裕未香(ゆみか)(源氏名・ゆか)

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夜は思ったほど客が入らず、女の子があまってしまう状態で、理寿とさおりさん以外は暇していた。 富樫さんに勧められ、あたしは十一時に早上がりすることにした。久しぶりにワゴンに乗らず、電車で帰る。 夜十一時台の電車はくたびれた乗客を詰め込んで、空気はどんより濁ってた。  あたしと統哉の愛の巣は住宅街の奥にあって、駅を出て徒歩十五分。ちょっと遠い。 しばらくは周りに何人か、同じ方向に向かって歩く勤め帰りらしい人たちがいたのに、一人また一人といなくなって、気付けばブロック塀に囲まれた狭い路地には、あたしのミュールの音だけが不気味に響いている。 他に、音はない。道の両手を塞ぐ家々はどこも窓の明かりが消えて、みんな息を止めているようだ。  今頃、統哉は何してるんだろう。この時間だったらまず、勤務中のはず。 今統哉の隣には誰が座っているのか、統哉はその子の手を握ったり、甘い言葉をささやいたりしているのか。 あたし以外の女の子に色目を使って、本気にさせる。それがホストだってわかっちゃいるけど。  やっぱりあたしには、統哉は向いてないのかもな……そんなことを考えながら星のない夜空を見上げた時、近づいてくるせかせかした足音に気付いた。鋭く軽い音は、たぶんハイヒールを履いた女だ。  携帯を取り出しながら自然な雰囲気を装って止まると、足音も止まる。走り出せば、足音も走る。振り返ると長い髪を山姥(やまんば)のように風になびかせ、目をぎらぎらさせた女があたしを睨んでいた。 「待てよ!! このヤリマン!!」  フリルを重ねた白のワンピースにグレーの半そでパーカーを重ねた、安っぽい女だった。外灯の光に照らされ、右手に持った長いものが鈍い輝きを放つ。包丁だ。 冷静なあたしもさすがに血の気が引いていく。ついでに足がもつれ、派手にこけた。ショートパンツから伸びた膝を思いっきり打ちつけ、手のひらもすりむいたけれど、痛いだなんて言ってられない。  獣みたいな声を上げながら女が包丁を突き立て、向かってくる。転がるようにして避けると、チュニックの裾が避けた。包丁が当たったらしい。間一髪。 ぐらぐらする足に力を入れ、ブロック塀にもたれるようにしながらなんとか身体を起こすと、女が震えながら振り向いた。嫉妬にひきつった醜い顔も包丁を持つ手も拒食症患者みたいな細っこい脚も、がたがた揺れている。 「死ね。マジ死ね。殺してやる!!」  両手で包丁を支えながら突進してくる女の髪と肩を引っつかみ、腹に膝蹴りを入れた。 ぎゃあ、と大げさな悲鳴を上げる頬に一発渾身のビンタを食らわせるともう一度悲鳴を上げ、アスファルトの上に膝を折ってしまう。 足元に転がった包丁を蹴り上げると、ゴミ集積所から溢れたビニール袋に当たって、止まった。  あたしはこう見えても元ヤンだ、腕っぷしには自信がある。しかしあっけない。あっけなすぎて、こっちが拍子抜けする。  アスファルトにぺたっと座ったまま、女はぎゃあぎゃあ喚き出した。誰か警察呼んだりしないかなぁ、と周りの様子がちょっと気になる。
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