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なぜ爪弾くのか
尚佐は、膝(ひざ)の上で手を強く握り、静かな口調で続きを語っていく。
# コチ コチ コチ・・・
その調子に合わせるかのように、振り子時計の時を刻む音は、相変わらず坦々と室内に流れていた。
「元々あの子は大人しい性格やけん、身近な者以外はそれに気付いておらん。アルベルトさんから教えてもろうた頃は、本当に生き生きとしとった。それば知っとる者は、悲しんどるとです。尚正は、廃人の様に眼が虚(うつ)ろになって、全く面白みの無か、近寄り難か人間になってしもうた。」
すると新田が、やるせない気持ちを言葉にした。
「心を閉ざしてしまうなんて、悲し過ぎます。彼は本当に、それで良いのでしょうか?」
北畠と吉野は、そこに心を置いていた。
「そんな訳無いだろう。誰だって、そんな抑圧された状態からは救われたいと思っているはずだ。」
「そうですよね、だって、ギターの演奏に至っては、あんなに素晴らしく輝いているのに・・・演奏では・・・そうか、そうなんですよ。」
「そうだな、吉野君もそう思うか。」
新田は、疑問のままである。
「えっ、どういうことですか?」
「新田、自分から答えといて、まだ気付いてないんだな。田上様が我々の会話のやり取りで疑問が解けたというのは、あの輝くような演奏の源(みなもと)とは何か、それが判明したということ、ですよね田上様。」
北畠の言葉に、尚佐が大きく頷きながら応える。
「ええ、・・ええ、そ、・・そうなんですばい。」
涙にむせびながらする声は、尚正の心の内を代弁している。
「閉ざされた心を開く手立ては、自分がギターを弾くことに求めとるんですばい。そこには、かつてアルベルトさんとの記憶を蘇(よみがえ)らせることが一つ、そしてもう一つは、父、ホセの心、母、尚子の心に触れたいとする切なる願いが込められとるとです。あの子が何故ギターを弾くのか、そこに親の優しい温もりを感じとろうとしておると解ったとですよ。」
「そうか、ギターを弾くことは、お二人に出会える術(すべ)だったんですか。だから、あれほど父母の表現への思いを読み取りたいと、こだわっていたのか・・・ご両親の愛情を感じ取りたい一心(いっしん)でか・・・。」
「でも、それだけじゃ無かとです。」
「それは、何ですか?」
「以前から分かっとったことです、妹、恵海への愛情ですばい。」
「そうか、恵海ちゃんは、もっと尚子さん、いや肉親の愛情を知らない。」
「そうですばい。まだ幼かですが、尚正にとって恵海は、自分の心を開ける唯一の兄妹。尚子の血の絆(きずな)で繋がっとります。その思い入れは、いじらしゅうなる程ですばい。尚正は、演奏によって恵海に母を感じさせることが出来ればと思うとります。」
「本当に心優しいんですね、彼は。」
北畠達は、尚佐の語る尚正の愛情ある行為に、血の繋がりの尊さを感じ取っていた。
吉野が、言葉を入れた。
「しかしながらその実現は、口で言うほど容易ではありませんよ。」
厳しい言葉であるが、尚佐は、素直に受け入れて返した。
「吉野様、やっぱりそうなんですか。わしは、尚正が望んどることが、人の手で出来るのかどうか聞きたかったとです。ばってん、さっきおっしゃっていた絵の芸術家は、自分の作品ば描く前に、偉か絵描きの真似ばすると言うとられましたばい。」
「田上様、我々が先程言った、先人と同じ様に演奏することと尚正君が目指しているものは、全く違うんですよ。画家の模写とは、やはり真似にしか過ぎないんです。似て非なるものなのです。そっくりではあるが本物に込められた作者の心が伝わっては来ない、だからこそ模写(もしゃ)なんですよ。」
「そうか、分かった。ご両親の舞踏演奏を実際鑑賞している僕等に、それを確かめようとしたんだ。真似ではない、本来の二人の表現を観た時と同じ感動が伝わってきてるか、をですよね・・・でも、そんなこと出来るんですか?」
「新田、そうだ。やっと俺達の会話の軌道に乗ったな。吉野君、芸術家の域で、他の者の精神的な部分までも真似を、いや再現することは可能なのか?」
「僕の個人的見解から言えば、奇跡的な所業(しょぎょう)ですよ。それはどの様なものでも、たとえ厳粛に代々受け継がれる伝統芸能であっても難しいものです。」
「そうですか、やっぱりそうばいね。」
きっぱりとした吉野の答に、そう覚悟はしていたものの、僅かな可能性を信じていただけに、尚佐は、落胆(らくたん)の色を隠せなかった。
「でも不思議ですよね。尚正君は聡明(そうめい)な若者です。そんな明らかに不可能なことに、何故挑もうとするのでしょうか? 何か確証があるんですかね。」
「俺も、ずっとそれを考えていたんだ。彼は、何かそれを感じる時があったのではないかってね。」
すると吉野が、尚佐にあることを尋ねた。
「田上様、ひょっとして先程話して頂いた、尚子さんが亡くなる時に彼が演奏したことに手がかりが隠されていませんか?、尚子さんの流した涙ですよ。」
吉野の推測は、尚佐の思うところを的確に指し示していた。
「尚正が弾き続けようとするとば止めようとした時、あの子はこう言ったとです。‘僕の演奏で、母さんが踊っておるとばい、だから、止める訳にはいかん’、と。」
「尚子さんの踊る姿が彼には見えているとは、自分の意識の中でということですか?」
「多分、それは幻(まぼろし)ですばい。母を救いたいという気持ちの表れじゃなかとですかね。さっきも言いました様に、瀕死(ひんし)の尚子の心に自分の思いば伝えたい、受け継いでいる才能なら訴えられるんじゃなかとか、信じてあげたいとですが、本当にそんな事できるとですかね?」
「確かに尚子さんの頬(ほほ)には、涙が流れているんですよね?」
「そうなんですばい、確かに流れとりました。だから周りの皆、もしかするとギターの音が尚子に聞こえているのじゃないかって思うた。いや、皆も、これだけ力を尽くして弾いている尚正の姿に、嘘(うそ)でも良かけん尚子に届いて欲しいと願っとったとです。結局、ギターの弦が切れて自分に意識が戻って、総ては終ってしまったとですけど。」
北畠は、思わず呟いた。
「母の涙、そして、舞踏の幻影、要因はそれだけではないと思いますが、彼に信念を持たせるようなことがやはり起こっていたのですね。どんなに齢(とし)を取っても、親からの愛情を受けた恩、あるいは親を慕う心はいつまでも続くものだ。それどころか、自分が年老いてくればそれは更に深くなる。尚子さんの幻影を見た時の経緯から考えると、その涙を流している状況を何故起こせたのか分るまでは、父母の才能の本質を見極めるという目標を追い続けていくのか。それが、どれ程の長く遠い道程(みちのり)であってもか。」
それを聞いて、尚佐は深刻な顔付きになってしまった。
北畠は、思わず言い直した。
「あっ、いや、今のは失言でした。先程も彼は言っていましたよね、‘旅館のことがあるので’、と。心優しい、思慮深い尚正君ですから、そんな軽率な行動に出ることはありませんよ。」
そして、新田も後押しをする。
「そうです。厳しい戦時の時代を尚子さんと過ごしてきたんです。そして、あのアルベルトを父親のように感じ、楽しい日々の記憶があるこの地は、代え難い故郷なんですよ。彼にとっては心の拠(よ)り所なんですよ、此処は。」
しかし尚佐は、その改めた気遣いの言葉によって顔色が変わることはなかった。
# ボーン、ボーン、ボーン・・・
振り子時計が、時刻を打つ音を鳴らし、十一を刻んだ。
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