一 嚆矢

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一 嚆矢

 文久三年 九月十六日 夜。  新選組屯所 八木邸。  その日は降りしきる雨の音だけがサァサァと庭に響いていた。木の葉や屋根に溜まった雨水が落ちれば、ぴちょぴちょと音を立てる。  雨で霞んだ庭の中、塀の上にしゃがみ込む二つの影が見えた。水干のような服を纏い角傘を被った影。その一人は狐の面を付け、また一人は貂を模した半面を付ける。その口元を固く結んでいるのが見えた。  もう一人、狸の半面を被った男はどかりと胡坐をかき、主屋の屋根に身を潜める。  三人はただ静かにその時を待っていた。  三人が見守る中、から足音小さく四つの影が庭を伝いやってくる。土方歳三、沖田総司、原田左之助、山南敬助の四人が主屋の外に身を潜めた。  まだ暑さが残る九月。主屋の雨戸は開けられたまま、縁側と部屋の間を仕切るのは衝立だけだった。  その奥で眠っているのが芹沢鴨の一派。土方たちがその在非を確認する。 「なんや、若虎はおらんのかいな」  塀の上からつまらなそうに零すのは狐の面の男。名を狐火(こっこ)と言う。庭に身を潜めた四人の中に若虎と呼ぶ男がいないことを知ると、残念そうに横を見遣る。「なあ、(てん)」と隣の青年を呼ぶ。貂は狐火の言葉に答えることはなくただ四つの影を見つめていた。  部屋の様子を伺って間もなく、土方が左手をすっと上げ合図をする。他の三人が刀を抜く。少しの間静寂が流れた。  土方が上げた手を下ろした次の瞬間、四人は一斉に部屋の中へと押し入った。 「芹沢ああああああ!」  土方の雄叫びが響き渡る。「やあああああ!」と後の三人も土足で縁側から踏み込んでいく。  土方が衝立越しに芹沢が寝ている辺りを突き刺した。すっかり眠っていた芹沢も突然の襲撃に目を覚まし、枕元に置いてあった短剣を引き抜き応戦する。 「土方ああ! 謀ったか!」  さすがすぐに状況を判断した芹沢は、刺された脇腹から滲む血を手で押さえながら吠えかかる。しかし土方が容赦なく刀を振り上げた。 「きゃあああああ!」  芹沢の横で寝ていた女は飛び起き、這いずりながら部屋の奥へと逃げようとしていた。それを沖田が刀を縦に一振り、背中めがけて斬りつけると鮮血が宙を舞う。  女がぱたりと倒れたその向こう側、震える手で刀を沖田に向け、青眼に構える男の姿が見えた。 「原田さん、平間と女たちが逃げました! 我々はそちらを追いましょう」  奥の部屋へと真っ先に押し入っていた山南が原田に叫ぶ。 「マジか。逃げられるとおもっちゃ困るなあ」  原田はニヤリと笑うと先に主屋を出た山南を追い、表から駆け出していった。  塀の上から眺める光景は悲惨であった。  障子や襖が壊れる音、女たちの叫び声。天井に、床に壁に降り注ぐ血しぶき。それは縁側までをも汚していた。 「えっげつな」  軽蔑するように狐火が吐き捨てる。  どうにか部屋から逃げ出した芹沢が縁側を伝い、隣の部屋へと逃げ込もうとするが、部屋の隅にあった文机に足を引っかけてバランスを崩す。ギシギシと縁側を踏み鳴らし、その後を悠々と追いかける土方。  すぐに体勢を立て直そうと土方の方に向き短剣を振り上げた芹沢だが、情けもかけずに土方が斬り捨てた。  部屋中に、縁側に血だまりが広がり、男女の屍が転がる。貂はその光景を見つめ、息を呑んだ。 「なあ、貂」  異様な空間に不気味な声がそれを呼ぶ。 「化け物か人か。ほんまに怖いんは、どっちやろなあ?」  くくくっと笑う狐火の表情は面に隠れ見えないはずなのに、どうしてか不敵にニヤついているのが想像できた。  貂はそれでも無言を貫き通していた。  貂が見つめる先、主屋の暗い部屋の中からひたひたと血を踏みしめ出てくる人影が目にうつった。その姿を見て貂がぎょっと目を剥く。  顔や着流しが真っ赤に染まった姿。返り血で塗られた顔には白目だけがぎょろっと光る。夜光に白く浮かぶ眼が貂を捕えると、貂の心臓がどくんと波打った。 「なんや、若虎もおったんかいな」  狐火が再びくくくっと笑う。 「平助……」  宙に消え入るように貂が零す。その様子に狐火が全く仕方がないと息を吐いた。 「貂、ほな仕事や」  狐火が息を吸うと手印を結んだ。  ▼▼▼  さかのぼること一ヵ月前。 「こっちが狸吉(たぬき)。そんでこっちが(てん)。うちが狐火(こっこ)と申します」  新選組屯所、八木邸の奥座敷。上座には狐火を挟み、貂と狸吉の魂喰(たまくい)一同が並んで座り、下座には新選組が坐している。 「わざわざお越しいただき、ありがとうございます」  近藤勇が頭を下げる。どっしりと構えたその姿はすでに貫禄があり、優しいとも不敵ともとれる笑顔を浮かべていた。 「なんや将軍の警護や言うて、江戸から出て来た浪士が京都に居座ってると聞いてたんやけど。まさか帝が直々に市中見廻りを命じるとは。捨てる神あれば拾う神ありとはこの事やなあ」  狐火が扇で口元を隠しくくくっと笑う。 「てめえ、失礼な事いってんなよ! 俺らは自らの意思でここに残ってんだよ。ああ!?」  狐火の言葉に噛みついたのが沖田総司。背が高く地黒の肌を持つ沖田は新選組でも一番威勢が良い若獅子だった。 「総司」  近藤がたしなめるが「だってよ、先生」と沖田が食って掛かろうとする。  数々の修羅場をくぐり抜け、今なお生き永らえた芹沢。その男は退屈そうに胡坐をかきその様子を眺めていた。  沖田をなだめていた近藤が言葉を続ける。 「この度会津の松平様から正式に『新選組』という名をもらいましてな。この芹沢先生を筆頭に京都の治安維持の為に尽力したいと思っているところです」 「名前あげたんも幕府やなくて帝やろが」  小さく不満をもらした狐火の言葉に狸吉がちらっと隣を見遣る。 「ついては、昔から朝廷の元で京の街を守っておられるあなた方、魂喰の方々と協力するようにと仰せつかった。我々が不逞浪士(ふていろうし)を取り締まる。あなた方がそこから派生する兇魂(くたま)を祓う」 「兇魂って憑いて人を乱心させるやつだろ? 江戸や他の国にも正気を失って暴れ出す奴はいたけど、大概斬って終わり。あんたたちと手を組む必要なんてあんのか?」  近藤の言葉に続いたのが永倉新八だった。小柄で若いが、剣術の修行として数々の国を周っていたこの男は広い視野と先見の目を持って物事を捕える。  喋る度に尖った歯が覗く愛想の良い青年だ。  その隣でうんうんと頷いているのが原田左之助。チャラチャラとした風貌の原田は、永倉の言葉が分かってか分からずかただ頷いている。深く考えるよりも直観で動く楽観的な性格だとよく分かる。  狐火が開いていた扇をぱちんと鳴らし閉じる。 「この町はな、他の町とは違うんよ。どこよりも兇魂が強力に育つ。斬った体からは膨大な力を得て形を変えた兇魂が抜け出す。町を壊す。人を食らう。人に(えん)があるからなあ。それを喰って祓うんがうちら魂喰や」  顔を見合わせ未だ理解できないといった雰囲気の新選組。 「百聞は一見に如かず。やなあ、貂?」  くくくと笑い狐火が貂を見ると、貂がこくりと頷いた。  「そんなこと言ってもなあ」「信用できるのか?」とざわつく新選組を貂が見回す。  暑苦しい烏合の衆の中に貂はひと際目を引く一人の隊士を見つけた。その男、藤堂平助は他の隊士にまじり、ちょこんと綺麗に姿勢を正し正座していた。  「女……ではないよな」と貂がぼおっとその姿を観察する。  長い髪を下に結わえ、前に垂らす。華奢な体と品のある顔つきが女にも見えた。藤堂は新選組と魂喰の会話には入ろうとせず、ずっと窓から外を眺めている。 「つってもなあ、魂喰さんよお」  芹沢が悪態をつけば狐火が不機嫌にそちらを見遣った。 「初めて会って挨拶するのに顔も隠したまま、変な(めん)被った奴らを信じろってのも難しいもんがあるだろ」 「一理ある」  永倉が賛同すれば、それに原田が乗ってくる。 「それ取って顔見せるってるのはどうなわけ?」 「近藤先生、こんな奴らと手組んで大丈夫なのかよ」  沖田もいよいよと訝しみ出し、新選組隊士たちが芹沢の言葉にざわつきだす。  貂は相変わらず面の奥から静かにただ座る藤堂を見つめていた。
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