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机の上に飾られたガーベラの花びらが、ふいにぽとりと落ちた。太陽光を反射して、ガラスの花瓶は木目の上に幾何学模様を浮き上がらせる。綺麗だけど不協和音で、少し悲しい。
ふと、視界の隅を影が通り過ぎた。
――カラス?
つぶやきの最中、突然引き寄せられた。
私の視界に窓はもう無かった。椅子も机もない。足元は木の床からコンクリートに変わっていた。
天井もない。ここは屋上だ。来たのは初めてだけれど、見たことがあるから知っている。その縁、フェンスの外側に先生と私は立っていた。届きそうで届かない距離で、正面から向き合って。
アイロンのかかったしゃんとしたシャツ、無地のシンプルなタイ、胸ポケットに差した祖父の形見だといっていた万年筆。先生と呼ばれる人間にしては幼くて優しすぎる眼差しがそこにあった。
「やっぱり。よかった、君で」
やわらかい微笑みが私を歓迎していた。先生の黒髪が朝の光を弾いている。瞳の色は教室で見るよりも明るく、鮮やかな世界を捉えているようだった。昨日まであった翳りがない。
先生はもう手放してしまったんだ。
「どうして?」
「どうしてって、どうして?」
やっと絞り出した言葉を、先生はそのまま返してくる。
「君は、全部わかってるんだろう?」
「何も知らない。私はただ、役割を負っているだけ。
先生が勉強を教えていたのと同じ」
「そう……」
冷たい風が先生の声を吹き飛ばそうとする。
「どうして、人間だけ……生きる方法を知らないんだろう。
そんなもの、生まれた瞬間から持ち合わせてなきゃいけないんじゃないのか?」
「わからないよ。私は生きてないもの」
困ったようなこの笑顔がすきなのに、同時に心から悲しむ顔を見たいと思う。先生は今、本当に笑っているの?
確かめようと頬に手を伸ばしたら、先生はゆっくりと首を振った。大きな手のひらに包まれ、そっと押し戻される。
まるで私がその熱を奪っているかのように、先生の指先はどんどん冷たくなっていく。
恐ろしくなって手を離すと、先生は静かに目を伏せた。
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