一夜ひとよ

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 その地に現代では彼と無二の盟友を顕彰する殉節両雄之碑や真正面をしっかりと見据える凛々しい彼の銅像が建立されているのだから、やはり菩提寺というのは縁深いものである。  喧嘩ッ早くしかも売られた喧嘩は買い、有言実行で鬼神のように強いので、地元の悪餓鬼達を束ねる餓鬼大将となっていた。  地元じゃ負け知らず同士、ひとつ年長の勇、幼名勝五郎と知り合ったというか何となく意識し合っていたのはこの頃からである。  弘化二年、十一歳の歳三は上野広小路の大店伊藤松坂屋呉服店へ奉公に出された。  武家も農家も家を継ぐのは長男の役割であり、どんなに数が多くても裕福でも次男からは部屋住みと呼ばれ家業に携わることは勿論、立身出世も自由な婚姻すらも許されないという時代であった。現代でいうと自宅警備員とか子ども部屋おじさんとかいう状況である。その苦行を逃れる術は商家に奉公に出て商人となるか、他家の養子となりその家を継ぐかしか、一人前になる道はなかった。  既に家長を亡くした土方家は長男の為次郎が盲目だった為、歳三より十四歳年長の次男喜六が継いでいる。ちなみに土方家家長は代々隼人を名乗る仕来りであり、この折に隼人義厳と改名している。彼とその妻ナカが親代わりとなり歳三を養育していた。  末っ子でしかもバラガキで、そして乳飲み子の頃に誤って地に落とされてしまった時にも声を上げて泣かないどころか涙一粒も零さなかった上に、江戸時代後期は三歳頃まで授乳するのが普通であったが見向きもせずに米が大好きで、なんと幼少期から鬼の子よと揶揄されたという歳三は、冷や飯食いもしくは飼い殺しのミソッカスのように扱われても文句の言えない時代と環境の中で、この奉公は紛れもない幸運である。歳三がいかに愛されていたかの証ともいえる。  その名でピンと来たかたも多いであろうが、現代の松坂屋百貨店の前身であり、奉公組の中でも間違いなく出世街道だ。  ちなみに兄の大作は多摩郡下染屋村の粕谷家の養子となり名を良循と改め、歳三が最も懐いて嫁ぎ先まで我が物顔で居付いたという姉のぶは日野家名主佐藤彦五郎に嫁いでいる。  さて奉公だが、歳三は五歳頃から背丈が伸び、同じ年頃の子どもよりも一つ頭大きく、どこか人を食うような、目上の者に対しても負けたり逃げたりは一切せず、敵わぬの言葉を決して言わない強情者であったので、想像に容易いことではあるが些細なことで番頭の怒りを買い、頭に拳骨を受けてもなお喧嘩腰のまま抗論を続け、夕方に混み合う店の隙に紛れて出奔し、実家まで九里、約35kmもの夜道を歩いて帰ってしまった。  鬼脚と勇名高い由縁である。
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