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「もはや武器は鉄砲でなければなりません。我々は剣と槍で戦おうとしましたが、一切用いることはできませんでした」
この痛みを伴う実感が、剣客集団の副長から、近代化された軍隊を率いる者として目覚める切っ掛けとなったのだ。
新選組には鍛冶橋門内の元・秋月右京亮の役宅が屯所として用意され、追々負傷兵も無事に退院した。
この期間中、新八が島田ら九名程度を連れて深川の品川楼に出掛け三日間も飲み続け、しかも三人連れの武士と喧嘩し、眼の下に軽傷を負うという事件が起きていた。
漸く帰陣した彼に、歳三は
「軽い身体じゃねぇんだ。自重しろ」
と叱ったという。
その後上野東叡山にいる慶喜の警衛を命じられるが、翌日にはかねてから勇が願い出ていた甲州行きの許可が下りたので、甲州街道の要である甲府城を新選組が押さえることになった。
命令を下したのは国内事務取扱・大久保一翁だが、許可を出したのは軍事総裁・勝海舟だといわれている。
裏事情としては、勝は江戸城無血開城計画を構築していたので、最もという程の主戦派である新選組を江戸から遠ざけるという目論見があったのだ。
新選組の勇名に惹かれて援軍が付いたりしないように、甲陽鎮撫隊と改名までさせられている。
こう認識していたことは後に新八も語っていることであり、当然歳三も重々承知であったであろう。
それでも行かなければならない、武士の矜持がある。
甲府城を押さえたら甲州百万石をやろうと、鼻先に餌までチラつかせられていたので、勇はこの地に慶喜を移し、甲州百万石のうち隊長は十万石、副長は五万石、副長助勤は三万石、諸士調役は一万石、会計と伍長は五千石、平隊士は三千石とそれぞれ分配しようと話していたという。
その餌を上手く使い、浅草をまとめる大頭目・矢島内記に旗本にしてやると持ちかけて配下百名を附属させ、総勢二百名余りで出陣した。
この時期以降、勇は若年寄格・大久保剛、歳三は寄合席格・内藤隼人を名乗っている。
まさか勝手にこの由緒ある苗字を使っているわけではなく、慶喜から贈られた名であったという。
歳三の名乗る隼人とは、代々土方家の跡取りが使ってきた名である。
隊は既に洋装に改め、砲八門に小銃三百挺を装備していた。
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