袋から取り出す。
ついている天然石が日の光に照らされてキラリと光っている。
その天然石と先についたサメの牙の一部を眺めた後に、須川はギュッとそれを拳の中に握った。
帰路に着くと、親からの激しい叱りを受けた。
無断欠席をした上にサボって遅くまでどこかに行っていたのなら尚更な事だ。
こってり絞られた後、いつもの様に夕食や入浴を済ませると、その日はベッドに入った瞬間に泥の様な眠りに陥った。
須川は夢を見て、勢登にも会ったが、その勢登はいつもの夢の中の彼女ではなく、その彼女の姿に須川は覚えがあった。
とある映画のテーマの鼻唄を口ずさみながらコンビニで買ったクロワッサンを咀嚼し、同じくコンビニで買ったカップ付きホットコーヒーの蓋を取ったまま飲み、教室の窓の向こうを見ている。
その行動自体が、そのとある映画のワンシーンの真似だ。
しかし、映画のワンシーンに出ている女優は何気なく食事をしている風だったが、その時の勢登は沈んだ顔をしていた。
鼻歌も明るい感じではなく、なにかしら嫌な事があったのを誤魔化すかの様に歌っていたのだ。
それ故にか、窓を見ているのに反射で映っていた筈の須川の姿を認識さえしてなかったのである。
須川はそんな勢登に向かって話しかける。
「ティファニーで朝食でも食べそうだね。」
その言葉に勢登は体をビクッとさせた後に、ゆっくりと体をこちらに向ける。
コーヒーを溢しそうだったと、この時思ってたなと須川は懐かしんだ。
すると勢登は興味深さと戦々恐々が入り混じった声で須川に問いかけてきた。
「知ってるの?」
その言葉に須川は笑顔で返す。
「うん知ってるよ。やりたくなるよねあのシーン。」
その言葉を聞いた時に、勢登が僅かに喜びと無邪気さを含んだ顔を少しでも浮かべた事が、須川の頭に刻み込まれていた。
その顔はすぐさま奥に引っ込んでしまったが、それが須川に不思議な夢を見させた原因なのではないかと彼自身は考えた。
この時から彼は勢登聖子と徐々に話す様になったのだ。
須川は彼女のあの顔をまた見られるなら見たいと考えていた。
あの顔が……もしかしたら彼女の本当の顔なのではないかと興味を持ったのだ。
しかし今では、その考えは傲慢で自分勝手なものだったのではないかと考えに変わっている。
普段のクールな方が彼女の本当の顔ならば、自分はただ勝手に自分の理想像を彼女に押し付けていたという考えを今は持っていたのだ。
それが夢に現れて、そしてその環境に甘えてしまっていた。
だから、今こそ彼は決断を下す。
覚悟が決まったからなのか、彼の周りの風景は学校から変わっており、最初にドアで移動した砂浜にいた。
後ろから砂を踏む音が聞こえたので振り返ると、そこには夢の中の勢登が佇んでいる。
優しい口調で須川は口を開いた。
「ここにいたんだね。」
夢の中の勢登は下を向いている。
表情は怒っているというよりかは自分の行動を反省してそうな顔をしていた。
彼女に対して須川は頭を下げる。
「この前はゴメン。僕が全部悪かった。」
そう言われると、勢登は驚いたような顔してかぶりを振る。
「違うの……私もわかってた事だったけど……。」
須川は頭を上げると、少し息を吸って吐いてから言葉を続けた。
「だけど……もう終わりにしようと思うんだ。この夢も、だから……これ。」
そう言うと、須川は例のストラップを取り出して勢登の前に差し出した。
それを彼女は掌で受ける。
「……これは俺なりのお別れの印。夢は楽しかったけど、夢である以上、この先はないと思うんだ。」
須川がそう言うと、夢の中の勢登は涙を流していた。
「うん……私も気づいてはいた。だから……この夢は今日でお終いだね。」
そして、頬に水滴が流れながらも、彼女は満面の笑みを浮かべる。
須川はその笑顔が凄い好きだったと再認識した。
出来るなら抱き寄せたいとも思ったが、それさえも今はするべきではないと考える。
自分がすべき事は、ただこの夢から覚める事だと覚悟を決めているのだ。
少し息を吐いた後に、須川は少しかすれた声で勢登に別れの言葉を告げる。
「じゃあ……楽しかったよ、勢登さん。さようなら。」
「私も楽しかったよ、須川くん。バイバイ。」
そして、あのフェードアウトの感覚が訪れ、視界が完全に暗くなる。
……須川が再び目を開けると、まだ日の光が差していない時間だった。
体をのそりと起こしたと同時に留めていた涙が目から溢れる。
彼はその涙を拭おうともせず、ただ流れるままに任せた。
その後、泣き疲れたのと寝足りなかった事もあってか彼は二度寝をしたが、夢を見る事はなかった。
勢登との最後の夢を見てから2日間が経った。
その間、須川は現実の勢登と会話をする事はなかったが、これは彼が怖気づいた訳ではなく、ただその2日間が土日なだけであった。
そして、休日明けに須川は、かのストラップをカバンにかけて、いつもより早く外に出る。
学校に着くと、そこには彼女と話すきっかけになった日と同じ様に、勢登が教室の窓の向こうを立ちながら見ていた。
そして例の映画の主題歌を口ずさんでいる。
それは、かつての様に暗い気分を誤魔化す様な感じではなく、普通に好きな歌を口ずさんでる様に感じられる。
そして、その右手には何かを握っているかの様に見えた。
須川はその後ろ姿に声をかける。
「おはよう。勢登さん。」
勢登は振り向くと、明らかにわかる微笑みで返した。
「おはよう。須川くん。」
少し沈黙が続いた後に、須川が話を続ける。
「今日はクロワッサンとコーヒーはないんだね。」
「うん……今日は大切な話があるから、喉に通りそうにない……。」
その言葉に須川はあの彼女が笑いかけていた男子の事を思い出した。
もしかしたら彼が他の男と仲良く話す事さえあまり快く思わなく、須川との会話や挨拶でさえ止めるように彼女に頼んだのかもしれない。
しかし、そうであっても、これから自分の気持ちを彼女に伝える意思に変わりはない。
それが自分勝手な行動だとわかっていても、この気持ちを終わりにする為にも、そうせざる得なかった。
「あの!勢登さん!」
意を決して、自分の思いを伝えようとしたその時、鞄のストラップが揺れて金具にぶつかり音を立てる。
そのストラップを見た勢登は目を丸くしており、須川は一瞬何に彼女が驚いているのか理解できなかったが、彼女の視線がストラップの方に集中しているのを理解する。
そして、勢登が右手を開くと、そこには須川が持っているものと同様のストラップがあった。
2人はそのまま目を丸くして、その場に立ち尽くした。
4、夢の続き
とある行き先に向かっている電車に揺られながら、2人の私服を着た若い男女が隣あって座っている。
男の方は白いカラーシャツにベージュのスリムスラックス、靴は紺の生地と白いソールのキャンバスシューズを履き、黒いキャンバス製のトートバッグを肩にかけている。
女の方は、ゆったりとした白色のクルーネックニットにネイビーのロングスカート、淡い紫のパンプスを身に着け、太ももにグレーベージュの手提げかばんを置いている。
「なんか凄い体験しちゃったね……。」
女の方がふと、感慨深そうに男の方に語りかける。
「生の映画を観ている……いや……体験した様なものだったね。」
男は今でも俄かに信じられない様な顔をしながら返し、そして言葉を続ける。
「まさか、ストラップを夢の中で渡した後に、すぐに買いに行ってたとはね。驚いたよ。」
その言葉に女は不服そうに返す。
「抜け駆けしたのは須川くんの方だけどね。」
男が少したじろいだのを見て、女はふふっと笑いながら言う。
「まあでも、これがなかったら気がつけなかったし、須川くんの勘違いも解きづらかったかもしれないから、結果オーライかな。」
そう言うと、彼女は鞄についたストラップを見る。
その目には優しさが溢れていた。
これは夢ではない。
現実の須川と勢登は電車に揺られながら、今回のデート先に向かっていたのだ。
そして、須川が口を開いた。
「そう言えば、あの親しげに話していた男子は誰だったの?」
その口調にはなるべくそうしない様に心がけたのにも関わらず、少し不機嫌な感情が乗ってしまっていた。
しかし、勢登はその様子を見て、少し満足気に微笑んで返す。
「3年の先輩だよ。あの人には前から言い寄られてたんだ。でも、二言目には君はクールだからいいねとか、あの人が望む私の像に合った趣味を押し付けられそうになってた。」
勢登の顔は少し沈み込む。
その顔を見て須川は、あの鼻歌を口ずさみながら暗い気持ちを誤魔化そうとしていた彼女を思い出した。
勢登は話を続ける。
「私ね、色んな人からクールだねとか、いつも落ち着いてていいねって言われてたんだ。
顔つきがいつも凛々しいからそう見えるんだって。でもね、そうじゃないのは須川君は知ってるよね。
私はサメ映画が好きで、なんなら他のグロイ映画も全然いけるんだ……。
でも、それを言ったらドン引きされちゃった事があって、それから自分の趣味とかテンションを抑えてたら、いつの間にかクールで静かな人って事ってなってた。」
須川から見ると、話をしている彼女は微笑みを浮かべているが、目は悲しげだった。
「だから、久々に趣味が通じた人が嬉しかった。最初は綺麗目な映画を紹介して様子を見てたけど、ちょっとずつ好きな映画のジャンルに寄せてこうと思ってた。だけど、そこであの夢を見ちゃって、夢の中の須川君なら自分の姿をさらけ出してもいいかなって、色々はっちゃけちゃった。」
そこで、勢登はにっこりと笑みを須川に向ける。
須川はやはり勢登にはこの笑顔が一番似合うと思いながら微笑みを返した。
「まさか、夢の須川君も君自身だったのは驚きだったけど、それを知らない時は、夢の君とばかり仲良くなり過ぎてて、夢から覚めた時が一番嫌だった。そして、自分の本当の姿を現実の君にも見せたかった。でも、それをやったら君も引いちゃうかと思って怖くてできなかった。そしたらさ、凄いストレスが溜ちゃってさ……。」
「だから、あの時に沈んでたんだね。」
須川は勢登の言葉を聞いて納得すると共に、嬉しさを感じた。
あれは自分と話す事が嫌になった訳ではないと分かったからだ。
勢登はこくんと頷き、須川の方を見て話を続ける。
「そう。でも、夢の中で君の言葉を聞いたら、このままじゃだめだと思って、君との関係を進めるために、自分を偽るのをやめようと思った。だから、あの先輩にも本当の私を見せてあげたんだ。
サメ映画の話をテンション高く、それも早口で。」
勢登の顔はニッコリしていたが、その顔は何処か恐ろしさを感じ取れた。
しかし、須川の心は少し複雑だった。
自分だけが知っていると思っていた彼女の魅力を他の人に向けられていたのが、自分でも子供だなと思いながらも嫌だったのだ。
そして、その感情は知らぬうちに顔に出てたらしく、その様子を見て、勢登は諭す様に喋りかける。
「先輩はむしろ若干引いてたよ。それを君に見られているとは思わなかったけど……。」
そして、須川の目をまっすぐ見て、イタズラっぽく笑いながら言う。
「大丈夫。私は今、あなた以外の男に見向きする気もないから。」
その言葉に須川の顔は真っ赤になっていたが、勢登も自信満々に言ったはいいが、耳が真っ赤になっており、自傷ダメージを食らっていた。
しかし、自分だけが恥ずかしがっていると考えた須川は反撃に出る。
「俺も……今、勢登さん以外見向き出来ない程に君が好きだよ……。」
そう言われたこと勢登はノックアウトされてしまった。
2人は共に顔を真っ赤にして下を向いてしまう。
夢の中みたいに、すぐ様目的地に着く事は出来なくなったが、彼らは最早そんな事は気にしていなかった。
これからは、その過程をも楽しむ事が出来、何よりデートの終わりを彼ら自身で決める事が出来るのだ。
楽しそうに話す2人を乗せた列車は、目的地に向かって走り続ける。
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