SODS

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SODS       パパは三日前、姿を消した――。 ソリダと娘のレシャはコンパートメントに乗っていた。 「この列車に乗ったって」とソリダが近所の人たちに聞き回ってようやくシラノの行き場所を突き止めたのだ。 パパは三日前、家族三人で揃って夏休みを取りどこかへ行こうかということになっていたのに一人だけ消えた。 「コンネルまでお出かけですか」隣のご婦人に話しかけられた。「可愛いお嬢ちゃん。あそこはいい、一度ご覧になって」 「コンネルって確かパパの大学があったところだわ」 「コンネルですか」話を聞いていたのか窓際のおじさんが身を乗り出して、「私もぜひあそこには行ってみたいんですよ」 「パパがいるの?」 「パパがいるとしたら、・・そこかしら」 ソリダはコンネルに行ったことはなかった。レシャが生まれてからシラノと都心の郊外に住んでいた。 窓外は見たこともない田舎を行く。 遠くから切れ端のような海が見えてきた。コンネルの話はシラノから詳しく聞いたことはなかったが素敵な街のようだ。そうこうしている内に乗客が一人減り、二人減りしてきた。 乾いた海辺の土地が見えてきた。列車は地下に潜り、真っ暗になったかと思うと駅に着いた。 ソリダはレシャの背中を押して駅を出た。手前には土手のような段差がありそこには唯一といっていい高い建物、その向こうには海が覗いていた。 三階、四階建てくらいあるその建物はホテルのようだった。そそけた表面の土壁からは何か縄のような物が飛び出ていた。 昼下がりで、日の光も乾いていた。 「海だ!」レシャは久しぶりに見る海に大はしゃぎだ。 「パパが先でしょ」 海には道からコンクリートが続いていて引き潮の時は先が階段になっているようだ。 その海に突き出た部分、潮見とでもいうのだろうか、そこからは海が剥き出しになっていてレシャ一人だけ遊ばせるには危ない。 「パパどこにいるの」 「さあ、どこでしょうね」 ひとまず、ホテルにでも入って聞いてみるか、と思った矢先、レシャが「パパ!」と叫んだ。 シラノが、細く枯れた白い道をホテルに向かって戻ってくる姿が見えた。レシャを置いて、ソリダは駆けた。レシャが後から追ってくるのも構わず、ソリダはシラノに抱きついた。 「あなた、どうしてこんなとこに黙って・・」 「すまん」 シラノはレシャも抱きかかえ、先ほど見た潮見に立って何かを言おうとしていた。その目はじっと波を見ていて、何を言おうとしているのかソリダにも分からなかった。 「こ・・」ここまでよく来たねとシラノは言おうとして今言うべき言葉はこれじゃないと思い直した。 「僕は・・シラノじゃない」 「え? 何言うのあなた」 「僕は僕だけど、シラノじゃないんだ」夫は向き直って息を吸って黙り込んだ。 「僕はシラノじゃない。ゴメスという人間だ」その時はもう海を向いていた。 「シラノは死んだよ。この海に飛び込んでね」 「君も知っての通り、僕は病気だった。ある日、僕は死ぬことをシラノに相談した。その日、シラノは死んだ」ゴメスの泊まっているホテルは先ほど駅前にあった一軒だけのホテルでミラトホテルといった。 ソリダは黙り込んだ。レシャはまだ理解できないのか置いてあった機関車で遊んでいる。 「知られたくなかった。シラノの代わりに自分が死ぬはずだったことなんて」 半分閉じかけたカーテンは風に揺れて、影だけが動いた。レシャの引く機関車が音を立てた。二人、その後ろ姿を見ている。 「しばらくここに泊まろう」 「パパ、どこ行くか決めた?」 「ここが夏休みの観光地だよ」 「なーんだ、つまらない」レシャはまた座って機関車を引き出した。 「いつまで?」 「夏休みが終わるまで」ゴメスは初めて笑った。「できれば、シラノは流星群を見たいと言っていた。その夢が叶うまで」 ホテルには詰襟のボーイ女が一人いるきりだった。後はシェフと支配人。この街はもう終わりかけているらしい。 部屋にはTVのプログラムが置いてあるマガジンラックとそこから伸びている配管、波形のオイルヒーター。黄色い花柄の二つのベッドと浴室以外何もない。 「何かご用があれば呼んでください」ボーイ女がリネンを運ぶついでにドアを開けた。拍子に風が少し通ってソリダの長い髪の襟足をくすぐった。 「こんな夏休みの日だった」ゴメスはもう日が差し込んできた窓に目を向けて一人ごちている。 ゴメスとソリダは出会った時から夫婦のように分かり合っていた。たとえいかなる事情があったにせよ自分に打ち明けてほしかった、ソリダにはそんな心残りがあった。 「君を偽ってたわけじゃない。自分を偽ってたんだ」 ゴメスは初めて会った時のようにソリダに話した。 「街を歩いてみようか」 海岸線をなでるように低い家並みが連なっていた。そこが街らしかった。 どこも砂と土の色で屋根だけが色彩といえばそう言えなくもなかった。 狭い小さな街で階段と申し訳程度の広場に家々がくっついているといえる。今は毛の抜けた痩せた犬がこの街の主みたいだった。 ソリダは言葉少なにゴメスのそばを歩いていた。釈然としない気持ちが抜けない。 見ると、ゴメスが立ち止まって何かを見ている。どこかの家の奥に、最初ソリダはそれを壁に描かれた絵だと思ったが、よく見ると椅子に座って表を見ている制服を着た郵便配達夫だった。隣にいてその男に話しかけているのはおばあさんらしい。手だけが見えている。 郵便配達夫は話に気がないのか体を斜めに姿勢を崩し表を見ている。 その郵便配達夫も老年なのだが制服だけは若々しい。 「知ってる人?」 「いや・・」しかしゴメスは立ち去りかねていた。 向こうで遊んでいるレシャを呼びに行った隙に、ゴメスの姿は見えなくなりやがてその家から出てきた。 「いや・・、何か知ってるんじゃないかと思って」 見ると郵便配達夫はいなくなっていて、同じように腰かけたおばあさん一人だけが気の抜けたように姿勢を崩し表を見ていた。 犬が何かに吠えた。階段を数歩上って振り返るとまた吠え、尻尾を振っている。どうやらレシャを見て吠えているようだ。 「子供が珍しいのかしら」 気付くと、自転車も何もない。郵便配達夫はもうこの街にいらないのかも知れない。 ホテルに戻るとシェフが駆け寄ってきて、「奥様、今夜は豚肉のカラメルソースにしたいと思いますが」と言ってきた。 「構いませんよ」 「お嬢様も?」 レシャはコクリと肯いた。 シェフは長い帽子を下げ奥に引き上げていった。 「お帰りなさいませ」支配人がフロントで鍵を持っている。「何なりとお申し付けございませ」 「ありがとう」ゴメスはその鍵を受け取って部屋に上がった。 「今日はここにずっといましょうよ。あなたの話も聞きたいし」ソリダはベッドに身を投げ出して座った。それを隣でレシャも真似した。 「パパ、ゴメスっていうの? シラノって偽名?」 ゴメスは浅く笑った。 「シラノも本当にいたんだ」 「パパの友達?」 「・・ああ」 「パパはその友達が忘れられなかったんだ。だから私たちに嘘ついたんだね」 「レシャ。それはこれからママと話すことだから」 「ママ、怒ってるんだから」レシャは自分も怒ってるような言い方をした。 ゴメスはまた浅く笑った。 「風がないから穏やかなんだな。この街には風がない」さっきからソリダも思ってることをゴメスは口にした。その代わり、音もない。 「明日は大学に行こうか。それとも列車に乗る? レシャはどこに行きたい?」 レシャは黙って首を振ってベッドから降りた。浴室に行くようだ。汗はかいていないが砂の風でソリダと同じ伸ばした髪が汚れている。ソリダも後に続いて浴室に入った。 ゴメスはため息を吐いた。 「流星群はいつ頃になるかしら」 「お帰りになられる頃ですね」リネンを山積みにしたボーイ女が答えた。 「じゃあ一週間後くらいね」 三人は階下のレストランに入った。 もう食膳は整えられていて、ポークソテーの下にカラメルソースがかけられている。パンは山積みだ。横に、さっきのボーイ女が立って、「よろしければお嬢様のためにお切りしましょうか」とナイフを掲げた。レシャはコクリと肯いた。 「忙しいわね、あなたも」 「いえ。楽しくてやってるんです」ボーイ女は笑った。 見る間に柔らかいポークソテーがサイの目に切り分けられていく。「ソースにからめてお召し上がりください。冷めない内にね」ポンとレシャの頭を押して、ボーイ女は去っていった。 窓からは小さな月が見えた。 「シラノってどんな方だったの」部屋の中では結局、話せなかった。 「普通の奴だ。極めて、普通の奴だった」 「その人が何であなたのためにそんなことまでして・・」切り分けるナイフにも力が入る。 「ゴメス」確かめるようにソリダは呟いた。 ゴメスは黙って切り分けていた。赤ワインも少しあったが二人とも口をつけずにいた。 「どうしてかな・・」ゴメスはやっと口を開いたかと思ったらその口に肉を運んだ。 月が揺れていた。 その晩、ソリダはレシャと同じベッドで、ゴメスは一人で窓際のベッドで寝ていた。ゴメスは窓の方を向き二人に背を向けていた。 レシャはそれでも遊び疲れたのか文句も言わずにもう寝入っていた。ソリダ一人だけが何やら寝つけないでいた。 気付けば、皿が触れ合うような音がしている。最初は階下のキッチンかと思ったがこの部屋でしているようだ。 「ねえ、ゴメス」 ゴメスはこっちを向いた。 「何か音がしてる」 「古いホテルのせいだろう」 「そうかしら。私の後ろに誰かいない?」 「レシャがいるよ。ソリダ・・」 「何?」 「とにかく、・・ごめん」 ホッとしたのと悲しかったのとで温かいものが目尻から下った。 レシャがお化けを見たと言ったのは翌朝のことだった。 「夢でも見たんじゃない」 「ママもパパも寝てたんだよ。部屋を間違ってドアを開けたの」 ソリダは掃除を頼むついでにボーイ女に聞いた。 「どなたか他に泊まられてるんですか?」 「いいえ」ボーイ女はしれっとして答えた。 「だから言ったでしょ。夢だって」レシャは今にも泣き出しかねない。 「ほら、今日はパパも一緒に列車よ」 「田舎の田舎だよ」列車に乗って行くのはコンネルでも僻地らしい。シラノとドライブに行ったんだとゴメスは言った。 駅には誰もいなかった。列車が来て、乗り込むと乾いた風が開け放した窓から屋根のない車に乗っているように吹き上げた。 僻地の駅には駅員が一人だけいた。「こんな所にようこそ」一番驚いていたのはその駅員だった。 駅舎からは畑が連なり岩山と砂でできた山の間に盛り上がった道ができているのが見えた。何もない所だった。 「ここに昨日川が流れていてね。昔の話さ」 川の跡も土に阻まれどこにあったのか分からなかった。 「君は観覧車で鼻炎になったっけ」ゴメスは何を思い出したのか笑っている。 畑には何かの作物の花が咲いていた。 ソリダは何か、男と女の間に流れる川のようなものがある気がしてきた。 「山には登ったの?」 ゴメスは首を振った。「ここらの山は足が埋もれるだけさ」 「採ったら駄目よ」レシャはその畑の花を集めていた。ソリダはレシャの方に手を伸ばした。 蛇のようにレシャは絡みついてきたが、それを咎める人も誰もいない。今は畑の人も夏休みなんだろうか。 帰りはあの駅員はいなかった。ホテルに戻るととっぷりと日が暮れていた。 窓ガラスが燃えている。それをソリダはベッドに座って見つめていた。 白い鳥が一羽飛んだ。よく見ると鳩だった。あんな白さじゃ目立つだろうによくこれまで生き残ったなとソリダは思うのだった。 「釣れますか」 ゴメスは一人、夜にホテルを抜け出した。ソリダもレシャも寝入った後に。月光が優しく波に揺れている。 釣り人は何やら口の中でもぞもぞと言っていたが、何匹かの魚の入ったバケツを見せてくれた。 「三日幸せになりたいなら結婚しろだの一生幸せなら釣りしろだのって諺知ってるかね」 「ああ、知ってます」ゴメスは足を潮見の先から投げ出して座った。 「俺は一生結婚なんかしなかったが不幸せだったよ。だから釣りなんかしてる。昔を思いだしてね」釣り人は笑いもしないで言った。 ゴメスも笑っていいのかいけないのか目はじっと月を追った。 釣り糸は月の光を受けて垂れて、動きもしない。釣り人はひげの間から煙草を動かしてため息とも呟きとも取れない声を出していたが、ゴメスには聞こえなかった。 「へえ、こんな海で人が死んだんかね。知らなかった。毎日来てるが」釣り人はゴメスの話を聞いてその目を夜でも見えるようにか大きく見開いた。 「ええ、僕の友人が・・」 「どうせ海で遊んでいたんだろう。学生時代じゃ、ほら、あの何とかジェットとかいうやつ。モーターボートか、それで遊んでいたんじゃないのか」釣り人はいらずらを聞いた人みたいにゴメスに顔を近づけた。 ゴメスが笑って何か言おうとすると、「おっと」と釣り人が竿を引いた。「底に引っかかっちまった」釣り人は持っていたペンチで糸を切った。 大儀そうに立ち上がって、「こんな風に流れてないように見えても海は流れてんだな」とまた煙草を動かした。この煙草はいつまで続くんだろうか。 「あんたも所帯持ちだからな、若い頃のようには遊べんだろう」新しい糸を付けた竿がまた音もなく下ろされた。 「若い頃は遊んで、落ち着いて結婚しました、なんて俺の友人にも多かったが俺はどの結婚式にも行かなかったよ。どうもそれが許せなくてね」釣り人は夜に白く見える街を見上げた。 「この村の出身かね?」 「大学で」 「ここに大学なんてあったかな?」釣り人はまだ同じ煙草をくわえていた。 「あなた、どこ行ってたの」ドアを開けるとベッドが動く気配がした。小さなこんもりとした隣の膨らみはレシャだ。 「おかしな夢を見たの」ソリダは乱れた髪をかき上げて耳の間に入れた。レシャを動かさないようにベッドに手を付き降りた。 「赤ワインでもやりたいわ」ソリダはベッドの端に腰かけてルームサービスの紙を広げた。 「赤ワインって病院でも使われたって本当かしら」ソリダは一人ごちてめくっている。 「寝つきが悪くなるよ」ゴメスは自分のベッドに腰かけ、窓の向こうを見ながら靴下を脱いだ。 「悪いからやめとくわ」ソリダは少しため息をフッと鼻から出してルームサービスを置いた。 「どんな夢だい」ソリダは移動してゴメスの隣に来た。 「手が耳になるの」ソリダは自分の薄い平たい手を見た。 「あなたが何か言うのを止めても、その手が聞いてるのよ」そう言って、ソリダは両手でゴメスの口を押さえて声を立てぬよう笑った。 ゴメスが手を握ると、まるで機械のように、ソリダがその肩に頭を寄せた。街はカナリヤ色。 「曇らないといいけど」 「曇らないといいけど」 流星群の日は曇りそうだった。今朝、目覚めた時ボーイ女が教えてくれたのだ。 レシャもレシャでおかしな事を言った。お化けと仲良くなったと言うのだ。名はミカエルというらしい。 「ずっと寝てたよ」ソリダも取り替えたばかりのタオルで笑いをこらえている。 「ママもパパも寝てたんだよ」レシャは強情な方だったが、こう言い募るのも珍しいことだった。 「街には思い出が住んでるからね」今日はまたコンネルまで行って、ゴメスのよく通っていたという教会の中まで入った。 ゴメスが席で祈っている間、壁にかけられた絵をソリダとレシャは見ていた。 細い窓から見渡せる海を見て、振り返ると、ゴメスの上には何か、白い影のような物が覆いかぶさっていた。 それが音もなく消えた時にゴメスは顔を上げた。 「きっとシラノさんだわ」 「僕も感じてたよ。私が神を愛していなくても、神は私を愛していますかって祈っている時に何か温かいものを感じていた」 「海には入れないの?」とレシャがゴメスの手を引いている。 「この子が見たのも・・」 ボーイ女が言うには流星群は一日、二日ズレるそうだ。 レシャが隣の部屋から駆けてきた。 「開いてたの?」 うん、とレシャは元気よく肯いた。 「ミカエルからもらったの、見せてあげる」レシャが床に並べ出したのはエメラルドや翡翠やに似た石だった。「きれいな石でしょ。もらったの」 その夜、床に並べられたままの石、レシャに厳命されていた、を見ながらゴメスは一人で赤ワインを飲んでいた。 そろそろ寝るか、と横になった時、隣のベッドに寝ていたソリダが目を開いていた。 「どうしたの?」 「何か聞こえない?」 ゴメスも耳を澄ましてみたが、何か水の音が聞こえるような気がする。細波のような静かな音だった。 「シャワー流しっ放しかしら」ソリダは立ち上がろうとしない。 「見てくるよ」 「いかないで」 ゴメスは一度、立ち上がろうとした体をまた横たえた。ソリダがこの街に来て、初めてゴメスのベッドに入ってきた。 「トイレの音かしら」 「波の音じゃないか」 「一昨日のラップ音もそうだし、私こういうのテレビで見たことあるわ」 ゴメスは片手でソリダの頭を抱いた。 「気付いてほしいのかな」 「一緒にいるんじゃない」 カーテンを引いて、部屋の中は本当に真っ暗になった。レシャが嫌がるからそうしていなかったのだがレシャはもう寝ている。 「あの石だって海の底にいるみたい」 部屋の水の音は止んだ。遠い、海の向こうの風の音が微かに聞こえる。それを波音というのか。 ソリダはベッドの中でゴメスの手を固く握っていた。 「あなたの大学、見てみたいわ」 「平凡な、小さい大学だよ。君のとことは違う」今日も駅から列車に乗って少し離れた駅まで来た。 ゴメスの大学は本舎から水道橋のように蜘蛛の脚が延びていて各学科棟を繋いでいる。 「僕が通ってたのは右端の・・」木の陰になって見えないが、古い棟だった。 「今はもう誰もいない。近くの大学に統合されて、ここももうすぐなくなるだろう」 「なくなる前に見られてよかったわ」 レシャは大学の前の石畳を一人で駆けっこしている。 「ミカエルはどこに行ったのかしら」 「レシャ。今日もミカエルに会ったかい?」 レシャは走りながら首を振った。ソリダとゴメスの前まで来るとわざと息を切らして、また向こうへと走っていった。 「シラノもこの棟の学生だった」 「あなたと同じような研究してたの?」 「いや、全然違う。あいつは理科系だった。急に近づいてきてね、友達になろうって言うんだ」 ゴメスが思い出話をしている間、ソリダはあの白い影のことを考えていた。 棟のプレートを指で触り、埃を落とすとゴメスは棟の上の空を見上げた。「こんな空だったかな」 「すぐに友達になれた?」 「友達といってもその中の一人だった。家に来たこともないし、たまに飲みに行ったくらいさ」 「そえでどうしてあなたはシラノさんだけに相談したの」 「それが自分でも思い出せないんだ・・」 ゴメスが埃を落としたプレートには文字が書いてあったがその文字も年月でかすれていて退色したポプラ色の文字はよく読めなかった。 「あ、奥様、流星群は明日になるそうですよ」 「レシャを知らない?」 その時だった、隣の部屋のドアを開けてレシャが出てきた。 「あら、開いてた?」ボーイ女も不思議そうな顔をしていた。 「ミカエルと会ってきたの」 中を覗いても、片付けられたままで誰もいない。 「勝手に入ったら駄目ですよ」ボーイ女は中に入って、見回りして、鍵を閉めた。 その日は午後になって生憎の雨になった。 その日はぐるりと街の外縁を回って海を違った角度から眺めようということになっていた。 潮見とミラトホテルが見える崖まで来ると青かった海が光を反射して黄色く見えた。雨はしばらく止んでいたがすぐにまた降り出した。 土地は乾いていても水はけが悪いのかぬかるみになった。雨に打たれた海はそこだけ青黒く、沈んで見えた。 木に隠れた崖の際まで雨が降っている。 緑色のホテルで借りた傘は広かったが重かった。 「日の光の下で食べたかったのに」ソリダはバスケットから卵とパンを出した。ペーストにした塩味の卵も添えてある。あと、トマトも。 「海、寒そうだね」ここは高い所でも風が吹いていない。それなのに海の上の雨はしぶいている。それを見て膝小僧を抱いてレシャが言った。 「僕はまだこの海に残るけど寒いならレシャと一緒に・・」 「そう、あなた? レシャ、もう帰る?」 レシャはゴメスに遠慮しながら肯いた。知らない間に膝小僧が赤くなっている。さっき手を引いて登ってる間にぶつけたのだろうか。 ゴメスも肯いて、「この街に来るのも最後だろうから」と言って座った。 バスケットを置いて、ソリダとレシャは海を見ながら丘を下りた。 「この海に何があるの」とレシャは言っていた。 人は生きながらにして死ねる。海を見ながら昔を思い出してゴメスはそう思っていた。 ホテルでソリダだけがシャワーを浴びていると、ドアが開く音がしたようだ。タオルだけ巻き付けて出ると、レシャがいない。 「奥さん、今日もカラメルソースでよろしいですかね」階下まで下りていくとまた、シェフが駆け寄ってきた。 「レシャを知らない」 「いや、見てませんが」シェフもキョロキョロしていた。「旦那さんは?」 「それが、まだ・・」ソリダはホテルから出て、潮見に立った。目でレシャを探したが、見える範囲には動く物はなかった。 気付くか分からないがゴメスのいる辺りに向かって大きく手を振った。 部屋に戻ってもまだいない。窓から下を覗くとゴメスが帰ってきているところだった。バスケットを持っている。 「レシャがいないの、どこにもいないの」 「レシャが?」上を向いたゴメスはさっと海の方を見た。 シェフも支配人もボーイ女も駆り出して、やっと雨雲が晴れた夕暮れのコンネルでレシャを探していたが一向にレシャの姿は見当たらなかった。 ソリダはコンネルの街の方まで来ていた。あっちでボーイ女がレシャを探している声がしている。あの家の奥では相変わらずに、郵便配達夫と先日話していたおばあさんがあの姿勢のままで同じように外を見ていた。 「女の子を見かけませんでしたか」家の前でソリダは大きな声をかけたが、おばあさんは目を見開いたままでびくともしない。 ソリダは諦めて、その脇の階段を走って上った。犬の吠え声がした。 ゴメスは支配人と共に海の方を回っていた。レシャが海で遊びたがっていたからだ。ここには海岸はないはずだが。 もう夜が近い。 「困ったな。また曇ってきましたね。降り出さないといいが」支配人は空を見ながら呟いた。 「今日は流星群ですか」ゴメスはふっと空の上を吹き荒れている風を感じたような気がした。 ソリダの前にシラノの白い影が現れた。何か言いたそうにユラユラと海藻のように揺れていた。 「ゴメスを助けてくれてありがとう」ソリダはそう言った。 白い影の後ろであの犬が吠えている。 「レシャを知らない? あなたの友達なの」 白い影は包帯がほどけるように空に消えていった。 「見つかりました?」振り向くと、ボーイ女が息を切らして階段を上ってきたところだった。 「いえ、犬がいただけ」階段を下りようとすると、犬が横を先に駆け抜けていった。 ため息を吐こうとすると、「ここら辺には危ない所はないですから」とボーイ女が言った。どこからか教会の鐘の音が聞こえた。 「あの海は?」 「あそこで溺れた話なんて聞いたことないです」ボーイ女は襟を直した。 夜になってもレシャは帰らなかった。皆、ホテルに戻っていたがボーイ女だけはどこかまた探しに行っているみたいだ。 「僕らも出よう」 「でも、レシャが帰ってもし誰もいなかったらまた・・」 「とにかく出よう」ゴメスはいつになく強くソリダの手を引っ張った。 潮見は青い波の光りでゆらめいて見えた。 「あの子がいなかったらあなたと私とは他人だわ」ゴメスの後ろからソリダは叫ぶように言った。 意を決してゴメスが振り向いた時、曇り空から蜘蛛の子を散らすように青白い炎がまた流れては落ちた。 「スマホは?」 「出ない」 「レシャ!」たまらずソリダは海に向かって叫んだ。 「レシャ!」ゴメスの声の方が大きかった。 ゴメスを追い越して潮見の先の階段までソリダは走り出した。 「こっちです」誰かが叫んで引き止めた。街の誰でもない声だった。 二人が振り向くとミラトホテルはなくなっていて駅の明かりが遠くに明け方に浮かんで見えた。 小さくそこで手を振っているのはレシャだった。 「早く行こうよ、パパ」 二人は騙されたように手を結んでミラトホテルがあった所を乗り越えて土手を越えて駅まで走った。 そこには改札鋏を持った物憂い駅員が一人、明かりの下の椅子に座っていてレシャもその傍にいた。 「ここいらには私しかいないんで」駅員はそう言って私たちの持っている切符に鋏を入れた。 「じゃ」ゴメスは海に向かって短くそう言って手を上げた。 振り返るとこの旅の何もかも良くなかった気がしてくる。 「お礼を言いたかったのに」ソリダが言った。 何かが開けたように、急に辺りの森から蝉の鳴き声が聞こえ出した。まるでずっと鳴いていたのが今、初めて聞こえたように。 夜の海に青い燐光が一瞬、光って消えた。 ゴメスは緑色に白く照らされたトンネルの前に立ち止まった。その向こうの闇に列車が止まる音がしていた。 「――このままでは、危ないそうです」 水に沈んだシラノを載せたストレッチャーは白い廊下をどこまでも運ばれていくようだった、どこまでもどこまでも・・。 ゴメスの目にはそれが本当の生に続いているようだった。
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