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日が暮れる直前の、西に傾いた太陽が空気を鈍いオレンジに染める街。
まだ気温は高いけれど時々吹く風は乾いていて、汗で湿った肌を気持ちよく撫でてくれる。
葱が飛び出したエコバックを提げ、ベビーカーを押して歩く若いお母さん。
プール帰りらしく、カゴに水着の入ったビニール袋を入れて自転車を漕ぐ小学生。
ホテルを目指しているのか、しっかり手を握り合いながら秘密を共有するような顔で歓楽街のほうへ行く若い二人……
夏の夕方を彩る人たちはみんな、なんて楽しそうなんだろう。
やっぱり、夏は嫌いだ。眩しい世界に、眩しい人たちの姿に、自分のみじめさをとことん思い知らされるから。
世界が永遠に灰色の冬に閉ざされてしまえばいいのに。空も土も空気も目に映るものすべてが灰色の世界。やがてそこに生きるあたしも灰色と同化してしまえば、自分と周りとの差を感じて暗い気持ちになることもなくなるはずだ。
「こーんにちはっ」
眩しい人の代表のような声が、背中でした。
振り返って、絶望的な気分になった。あたしやみんなにいつも声をかけてくる、あのティッシュ配りの男の子。
反射的に、無視しようとした。顔を逸らして俯き、足を思いきり速く動かすと、彼はもっと速いスピードであたしの隣に回りこみ、顔を覗き込んでくる。
「いつも夜までいるのに、なんで今日はそんなに早いの」
「ちょっと体調崩しただけです」
わざとそっけなく答えた。話しかけてなんかきてほしくない。あなたと話すことなんかない。どうせあなたは、風俗嬢という人種を面白がってるだけなんでしょう?
しかしあたしの無言の抵抗はまったく伝わってないらしく、カラッと軽い声が返ってくる。
「そっか。生理?」
「違います」
無視するつもりだったのに、顔を上げて思いきり睨みつけてしまった。まったく、なんて人だろう。こんなセクハラ発言、平気でするなんて。
どの女の子にもこんなことを言うの? それともあたしが風俗嬢だから、生理の話ぐらい恥ずかしくもなんともないだろうってこと?
「冗談、冗談。そんな怖い顔しないでよ」
ケラケラ笑う彼はほんとに能天気でなんにも考えてなさそうで、そんな笑顔を見てたらあきれてしまって、更に文句を言う気がなくなった。きっとこの人は何も考えていないんだ。
「大体、なんであたしがいつも夜までいるとか、そんなこと知ってるんですか」
「君のこと、よく見てたもん。やよいちゃんでしょ?」
突然、店の外で源氏名を呼ばれて頬がひきつる。その反応まで楽しむように、目の前の彼はニッと目で笑う。
たぶん、歳はあたしと同じぐらい。まだ幼さを残した顔立ちは栗色の髪とよく相まって、丸い目も楽しそうな口元も底抜けの能天気さを表していた。
着ているものはごく普通のTシャツとジーパンだけど、膝のところのさりげない破れ目やウォレットチェーンについたダイスのキーホルダーなんかに、小さなこだわりを感じる。
「やよいちゃんって、明らかに他の女の子と違うよね。俺、このバイト始めてもう三ヶ月経つし、あの店にどういう子がいるのか大体わかってきたけど。やよいちゃんだけ、パッと見てわかるほど毛色違うからさぁ」
やっぱり、客観的な目からもそう見えるらしい。あたしは風俗嬢に向いてない風俗嬢で、第三者からもすぐにそれが見抜かれてしまうんだろう。
いつのまにか並んで歩くあたしたちの隣を、制服姿で自転車を漕ぐ女の子が通り過ぎていく。
「単刀直入に聞くけどさ、やよいちゃん、なんでこんなバイトしてるの?」
「夢があるんです」
「どんな夢?」
「秘密です」
「そっかぁ、秘密かぁ」
と、例のごとくケラケラ笑ってから、質問を変える。心のドアを閉ざされた痛みなんてちっとも感じてなさそうな顔で。
「やよいちゃん、源氏名じゃないほんとの名前は?」
「秘密です」
「そっかぁ、秘密、多いんだね。俺は正義。正義って書いてマサヨシね。A学の二年」
A学はこの辺りで一番近い大学で、グレードはあたしの通うH大学の少し上。二年生ってことはもしこの人が浪人も留年もしていなければ、同い年ってことになる。
正義くんはごく自然に、いやらしいムードなんて欠片も見せずに、言った。
「ねぇ、よかったらこれからデートしない? 俺バイクだからさ、後ろ、乗ってよ」
「あたし、体調が……」
「嘘でしょ、そんなの。仮病だってバレバレだよ」
笑うと、少し出っ歯気味の白い歯が光る。そんな正義くんを見ていたら、断る気力なんてどこかに吹き飛んでしまった。
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