今、うまれる

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彼の勝手な捏造エピソードには正直鼻白んだが、小説にするくらいなのだから、借りたまんまの一万円は、彼の心にもしっかりと引っかかっているのだろう。 あのいい加減な彼が、という驚きと、国民的人気を獲得した現在の彼の中に、少なからぬ存在感で自分が居座っていることを知った悦びが、季節外れの(ひょう)のようにあたしを打った。 何度も、何度もその章ばかりを繰り返し読んでいるうちに、ある閃きが線香花火のようにパチリと弾けた。鮮やかに火花を散らしたあと、それは確信を伴って、あたしの中にぽとりと落ちた。 桐嶋は、待っている。あたしがたまごの殻を突き破り、うまれる時を。 付き合っていた当時、普段本など滅多に読まない桐嶋なのに、あたしの書いた小説を一生懸命に読んで、絶賛してくれたことがあった。 「かすみには才能がある! 絶対にプロになれるよ!」 あの章の結末には、きっと、あたしへのメッセージが込められているのだ。その才能を、眠らせたままでほんとにいいの? と。 それに気づいた瞬間から、あたしの人生は動き始めた。
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