一夜ひとよ

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 無理もない。総司は沖田家一人きりの男子として生まれたが二人の姉がいる末っ子で、甘え上手である。弟が兄を慕うようにして纏わりついてきた男に実は嫌われていましたでは、衝撃を受けても当たり前だ。  突如、総司はふっと吹き出した。 「やだな歳三さん、冗談ですよ。そんなおもしろい顔して、本気にしちゃったんですかぁ?」  またも驚かされている顔を見ては、涙目になりながら独特の細かく刻むような笑い声を発する。  勿論、冗談ではない。この話はここでお終いにしてくれという合図だ。 「さ、鬼脚の二つ名が泣きますよ。行きましょうか」  一頻り笑い終えた後、さっさと先に行ってしまう。  江戸時代後期に流行していた髪型だが、総髪を高い位置で一括りにした髪が揺れて、陽に透けると蜂蜜を溶かしたような色をしている。新しい物好きの歳三も同じ髪型をしているが、最近初公開された遺髪から見てもわかる通りに漆黒だ。  今更言わずもがな、この時代の旅は基本徒歩であり、街灯も住宅の窓から零れる灯もないので日没後は進まない。歳三少年の夜逃げでもあるまいし。  前フリのつもりではなかったのだが、思わぬ足止めのせいで到着したのは日没寸前であった。  出稽古先が親戚であったのがせめてもの救いである。小野路村名主の橋本家で、しかもこの家の沢庵漬けは歳三の大好物だ。山のように盛られた沢庵漬けを馳走になり、流石に毎回ではなかったようだが土産として一樽担いで帰る程の心酔ぶりだったという。 「おう、遅かったなぁ。どこぞで道草でも食ってたか?」 「そうなんですよ。歳三さんがモタモタしてるものだから。ね、歳三さん」  いつもと変わらない、軽口を叩いて相手の反応を見る。思惑通り、お前がチョロチョロ寄り道するからだろうが、などと応戦するのは容易いことだが、歳三はぶっきらぼうにヒョイと目線だけ返し、遅刻を詫びるように少し頭を下げてから道場の方へ行ってしまった。  この時間ともなれば稽古に来ている門人はいない。今か今かと師範代を待ち侘びていた者達はとうに帰ってしまっている。  稽古を付ける為ではなく、ただふらふらと、決まり切った行動のように歩いて行った。  何も考えずに素振りでもしたい気分だった。  相手のいない稽古ならば、どんなに真っ暗でも関係ない。それに暗闇に向かって只管に木刀を振るうのは無心でできる分集中できて、剣術好きとしては何故か落ち着くような感覚になる。  短期間での上達ぶりも、その経験があってこそ。歳三は器用であるが、他人が見ていないところで努力する質でもある。
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