一夜ひとよ

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 天然理心流平晴眼。通常の正眼の構えよりもやや左側に剣先がずれる、この流派独特の構えである。突き技を想定した構えとの説もある。刃先が内側に向くことで、体内に命中しなくても、確実に相手を傷つける。  そう、このように、この剣術は試合で勝つことを想定していない。実戦で相手を殺傷することを目的としているのだ。  薬売りも喧嘩ッ早さでは負けていない。実際はこのような解説を挟む間もなく、上段に構えたかと思うや否や、いきなり面を打ち込んでいた。  その剣先を擦り上げて、首の皮一枚燃やすような瞬速の突き。  赤い糸のような傷が女のように白いとか言われてしまう首の左側に走った。  元よりここに、薬売りの味方などいない。道場内は大拍手の波に包まれた、というのは大袈裟だ。門人達は目に留まらぬ早業に何が起こったか理解できず、あっと息を飲むに終始する者が大半だった。 「泣いても喚いてもやめてあげません。さ、構えてください」 「……クッソガキ」  構えてもいない相手に打ち込むような非道はしない、さぁ早く構えろ、とでも言いたげに、また平晴眼に構えて待っている。  この青年も、平素可愛らしく表現すれば意地悪に振る舞うようなことはしない。  原因は薬売りにある。  今生で唯一尊敬して先生と呼ぶ男を愚弄されたからだ。  自身、鬼瓦と呼称された男が、敬愛する先生のことだとすぐに結びついてしまう辺り、ほぼ同罪ではと言いたくなるところだが。  誰の目からも余裕で甚振っているように見えているが、実は内心、青年だけが密かに驚愕していた。  彼が平晴眼で構える時は紛れもない本気である。  最も得意とする突き技前提の、本気で仕留めると決めている時の構えだ。  先程の、常人には目にも留まらぬ程の神速の突きも、剰りの容赦のなさにいっそ笑ってしまいそうだが宣言通り加減が出来ないにも程がある、いくつかある人体の急所のひとつ喉頭隆起、俗にいう喉仏を狙って強かに突いている。  それを、ほんの僅かに避けられ、首を掠めるだけに留まったのだ。  留まったとはいえ、あれだけの速さと強さで突いては、手にしているのは木刀だろうが本身のように皮一枚くらいは切れる。  どうやって避けたのかは薬売り本人にもよくわかっていないが、咄嗟に頭でも振ったのであろう。獣が生来持つ、生き残ろうとする本能、野生の勘みたいなものとしか言いようがない。
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