一夜ひとよ

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 北辰一刀流、鏡新明智流、神道無念流、心形刀流の江戸四大道場や他の有名流派と比べて必然的に、豪農出身者が圧倒的に多い。  洗練された華麗な型や多彩な技よりも、何よりも負けないこと、生き残ることを重視した、明日すぐにでも使うことになるかもしれない、その時に必ず生きなければならないことを想定した剣術である。  その基本理念は勝つ剣術ではなく負けない剣術である為に、他流派からは田舎臭い百姓剣法と揶揄されることもあった。  後に三助は指南免許を誰にも与えないまま早世してしまったので、高弟達がそれぞれ各地で教えて行くことになり、その中の一人が近藤周助であった。  周助は三助から剣術の免許を得ていたので、主に剣術を教えていた。  彼が住居兼道場として建てたのが、江戸市谷の試衛館である。  嘉永二年、門弟の中でも実力は勿論、持ち前の明るさと統率力を備えた宮川勝五郎を養子に迎え後継者としているのが、後の近藤勇だ。  農家の倅が道場主とはかなりの抜擢であり順風満帆に見えるが、何故その優等生然とした勇が歳三と知り合いというかまるで知己のような交流に到ったのか。  それは共に幼少期から地元のガキ大将であり、何度も喧嘩をして、互いに意識し合っており、警戒しつつもどこかで認め合っていた、ある種戦国時代の武田信玄と上杉謙信のような好敵手的関係性であったからだ。  冒頭から得体の知れない薬売りとして登場した歳三は、天保六年五月五日の生まれだ。  誕生日という概念が薄い江戸時代で、夭折した子を含めて十人兄弟の末っ子の彼の生まれた日が明確なのは、その日に端午の節句で軒菖蒲をしていたとの記録があるからだ。  武蔵野国多摩郡石田村は幕府直轄領つまり天領であり、玉川上水が作られてから急速に開拓が進み、江戸を支える近郷農村として発展していた。  その為多摩一帯は豪農が多く、文化的水準も教養も高い。そして土方姓が多いその中でも歳三の生まれた土方家は近隣からお大尽と言われる程の豪農であった。  末っ子で本来は甘えん坊らしい歳三だが、父義諄は彼が生まれる数か月前に労咳つまり肺結核で亡くなっており、母恵津も同じ病で幼い歳三を遺し亡くなっている。  母が恋しい盛りのたったの六歳であった。  歳三は兄と姉とを親代わりに成長し、悪名高くバラガキと名指されるようになった。  つまり茨のように、男女ともにハッとするような美貌ながら触れれば鋭い棘で怪我をさせられるような悪童故についた二つ名である。  史料でよく目にする、高幡不動尊金剛寺の門に登り、鳩の巣から卵を取り出して参道を通る人々に投げつけていたという所業は何歳くらいの頃の話であろうか。
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