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閉ざされた心
「当時の我が国は、戦争に向かって突き進んでいた。政府の秘密警察など検閲機関(けんえつきかん)は、国益(こくえき)に障害になるもの、すなわち戦争に反するものは全て排除する任務を負っていた。特高警察が行った敵性外国人の厳しい摘発と抑留(よくりゅう)もその一つだ。」
「それじゃあ、僕の父さんも追われる身になったとですか?」
「ああその通りだ、しかし、自宅に踏み込まれる前に逃げることが出来たんだ。そしてその家は、警察が接収してしまったんだよ、君が、小さい頃だよな。」
確かにその頃であるが、言われてもまだ言葉もままならない幼子時の記憶は、ほとんど無い。
「多分、立入が出来ない状態にされたから、そのまま残っているかもしれない。」
「そうですか・・・。」
そう言って尚正は、静かになった。
北畠は、そっと尋ねてみた。
「いつかは、まだあるか行ってみようと思っているのかい?」
その言葉に、尚正は少し戸惑いの表情を見せた。
ある意味、図星(ずぼし)を指されたのかもしれないが、その質問に答えるだけの決心は備わっていなかったからだ。
「いえ・・・この旅館のこともありますけん。」
淋しげな顔をしていたが、何気なく振り子時計を眺めて、また北畠に話をする。
「遅くなりました。色々とお話ばいただきまして、誠にありがとうございます。僕はこの辺で、失礼ばさせていただきます。」
明らかに、その場を取り繕(つくろ)う言葉である。
すると、吉野が返事をする。
「今日は、楽しかったよ。またいつか会う時があれば、君がどう活躍しているか楽しみだ。もし上京して来るようなことがあったら、是非僕の所を訪ねて来てくれるかい?」
胸の内ポケットから一枚の名刺を取り出すと、欅の座卓の上にそっと置いた。
尚正は、その名刺を両手で摘んで拾いあげると、同時に腰を上げ立ち上がった。しかし、何かまだ躊躇(ちゅうちょ)しているような顔付きで、一瞬立ち上がったまま動かなくなった。そして、再び名刺を見つめた後に、また北畠に向かって話し掛ける。
「しつこかかもしれませんが、最後にお伺いして良かですか?」
「ああ、何だい?」
「父母が住んどったその家は、どのようなものか知っとられますか?」
「見たことはないが、2階建ての木造で、南欧風の建物だったそうだ。多分、塩焼きの洋瓦の屋根、独特のモルタル塗りの壁、テラス型の玄関だろうな。それから・・後からだが、舞踏練習用の離れが設けられたそうだ。」
「ありがとうございます。」
尚正は、北畠達に深々と頭を下げて、応接間を退室した。
# スルスル・・・コトン
その後、北畠達はもう暫く話を続けていた。
まず、切り出したのは吉野からである。
「今の尚正君との会話で、僕にはちょっと良く分からないところがあるんですよね。」
「そうか、吉野君もそう思っていたのか。」
すると、新田が尋ねてきた。
「どういうことですか?、凄く悩んでいるんですよね。まず自分の演奏の出来具合について感想を聞いてましたよね、これは分かります。それから、お父さんやお母さんがどういう暮らしぶりだったか色々と聞いている。父や母が、どんな経験をしてきたのか、彼は自分がどうやって生まれてきたかを知りたいと思ってますけど、戦争がもたらした災いは、僕等とは比べものにならないくらい大変なものだったんですよね。」
「新田、お前、相変わらず洞察(どうさつ)が甘いよな。最初と最後の会話の繋がりを良く考えてみろよ。彼は、父と母の表現するものを自分が再現できているかどうかにこだわり続けている。吉野君もそう思うだろう?」
「そうですよね、それも異常な程に、十年間も、ご両親が何を思い描いて舞踏演奏していたのか、執拗(しつよう)に知りたがっています。」
「・・・僕には、まだ良く分からないのですが、吉野さん、どういうことか分かりやすく教えてくださいよ。」
「表現とは、自分の個性に他ならないものです。他の人と違っていて当たり前です。それはたとえ父や母とでもです。ほら、絵画の世界だってそうでしょう。どんな巨匠(きょしょう)の画家達だって、最初は先人の技術や趣向を学ぶため模写(もしゃ)をしている。それは、自らの力で作品を生み出すための準備段階にしか過ぎません。僕が尚正君に答えた才能とは、今、北畠さんが言われた父母であるホセさんや尚子さんの神業とか天才といわれる能力を本当に受け継いでいるかということです。別に、お二人と同じもの生み出しているかなんて、あり得ないし、どだい無理なことですよ。」
北畠も吉野に呼応する。
「なのに、あのこだわりは、どうも良く分からない。むしろ芸術家は、他人には出来ない独創的なものを目指すはずなのに。ホセさん、尚子さんも、独創的な自分の理想の表現を目指した、それだからこそお互いを尊重し、協調することによって、あの素晴らしい舞踏演奏が生み出されていた。尚正君は、いったい何を思い描きたくて演奏しているのだろうか。父親の卓越した技能に裏付けられた、力強い演奏か、あるいは母親の理想とした、変幻自在な舞踏の表現か、正に、異なるものが調和して生み出した芸術だった。それを再現することが、自分の演奏に必要だというのか?、はたして、そんなことをする彼をご両親が望むだろうか。自分達がやってきたように、尚正君が自ら理想とする演奏を追求して欲しいはずだ。」
すると、その北畠達の会話を聞きながら、尚佐がふと思い当たることを語り始めた。
「わしは、音楽や芸術のことはさっぱり分からんとです。あの子が何故ギターを弾くか、これまでぼんやりとしか分からんかったとです。ばってん今、尚正の心の内が、何と無く分かったような気がするとです。皆さんが、あの子について話ばやり取りされる中で、そうとしか思えんとです。」
「田上様、どういうことでしょうか?」
新田が、尚佐にその説明を求めた。
「・・・それは、尚子が亡くなった日のことが思い浮かばれるとです。その時、もう死を迎えようとしとった。目を閉じている青白い顔、細かく微かにする息づかい、意識があるのかも分からんかった。何度か尚子の手に触れてみたとやけど、気付いている気配も無かとです。わし等親族が、ただただじっと行方を見守るだけやった。哀しか時間が過ぎていく、そんな状況やったとです。」
あの壮絶な記憶が、北畠達に語られていく。
# コチ コチ コチ・・・
他に聞こえるのは、掛け時計の振り子が、坦々と時を刻む音だけである。
「ばってん、尚正は違うとった。尚子のために、懸命に演奏したとですよ。自分が傍に居て見守っている、そして生きていて欲しい、その切なか思いば伝えようとしたとです。」
「それで、尚子さんには何か変化が見えたのですか?」
「そう、そうとしか思えんとですが。閉じている眼から、涙が流れ出したとです。わしも、他の者達も、尚子が尚正の演奏が聞こえているのじゃないかと思うた。」
「それで、尚子さんは、どうなったのですか?」
「一時的に意識を取り戻すようなことは、なかったのですか?」
「残念やが、それは無かった。それでも、尚正は信じ続けたとです。希望の続く限り、引き続けたとです。もう、何かに取り憑(つ)かれたと思うぐらい必死に、それが1時間が過ぎ、一時(いっとき)にも及び続けるとです。それまで感心して聴いていたわしや周りの者も、やがて、不安になってしもうた。子供の体力ですばい。指から血が噴き出るほど何時間も弾き続ければ、医者からも止めろと言われます。」
尚佐は、皆の顔を見ることなく、うつむきながら語る。
「そうしとると・・・弦が切れてしもうた。それでも弾こうとするとです。」
「弾けたのですか?」
「いいや、もう曲になっとらんとです。それでわしが、もうお前は弾けとらんと言うたら、その場に倒れたとですよ。もう、手が血まみれになっとった。」
余りにもの壮絶な話に、北畠達は驚いて、何度も唾(つば)を飲み込んでいた。
「それからですばい。あの子の心は、まるで闇の世界が訪れたように、暗く閉ざされてしもうた。これまで十年もの間、尚正が笑うたり、怒ったり、泣いたりしたのを見たことが無かとですよ。」
それは、尚子が最も恐れていた不幸であった。
「それにですばい、この国は島国ですから、半分外国人の血の入った背格好(せかっこう)では、親しか友人も出来ず、大人からも特別の眼で見られてきたとです。勿論、わし等は田上の子として、普通に育てて来ましたよ。ばってん世間の扱いは、意識の無かところであの子を区別するとですよ。」
「最も大きな心の支えだった母親の死によって、そのような差別視を独りで受けることから自分を護る手だてとして、感情を出さないことを選んだというのですか?」
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