夕菜(ゆうな)・源氏名やよい

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「僕は新人発掘大好きでね。君みたいなおどおどして、恥ずかしそうなのがいいの。ここ入ってどれくらい?」 「まだ二ヶ月、です」  あたしのセールスポイントはおどおどした素人っぽい雰囲気らしくて、初めてのお客さんにこの質問をされたら必ずこう答えなさいと富樫さんから言われている。 ほんとはもう一年近くここに勤めてるのに、あたしは永久に新人だ。目の前のおじさんは細い目をますます細くした。 「そっかぁ、二ヶ月かぁ。そんな感じだよねぇ。可愛いなぁー」  何それ、見ればわかるとかいって全然わかってないじゃない。  とは言えず、いつも通りヘラヘラ笑っていると、おじさんがぶちゅうと唇を合わせてきた。臭い息がもろに顔にかかって、吐き気がこみ上げてくる。唇がちょっと退いた瞬間、早口で言った。 「あ、あの、あたしキスはちょっと」  嫌なことは嫌と言ってもいい、それが店ルール。だけど、そのルールが通用しないお客さんもいる。 「えーいいじゃん。ちょっとだけ、ちょっとだけだからぁ」  甘いような苦いような、変な味の舌が唇を割って中に侵入してくる。 口の天井をつつかれるのも舌を吸われるのも歯茎を舐め回されるのも、口の中でナメクジが這い回ってるみたいだとしか思えなかった。  鳥肌を立て、体中を好き放題にまさぐられる責め苦に耐えながら、さっき見た炎天下の歓楽街を行くカップルの姿を思い出す。 あたしは何をしてるんだろう。本来なら人生で一番楽しいはずの、ハタチの夏に。 あんなふうに無邪気に笑いながら、大好きな人と手を取り合う二人だっているのに。立場も年頃も同じ彼らとあたし、だけど違いすぎる。  さんざんな時間が終わって、おじさんは入り口でもう一度ねちっこいキスをひとつしてから、帰っていった。 休憩室に入った途端、さおりさんとまゆみさんと富樫さんの顔を見たら突っ張っていたものがはじけ飛んで、涙が溢れてくる。 「やよいちゃん!? 大丈夫!?」  三人とも慌てて駆け寄ってくる。ほんの一瞬でも、そこに本物の愛情がないんだとしても、人の優しさがとにかくありがたくて、まゆみさんにしがみついて泣いた。 泣いて泣いて涙が出るだけ出てしまってちょっと気が済んでから、わけを言った。あぁ、とまゆみさんが頷く。 「嫌だよね、ねちっこいのが一番。わかる。あたしも、未だにトリハダたつもの、そういう人」 「キスされるのが嫌ならこの店やめなよ」  さおりさんの冷ややかな声がした。顔を上げると、さおりさんは呆れたような、軽蔑するような目であたしを見下ろしていた。 「やよいは、ハンパなんだよ。キスがダメとかオヤジがダメとか、そんな甘ったるいこと言ってるならファミレスでバイトでもすれば? あ、無理か。あんたすっトロいもんね、ウエイトレスなんて務まらなさそう」 「ちょっと清美、そんな言い方って」  まゆみさんがつい、さおりさんを本名で呼んだ。さおりさんはどうでもいいって顔をしてトイレ行ってくる、と休憩室を出て行く。 富樫さんに早上がりするかと聞かれ、首を縦に振った。富樫さんは優しい。さすがは店長、こういう仕事をしている女の子の心の動きをよくわかっていると思う。わかっているけれど、同情はしてくれない。  さおりさんの言うとおりだ。あたしは風俗嬢に向いていない。
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