女心はいつまでも

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 ひいばあちゃんは、谷中の自宅で一人暮らしをしていた。  家族としては正直、施設に入ってくれた方が安心できたのだけど、住み慣れた家を離れる気になれなかったのか、頑として移ろうとはしなかった。ただ、家に対する愛着は確かに凄くて、庭先の植木鉢はいつも青々としていたし、ヘルパーさんの手を借りていたとはいえ、部屋も清潔でこざっぱりとしていた。  その日もひいばあちゃんは、例によって居間のテレビで水戸黄門を視聴していて、画面の向こうの悪代官にぶつぶつと文句を言っていた。冬はこたつで、夏はちゃぶ台で、ひいばあちゃんは日がな一日テレビを見ながら政治家に怒り芸能人の浮気に怒り悪代官に怒っていた。ただ、熱しやすく冷めやすい人だったから、同じ話をいつまでも擦るなんてこともしなかった。  ひいばあちゃんは俺の目的を知ると「嫁の顔見せじゃないのかい」とがっかりし、それでも結局は当時のものと思しき写真を俺に見せてくれた。  それは、モノクロの古い結婚写真だった。  場所は、どこかの家か、あるいは料亭の庭先だと思われた。石で囲われた小さな池のほとりで、軍服に身を包んだ見知らぬ男性がかっちりと写真に納まっていた。写真では黒く見えた軍服は、本来は紺色の士官用海軍第一種軍装だろう。  そんな男性の傍らには、古風な白無垢に身を包んだ若い女性。どうやら結婚写真らしい。でも、誰の? 「これは……?」 「あたしだよ」 「ええっ、この綺麗な人が!?」  するとひいばあちゃんは、なぜかちょっと寂しそうに笑い、それから、「あたしにも若い頃はあったさね」とむくれた。ただ、そうなると一つ妙な点がある。俺のひいじいちゃんは陸軍で工兵をやっていた。結婚写真に海軍の士官服で写るのは、だから、おかしいのだ。 「でもこの人、ひいじいちゃんじゃないよね」 「ああ、その人は最初の旦那さんだからね」  さも当たり前のように答えるひいばあちゃんに、俺は面食らった。最初の旦那さん? えっ、じゃあ俺のひいじいちゃんは再婚相手ってこと? そう問い返す俺に、ひいばあちゃんは今度は少し呆れたように笑った。 「知らなかったのかい、あたしゃ二回結婚してるんだよ」  ひいばあちゃんが言うには、俺のひいじいちゃんは二人目の旦那さんなのだそうだ。というのも一人目の旦那さんが、昭和二十年、かの有名な天一号作戦で駆逐艦にて出撃、帰らぬ人となってしまったからだ。  戦後、ひいばあちゃんは生き残った旦那さんの弟と再婚する。当時としては、戦争で未亡人となったお嫁さんに別の男兄弟をあてがうのは珍しいことではなかったらしい。ひいばあちゃんもそこは「しょうがない」とあっさり受け入れ、旦那さんの弟、つまり俺のひいじいちゃんと新たな家庭を儲ける。  とはいえミリオタである俺の琴線に触れたのは、やはり一人目の旦那さんの最期だった。あの天一号作戦に俺の身内が!? 改めて説明すると、天一号作戦とは昭和二十年四月に行なわれた、大和を旗艦とする連合艦隊による沖縄方面への出撃である。が、すでに修理用の資材も弾薬も、燃料すら払底した当時の日本海軍が行なったそれはもはや片道切符の特攻作戦も同義で、事実、この作戦により連合艦隊は壊滅、日本の海上戦力は事実上消滅する。……という、ある意味歴史的な作戦に、それまでの俺はただ資料で触れることしか許されなかったわけだ。  それがまさか、こんなかたちで俺と繋がっていたなんて。というか……写真の旦那さんには悪いが、あの天一号作戦が実行されていなければ、今頃、俺はこの世に生まれていなかったのかもしれないのだ。 「え、何か聞いてる? その、作戦のこととか……」  するとひいばあちゃんは、今度は心底呆れた顔で言う。 「聞けるわけないだろう。そういう話は家族にも伏せられていたんだから。基地から何通か手紙も貰ったけど、どれもまっくろに塗り潰されてたよ。作戦のことも、戦後に戦友って人がうちに線香を上げにきて、その人に聞いて初めて知ったんだよ」  ひいばあちゃんの言う通り、写真と一緒に保存された手紙はどれも黒く塗り潰されていて、紙面に占める面積で言えば、むしろ黒塗りの方が大きいぐらいだった。それもそうか。家族とはいえ民間人にそうそう機密をぶちまけるはずがないもんな。  とりあえず俺は写真に目を戻すと、ほかに何か情報を読み取れないかと注意深く見直すことにした。まず裏返し、書かれた日付を確認。……昭和二十年三月吉日。って、三月? 仮にこれが結婚式の日取りなら、天一号作戦が開始されたのは四月の頭だから、長くとも二人の夫婦生活は一か月そこいらだった計算になる。しかも時期から考えて、すでに極秘の命令を受けていたことは明らかだ。  あの時点での沖縄出撃といえば、もはや死出の旅と同義だったろう。写真の男性は、優しく微笑んではいたものの一切の感情を俺に読ませなかった。遠からず未亡人になることが決まった花嫁を気の毒に思っていたのか、そんな感情すら長引く戦争で麻痺していたのか、平和な時代でのうのうと生きる俺にはわからなかったし、わからなくてもいいと思った。 「……あれ?」  しばらく写真を眺めていた俺は、ふと、ありえざるものの存在に気付く。いや、本来それは日本の公園や街路にはありふれたもので、ただ、ひいばあちゃんの傍らに〝それ〟があるということが、俺にとってはありえない状況だった。 「これ、桜の木?」  するとひいばあちゃんは、俺の手元に乗り出すように写真を覗き込み、それから、ひどく沈鬱な顔で「ああ、そうだね」と頷いた。
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