十年目のこの日

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十年目のこの日

# カアカア カアカア  山の麓は夕刻を迎え、旅館の辺りは薄暗くなってきている。童謡の歌詞ではないが、山のどこからか烏(からす)の鳴く声も聞こえていた。 # ザワザワザワ・・・  その日も、いつものように奥座敷に入りきれず、観客は立見が出るまで埋まっていた。春を迎えて、日が沈めば未だ少し肌寒い時分である。しかしながら、談話室内は混み合っている人だかりの熱気で、その寒さを押し返しているほどである。出窓の前の一角に、小さな舞台が設けられている。その上に、ほのかにその下を照らす数台の照明灯が舞台に向けて吊り下げられている。会場は、観客達同士が思い思いに喋りあっているため、ざわざわと騒がしいところである。 「あ、出て来たわよ。」 「始まるわ。」  その前に尚佐が現れると、誰もが心待ちにしている演奏会の始まりに気持ちが切り替わり、場内が静かになった。 「御来場の皆さん、演奏会にお集まり頂いて誠にありがとうございます。。遠方からわざわざ来てもろうた方もおるようですな。お蔭様でこの演奏会も、回数を重ねる毎に観客が増えて、今では本旅館の定例行事となっとります・・・・」  尚佐は、挨拶の言葉を少し休めた。  そして、何かを回想しているかの様な表情と共に再び口を開いた。 「もうかれこれ十年になりますばい。わしの娘、尚子が亡くなってから十年が経ったとです。今日来てもろうたお客さんの中にも、知っとられる方もおられるとでしょう。あの時は、うちの従業員達や村の方々に大変世話になりました。もしこの会場におらっしゃるようでしたら、改めてお礼申し上げます。さて、今回の演奏会の紹介ですが、娘、尚子は、フラメンコをこよなく愛しておりました。そして、その熱意は、歌や舞踏に注ぎ込まれておったとです。特に踊りについては、世間の方々から天才と言われる程素晴らしく、戦前は数々の公の発表の場で賞賛されとりました。残念ながら、もうそれを観ることは出来んとですが、幸にも、その類まれなる才能は子供達に受け継がれとります。ご存知の通り、尚子の子、尚正は、ギターでその才能ば見せとります。尚子の死後、その演奏で亡き母の思い出の記憶をたどるようになったとです。そこでわしの発案で、毎月尚子の命日に、その霊を弔うための演奏会を始めたというわけです。そして、十年の節目の年ですけん、尚子が亡くなった日に、生まれ変わりの様に誕生したその娘、恵海がこれまで練習を積んで、フラメンコば踊ります。当然母親にはとても敵わんとですが、その気持ちになって一生懸命踊りますけん、宜しうお願いします。つたなか挨拶で申し訳なかでした。若か女性の方々は、もう待っておられん様子ばいね。」  確かに、尚正を間近で観ようとする最前列の者達は、女学生などの二十歳(はたち)前の若い女性であった。 「爺(じじい)を見続けても、つまらんですからな。」 # ハハハハハ・・・   しめやかな雰囲気になりかけていた会場から、和やかな笑いが起こった。 「御待ちかねのフラメンコ、最後まで楽しんでいきんしゃいね、それでは演奏会を開催します。」  尚佐は、観客に深々と一礼した。 # ワ~ パチパチ ワ~ パチパチパチ・・・  一斉に拍手と歓声が沸き起こった。その中には、尚佐達のこれまでの悲しみを思い遣(や)り涙する者も居る。 # ワ~ パチパチ ワ~ パチパチパチ・・・  拍手が鳴り続いている中、尚佐がその場を退出する。会場の客席の明かりが落とされると、次第にその音も小さくなった。窓から夕焼けの光が入り込んでいる。それだけでは、微かに周りの状況が判るくらいのいぶかしい明るさ。  すると、舞台に近い観客達がひそかに声を出し始め、次第にその数が増えてくると、ざわめきとなって広がる。 # ザワザワザワザワ・・・  後ろに居る者は、何事かと興味をそそられている。つまりそれは舞踏場の真ん中に備えてある椅子の前に主人公が現れたからだ。そして、舞台の上に吊り下げられていた照明が点ると、再び歓声と拍手が沸き起こる。 # ワ~ パチパチパチパチ・・・  黒のスラックス、胸元に飾りの装飾の入ったブラウスのような白いシャツに、深紅のサッシュを腰に巻いている。その颯爽(さっそう)とした若者は、観客に笑顔を示し、ギターを左手に持って立っている尚正。普通の日本人男性なら、間違えれば滑稽(こっけい)な姿であるが、彫りの深い西洋人風の顔立ちと八頭身に近い体付きは、そんな違和感が入り込む余地は無かった。  尚正もまた、深々と一礼した。そして、椅子に着座してギターを抱える。 “素敵~!”“尚正さ~ん!”“いよ、千両役者、タガミ!”  掛け声の中には、歌舞伎の観劇で放つような声も聞こえる。妖しい魅惑的な姿に惹きつけられて、両手で半分顔を隠しながら観ている女性も居る。  やがて、力強く、大らかにラスゲアードが打たれた。 ♪ ジャラーン・・・  その複数の弦が織りなす和音が、ひとつひとつ放射状に弾け出した様に、会場全体に拡がって響き渡る。 # ・・・・  観客達の歓声と拍手が、申し合わせた様に一度にピタリと止まった。  会場に居る者達は、その一瞬の奏(かな)でられた響きで、此処から何万キロの彼方にある異国の舞踏酒場に引き込まれていく。当然、ここには誰一人として、そこを訪れた者など居ないであろう。 ♪ ♪♪♪~♪♪ ♪~♪・・・  けれども、そんなことなどどうでも良いのだ。尚正が織り成す美しくもの悲しさに溢れる旋律が、深い母への感傷や敬愛として聴く者の心へ奥深く響いていれば、それで十分である。  日は没し、山麓は夜を迎えた。それは、いつもの片田舎の一日の営み。しかし今宵だけは、その一角だけが特別な人々の集いの場に変わっている。幻想的な光景。フラメンコの調べに包まれた夢の居場所となった。3b5dcfb9-042c-44ec-aec8-add6a9c0ba03 ♪ ♪ジャガ ♪♪~ ♪ジャンジャン ♪~♪・・・ 「尚正さ~ん!」 「凄い、素敵!、順子ちゃん、あんな格好良か人が親戚におって羨(うらや)ましか。」 「亜紀ちゃん、この町にもおらんよ。」 「そうたいね。私の兄ちゃん、何であんな格好悪いんやろか。同じ男とは思えんとよ。俺は上京して映画スターになると言うて、ウクレレいう小さかギターば買うとるけど、格好つけてばかりで馬鹿じゃなかろうかね。」 「それで、本当に弾けると?」 「まさか、へたくそばい。」 「そうよね、現実はそんなもんたいね。」 ♪ ♪♪~ ♪ジャンジャン ♪ジャガ ♪・・・  いつもの様に感嘆してしまう見事なパフォーマンスに、観客達の心を捉え、演奏の局面がたけなわを迎える。そして今回はここで、恵海の舞踏が披露される段取りとなる。初舞台の緊張を少しでも感じないよう、観客達にも雰囲気作りへ参加させるための配慮である。 ♪ ・・・♪ジャ~ン  一旦演奏が止まり、会場の照明がつけられた。
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