一夜ひとよ

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 それもそうだ。彼の家は地元でお大尽と称される程の豪農で、彼はその跡取りでないどころか十人兄弟の末っ子だが、それ故にというかその代わりに自由気ままを許されている、甘やかされていると陰口叩く者もいるのだ。  しかしそれよりむしろもう一つの異名の方が大手を振って歩き回っている。  石田村のバラガキ。  茨のように触れれば怪我をする、要は有名な悪童がそのまま大きくなってしまったような男だ。 「しょうがねぇ。おい誰か。相手してくれよ」  目的の人物に会えない、薬も売れないではここまで来た甲斐がなさ過ぎる。  ついでにこの大量の薬を買ってくれという意味である。  道場主不在のここで門弟達を一人残らず圧倒し、大儲けしようという腹積もりだ。  この小さく少しボロくも見える道場を特段見縊ってのことではない、これがいつもの手法なのだ。  様子を窺っていた門弟達はざわつく。  早く他所の道場に声を掛けに行かなければ、そうだ今回も練兵館の小五郎さんに頼もう、などとヒソヒソし、二、三人が任せろとそそくさと出て行こうとした。 「いいですよ。僕がお相手します」  この言葉に驚いたのは薬売りだけではない。  そう、何故か薬売りまでもが、顔にはあまり出さないもののしっかり驚いていた。  この青年が弟子達の中で一番弱く見えたからだ。  上背は高いもののヒョロリと細い体躯、受け答えは丁寧で落ち着いているがどこか幼げな表情をして、年齢は自分よりひと回り程も下に見えていた。薬売りも溌剌とした若く見える風体ではあるが、実際は七つ下の十八歳である。 「試衛館(うち)が道場破りを相手にしないのは、試合が不得手だからではありません。加減ができないからです。怪我しても、知りませんよ」  門弟達が驚く理由は、この青年がもしも本気で打ち合えば、確実に相手をコテンパンにしてしまうであろうと予測しているからだ。  通常、他流試合を申し込まれた場合、三本勝負の内の二本は取っても一本は相手に贈る。どんなに実力差があってもそれが礼儀なのだ。  そんな礼法など知らんとばかりに打ち負かしてしまいますがいいですか、という確認だ。 「言うじゃねぇかボウヤ。泣いたってやめてやらねぇからな」 「おしゃべりより、さっさと構えたらどうですか。オジサン」  先程まで纏っていた雰囲気とは反対に、早くやりたくて仕方がないという風に青年は既に構えている。
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