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□43.ヴァチカンの使者□
「ほら、花をお食べ。ピピ…よしよし良い子だねえ」
その小さな小屋ほどの教会は、緑に没するように建っていた。
その入り口で、あのエリックの前から逃げ出した神父が、のんびり椅子に腰掛け、膝の上で指にじゃれつく小猿に黄色い花を食べさせていた。
その膝の手元に太陽の光を遮る影がさした。
「ジョルダン神父、こんな所に居たんですか?意外でしたね」
若い男の声に顔を上げた神父の顔は、その姿を見た途端、一気に顔を引き攣つらせた。
美しい金色の巻毛に白い肌の修道服姿。
柔和な顔立ちに澄んだ碧眼の美青年はさながら天使が舞い降りたかのような佇まいで神父の前に立っていた。
「ヨーロッパで姿を見かけなくなったので、てっきり死んだかと思いましたよ。ジョルダン神父。まさか遥々東南アジアの地でこうしで邂逅するとは。
…やはり神のお導きなんでしょうか?」
対峙する二人の反応は対照的だった。
余裕で微笑む天使と怯える神父。
「お、お前は異端審問官のラウェル…!
な、何しに来たんだ!わ、わしは異端審問会で自らの破門を民衆の前で晒して罰を受けたではないか!これ以上どうしろと言うんだね!」
「フフ、あんな恐ろしい実験をしておきながら、破門だけで済んで幸でした。世が世なら本当なら貴方は火炙りです」
そう言って静かに微笑むその口から、毒を含んだ言葉がスラスラと出てくる。返ってそんな様子が空恐ろしい。
「か、帰ってくれっ!ワシにはもう用もなかろう!」
神父は教会の中に急いで引っ込もうとすると、ラウェルはズイと教会の中へと踏み込んできた。
「ほう?布教活動はしないと誓いながら、こんな立派な教会を?地の果てなら分からないと思いましたか?
この事はヴァチカンに報告しますよ?
さて今度はどんな罰が降るでしょうね」
うっ、と神父は言葉を詰まらせ天使の足元に縋るように跪いた。
「やめてくれっ、ワシはもうあの時のワシとは違うんだ!
蘇りや不老不死など信じてはおらん!当然実験などしてはおらん!ワシだって食って行かなきゃならんのだ!ちゃんと聖書に則って布教をしている!本当だ!だから、ここの事はどうか…、あ…っ、ああそうだ!黙っててくれたら、良い情報を教える!」
必死に訴える最中、神父はある事を思い出して急に諂うような笑顔になった。
張り付いた表情の天使の瞳だけが神父を見下ろすように動き、微かに興味を示したように見えた。
「情報?」
「あの少年が、いやもう立派な青年だったが、このハノイで会ったんですよ!それをお探しだったんでしょう?」
ラウェルの目は明らかに興味を示して見開かれた。
「何処で…会ったのですか?!本当に彼だったのですか?!」
食いついた!
神父は内心これで助かるかもしれないと思った。
「本当です!あのペンダントをまだ持っていましたから」
「ペンダントを?…その話が本当ならば、私に会わせてもらえないでしょか」
「分かりました、なら取引です。私が彼に会わせて差し上げたら、この教会と私の事はヴァチカンには内密にして頂けますか!」
ラウェルは不服そうな表情だったが、「承知した」と答えた。即答だった。
それほどこれがヴァチカンにとって重要事項と言う事なのだ。
「神以外の奇跡など、ヴァチカンは絶対に認めるわけにはいきません。蘇りなど…、そんなものがあったなら、私は全力で潰します。
それで、いつ会わせて貰えますか」
福音でも説くような穏やかな声とは裏腹な殺気と威圧感が、この天使の身体全体から湧き上がっているように見えた。
その場凌ぎに軽はずみな取引をしたものの、神父とてエリックに一度しか会った事がなかった。
何処に住んでいるのかも定かではなく、再び会えるか何の保証もない。
しかしこうなっては約束するより他に道は無かった。
「す、直ぐに会わせて差し上げます!ええ!必ず!」
苦しい…、苦しい。
ここは何処?
出して!怖い!痛い!
母さん!
母さん!!
暗闇の中でエリックは目を覚ました。
身体が激しく痛み、恐怖でもがけどもがけど何かの箱に詰められているようで、前も横も足元も、蹴っても殴ってもびくともしない。まるで棺桶の中に居るみたいだ。
箱の中はきつい花の香りが満ちていて、自分が花に囲まれているのが分かった。
「だ…っ、誰か…っ、、」
エリックは思い切り声を出したつもりだったが、その声は喉に詰まり、掠れて外には届いていないようだった。
横たわった箱の天井を、エリックが弱い力で蹴り上げるが、そこはびくとも動かない。
「誰か!出して!…ここから出して!」
ここは棺桶の中だ!
それに気づいたエリックは棺の蓋を叩いたり引っ掻いたりしててもがいた。
息が段々苦しくなってきて、エリックは爪が剥がれて血が滲むほど、棺の天井を引っ掻き続けていた。
誰か…!
僕はここにいる!
気付いて!
ここから出して!
怖い!!
誰か助けて!
その時、棺が揺れて、漸く蓋が外された。天井の細い光は眩しく目を射抜き、誰かの叫び声を聞いた気がした。
「……ク」
「…ック!」
「エリック!」
はっきりとヴィクトーの声が聞こえ、エリックはゆっくりと覚醒した。
「ヴィクトー…?」
「どうしたんだ、随分うなされていたぞ」
ぼんやりした視界の中、心配そうに自分を覗き込んでいる恋人が見えた。
ここは固く冷たい棺ではなく、柔らかく暖かいのベッド中だった。
エリックの傍では半身を越したヴィクトーがエリックを心配うに覗き込んでは、汗で額に張り付く黒髪を指ですいている。
「汗凄いぞ、待ってろ、今拭くものを持ってきてやるから。寝巻きも着替えないと風邪をひく」
寝床を出て行こうとするヴィクトーをエリックが慌てて抱き留めた。
「行かないで!もう少しこのまま…!」
いつに無く怯えた様子のエリックの背中をヴィクトーは宥めるように優しく摩った。
「怖い夢を見たんだね?
でもそれは夢だ。もう大丈夫だよエリック」
「違う…、夢じゃ無い!夢なんかじゃ無いんだ!あれは本当のことだもの」
「……あれ?」
「幼い頃、つけられたこの十字の傷の話し、覚えてる?」
「勿論、勿論だよエリック。いつも君を抱く時、その傷を目の当たりにすると胸が痛む」
寝巻きの襟元から覗くエリックの古傷は、両鎖骨の真ん中辺りから臍の下まで痛々しい切り傷が走っていた。そして背中には十字の傷を背負っていた。
出会って間も無く初めての夜を迎えた時に、エリックはその古傷をヴィクトーに見せてくれた。
そしてこう言ったのだ。
自分は一度死んだ人間だと。
いかがわしい宗教にハマった母に殺されて、そして何故か棺桶の中で蘇生したと言う壮絶な過去がエリックにはあった。
「真っ暗で、怖くて、苦しくて…。でも目を開けたら貴方がいて…」
「そうだよ、俺がいる。だから安心して良いよ」
ヴィクトーの身体から響く優しい声に、エリックは次第に落ち着きを取り戻していったが、胸の中の何処か遠い空で、黒雲が沸々と湧くのをエリックは感じていた。
明日は出発だと言うのに…何故今更こんな夢…。
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