理寿(りず)・源氏名りさ

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「はい、お疲れさん」  カウンターの前で富樫さんから今日の稼ぎを受け取る。私大の高い学費と家賃を負担してもらってる上、生活費までお母さんに払ってもらうのが申し訳なくて始めた夜の仕事。 食べていければ十分なのに、いつのまにかそれを遥かに超える貯金が出来ていた。十八歳にとっては、一生暮らしていけそうな額。 使い道なんてわからないまま、さおりさんみたいに服やアクセサリーやブランド品を買い占めようとも思えないまま、お金は日々降り積もっていく。  安物の財布に万冊を押し込んでいると、富樫さんがちょっと身を乗り出して聞いた。 「りさちゃん、今日は車に乗ってかないの?」  十二時には既に終電が終わっている子のために、店には迎えのワゴンがある。女の子みんなで乗って、家まで送ってもらうのだ。ぎりぎり終電が間に合うあたしも、二回に一回はワゴンに乗って帰る。 「いえ、今日はいいです。友だちと待ち合わせてて」  富樫さんは何か感づいていたのかもしれないけれど、何も言わなかった。そう、と小さく顎を動かしただけ。  「CLOSE」の札がかかってるお客さん用の出入り口から出て、控え室に向かう。着替え終わって二人頭を寄せ合っておしゃべりしてるさおりさんとまゆみさんに、小さく会釈をする。会釈を返してくれるのはまゆみさんだけ。  ブラジャー姿の裕未香が言った。黒いブラから小ぶりだけど形のいい、Bカップのおっぱいが顔を出している。 「理寿、今日車乗ってく?」 「ううん。まだ終電間に合うから、電車で帰る」 「そっか」  裕未香がちょっと悲しそうな顔をした。さおりさんとまゆみさんも、同じ車に乗って帰るから。 まゆみさんはともかく、さおりさんと折り合いの悪い裕未香は、ワゴンという密室の中で二十分近くも気詰まりな思いをすることに耐えられないらしい。  裕未香に申し訳なく思いつつ、素早く着替える。相模原の改札口の向こうで待っている塚原さんを思い浮かべて、早く行かなきゃと気持ちが急いていた。 「お疲れ様です」  お疲れ、とにっこり手を振る裕未香。 無視して鏡と睨めっこし、ファンデーションを塗り直しているさおりさん(あとは帰るだけのはずなのにどうしてこんなに熱心にメイクを直すんだろう、あたしと同じでこの後誰かと待ち合わせてるんだろうか)。 お疲れ様、とにっこりするまゆみさん。まゆみさんはさおりさんと仲がいいけれど、古株で歳が近いってこと以外はこの二人、ほとんど共通点がない。 見た目だって、ギャルっぽいさおりさんと違い、まゆみさんは髪色は黒に近くてメイクもナチュラルで、いやし系のお姉さんって感じだ。 お店ではいつもにこにこしているから、着替えている時に左腕に刃物で切ったような傷を何本か見つけた時は、びっくりした。 じっと見てちゃいけないと思って、すぐに目を逸らしたけど。世間のイメージ通り、風俗で働いている女の子には何かを抱えているように見える子が多い。 まゆみさんも実は、あたしや裕未香には想像できないような深い闇を笑顔の奥に隠しているのかもしれない。まゆみさんだけじゃない。あたしを睨みつけるさおりさんも、もちろん裕未香も。  4900円のハイヒールに足を突っ込んで、外に出る。夏の初めの夜の空気はしっとり重くて、都会の夜空は深夜でもぼんやり赤く、薔薇色がかってる。 長野の空とは違う。二十八分の終電にはまだ十分間に合うのに、いつのまにか早足になる。やっぱりハイヒールは痛い。お店の中では上ばきで足を楽にさせてたから、なおのことだ。  塚原さんの笑顔が瞼の裏でちらつく。乾いた優しい手の動きが身体の表面に蘇る。強い感情があたしを動かしていた。あたしを受け入れて、あたしを抱きしめて、あたしを甘やかして、あたしの傍にいて。  それが愛じゃないと知ってても、あたしは高いヒールによろめきながら、駅へと急ぐ。降り始めた小雨がアスファルトを濡らしていた。
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