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この錦旗だが、存在は長年眠っており、決して帝から下賜されたものではない。歴史を紐解けばそういえばこんな旗がありましたよねと、新政府軍が急拵えで縫い上げ、やぁやぁこちらが天皇家の御印菊章入りの錦の御旗なりと我が物顔で勝手に掲げたのである。
それでも会津藩兵が追い払い、歳三は兵を鼓舞しつつ奮戦した。
京都見廻組頭・佐々木只三郎は歳三に、我が隊は対岸で伏兵すると提案しその手筈を整えていたが、薩摩藩兵に邪魔されてしまう。
最終的には全軍橋本の陣屋に退却することになったが、別動隊であった新八達に命令が伝わらず、途中で事態を知った彼らは敵陣を突破して本体と合流した。
旧幕軍は総崩れとなり、陣を捨てて大坂へ敗走している。
そこではさらに彼らを意気消沈とさせる出来事が待っていた。
一月六日夜、油断させる為であったのかもしれない、つい前日までは主戦論を唱えていた慶喜は、主戦派の容保らを無理矢理引っ張り、家臣達に黙ったまま海路江戸へと脱出してしまったのだ。
ちなみにこの時は開陽丸に乗っているが、艦長・榎本武揚にすら知らされておらず置き去りにされている。
慶喜には、新政府軍と対峙する気概は充分にあっても朝廷を相手取るつもりは毛頭ないのである。
彼が幼少期を過ごした水戸徳川家には、「朝廷と幕府にもしも争いが起きた場合、幕府に背いてでも朝廷に弓引いてはならない」との家訓があるのだ。水戸といえば尊王思想最古参の地なので然もありなんというところだ。
しかし新選組にそんな事情は関係ない。歳三らの憤慨ぶりは想像に容易い。
鳥羽・伏見の敗報を受け総大将として出陣することを望まれ、
「よし、これよりただちに出馬せん。皆々用意せよ」
と勢いつけさせておいた上でのこの仕打ちだ。
慶喜が二心殿と揶揄される由縁である。
勇と合流した歳三ら新選組も東帰することとなり、天保山沖より新八らの乗る順動丸、そして勇と総司や負傷兵と歳三が乗る富士山丸が大坂を後にした。
船上で山﨑烝が死亡しており、生き残った隊士は百十七名。『浪士文久報国記事』に記されるこの時の隊編成は、局長・近藤勇、副長・土方歳三、副長助勤・沖田総司・永倉新八・原田左之助・斎藤一・尾形俊太郎、諸士調役・大石鍬次郎、小荷駄方・安富才助・中村玄道、歩兵頭・岸島芳次郎、隊長附・相馬主計である。
富士山丸は一旦横浜に入港し、負傷者を入院させてから品川に到着している。
歳三らは旅宿・釜屋で宿泊することになり、勇と総司は神田和泉橋の医学所で良順の治療を受けることになった。
束の間の休息の中、勇と歳三は江戸城に登城し、佐倉藩士・依田学海と会う。
勇は鳥羽・伏見の戦いの様子を訊ねられ、怪我の為に参戦しなかったことを伝え、実戦指揮を執った歳三に答えさせた。
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