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家康は後北条氏に支配されていた豪族と甲州武田氏の遺臣を加えて、普段は農業に従事しているが有事には武装して戦うという半農半武の集団・八王子千人同心を組織し、甲州街道の進撃から江戸を守る要所とした。
土方家もその一家であったのだ。
ちなみに塾頭とはその名の通り、道場内で最も剣術に長けた者が任される役回りで、総司は十八歳という異例の若さでその座にある。
本気で打ち合えば実は勇をも凌ぐのではないか囁かれる腕前だ、他の門人に文句などある筈がない。
その誇りよりも彼にとって、近藤勇の一番弟子だということが何よりの重要な存在意義であるらしい。
この日を境に、歳三は頻繁にこの道場・天然理心流試衛館を訪れることになる。
正式な入門となるのはまだ先の話だが、この男特有の羽根が生えたような自由気ままさで、薬の行商をしながらフラリと遊びに来る、という有様であったが。
近藤勇が道場主を務め、沖田総司が塾頭、後に土方歳三が入門する天然理心流とはどのような剣術か。
どの書籍を読んでも、揃って実戦重視の剣術だと書いてある。
江戸時代後期に近藤内蔵之助が創始した剣術で、天真正伝香取神道流の流れにあたるとされている。
剣術だけではなく、竹内流捕手腰廻小具足の流れを汲む柔術や棒術なども含まれており、それぞれ皆伝まで存在している。
内蔵之助は江戸両国橋付近に道場を開いたが、農村にも出向いて指導を行ったという。
安寧の江戸時代も後期ともなると幕府の弱体化が露呈され、治安が悪化していく中、武家の坊ちゃまが決まり切った作法のように習う剣術とは別で、平素鍬を振るう農民であろうと自らと家族の身は自分で守らなければならない、生きる為に強くなる術を手に入れたい者達にとって救いのような試みは頗る評判となり、門下生がどんどん増えて行った。
二代目の近藤三助は内蔵之助から指南免許を受けて後に養子となることで流派を継いでいる。
このように天然理心流は血の繋がった親子で流派を受け継いでいるのではなく、あくまで実力重視で、門弟の中からこの者こそはと選ばれた者が継いでいくという習わしとなっている。
三助も内蔵之助の意志をまで受け継ぎ、武蔵国多摩地方などまで出向き、やはり農民にも惜しみなくその武術を教授していた。
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