密林の奥深くへと

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□51.スリリング!□ 蝶ネクタイに三揃い。手には花束を持った男がグリンダの家へと向かっていた。 ここは初めて訪れるのだろう、見慣れぬ風景に戸惑いながら、男はキョロキョロと目的の家を探している様子だ。 「ええと、三件並んだアパルトマン風の建物で…窓辺に雛菊の鉢があるとヴィクトーが言っておったな…」 そう、この男は誰あろうエルネストだ。 ヴィクトーが世話になっていると聞き、一度は挨拶に行かねばなるまいと思っていたが、この所の仕事の忙しさにかまけてなかなか挨拶に来られなかったのだ。 この日ようやく仕事が片づき、ヴィクトーから聞いていたグリンダの家を訪ねる事にしたのだった。 「雛菊、雛菊…。おっ、あったぞ。このお宅かな?」 窓辺に溢れる雛菊を発見したエルネストは、ここだとばかりにドアをノックしようとしたが、改めて辺りを見渡すと、あっちの家にもこっちの家にも窓辺に雛菊が咲いている事に気がついた。 この季節の雛菊はハノイの季節の花なのだ。 「ヴィクトーめ!なんて迂闊なやつだ。いや、だがアパルトマン風の家と言ったらここしか無いしな…だが向こうの家も…いや、こっちの家も…」 優柔不断に家の前をうろちょろしている怪しげな男がいる事に、窓辺の机に向かっていたグリンダが気がついた。 こんな滅多に人が通らない所に、しかも自分の家を訪ねようとしている男が外にいる。 これは千載一遇のチャンスじゃないのか? グリンダは肩越しにそっとエッカーマンの様子を伺った。 さっきまでグリンダに目を光らせていた男が、今は何とソファに長々と寝そべり、不覚にもうたた寝をしていたのだ。 今だ!今しかない! グリンダの目が光った。 だが窓の外ではエルネストが違う家に行こうとしていた。 焦ったグリンダは咄嗟に手元の紙を丸めて薄く開けた窓からそれをエルネストに投げつけたのだ。 それはエルネストの肩に当たり足元に転がった。 「おや?何だ?」 それを拾い上げたエルネストが窓へと顔を上げると、そこには何か言いたげな老婆がこっちを見ている。 訪ねるべき家が見つかったとエルネストは顔を綻ばせながら軽く会釈をし、彼女に話しかけようと口を開いた途端に老婆は喋るなと口許に指を立てたのである。 『悪い奴に監視されてる。助けてほしい。この家の鍵でドアを静かに施錠して』 グリンダは震える手でそう認めた紙に、ポケットから取り出した鍵を包んで窓の隙間からエルネストへと投げ落とした。 ソファを見るとエッカーマンはまだ目を覚ましてはいない。 投げられた手紙に困惑顔のエルネストにグリンダがジェスチャーとその表情で、早くしろと発破をかける。 その時目覚めるのも間近なのだろうかエッカーマンが頭を掻いてモゾモゾと動く。 グリンダは手に汗を握っていた。 カチャリ…。 ドアが外から施錠された。 それを合図にグリンダは半分ほど開けた窓へ小さな身体を滑り込ませた。 下ではエルネストが両腕を広げて待ち構えていた。 カタン、 その時風に揺れたカーテンが何かを倒した音がした。 その微かな物音にエッカーマンが浅い眠りから目が覚めたのだ。 ぼやけた目で机を見ると、今さっきまで大人しく解読に勤しんでいたグリンダが窓から逃走を図っているのが見える。 エッカーマンは咄嗟に跳ね起きると既に上半身を窓から出しているグリンダに怒号と共に掴みかかってきた。 「このババア!!逃げる気かーーーっ!!!」 だが間一髪と言うところでエルネストが彼女を抱き止めていた。 「早く逃げな!早く!早くだよ!!」 エルネストの腕の中でグリンダは足をバタつかせてエルネストを急かした。 「えぇ?!一体これはどう言う…」 「いいから早く!!」 まるで騎手に鞭打たれる馬の如く、エルネストは訳もわからず彼女を横抱きにしたまま走り出した。 「待て!クソ!!」 エッカーマンは追いかけようと窓に取り付いたが彼の身体は大きすぎた。 慌てて足を滑らせながら玄関ドアに齧り付いたが外から施錠されていて扉は開かない。 山のような資料と共にエッカーマンはグリンダの家に取り残されたのだ。 「くっそぉ〜!ヤリやがったな!あのクソババァ!!」 エッカーマンが銃で鍵をぶち壊した頃には二人の姿はもうそこには無かった。 田舎道を水牛がのんびりと荷車を引いていた。 その荷台にはエルネストとグリンダが呆然と座っていた。 走るのに疲れたエルネストが偶然に通りかかった牛車をヒッチハイクしていたのだ。 上がった息を整えながら、エルネストはグリンダにやっと挨拶ができた。 「はぁっ、ふぅ、申し遅れました。ヴィクトーが世話になって居ながらご挨拶が遅れて済みません。ハァ、ハァ、…私はエルネスト・エブラール。奴の後見人と言ったところでしょうか…。本当は貴女に花束を差し上げたかったのですが、ハハハ…、どこかで落としてしまったようです。 時にマダム。何故このような事になっておるのですかな?」 挨拶を受けるグリンダも息が上がっていた。 「ふぅぅ、はぁぁ、…私は…、言語学者の…グリンダ…、グリンダ・ゲイツ。詳しい話は道々するとして、アンタ、私をヴィクトーの所に急いで連れて行ってくれないかい」 「え?いやあ、それはちょっと難しいですぞ、マダム・グリンダ。ヴィクトー達は今…」 そう、ヴィクトー達は今、密林の切り立った崖に張り付いていた。 ヴィクトー、エリック、シュアン、タオと、ザイルで繋がれた四人はこの順番で崖を登って居た。 30mも登ると徐々にエリックは恐怖を感じ始めていた。 皮の手袋を嵌めていてもザイルは手に食い込んでくるし、足場にしているハーケンは極めて小さかった。 下を見ればまるでミニチュアの様な森が広がり、自分が落ちた時の様子がまざまざと想像出来てしまい、エリックは半分ほど来たところで足が全く動かなくなっていた。 「エリック!大丈夫だ。君なら行ける。下を見ないでオレだけを見て登るんだ。君のすぐ上にいる。大丈夫だから登っておいで」 「は、はい…っ、、」 そう返事はしたものの、エリックの足は、焦れば焦るほど一向に動いてくれない。 夕暮れまでには崖の上に着いていなければならないと言うのに、もう三十分もこうして一行は停滞したままだった。 西の空からは崖の上の寝ぐらへと帰って行く蝙蝠が群れを成して飛んでいた。 「エリック、私が貴方の下にいます。その下にはタオさんもいますよ、万が一の事が起きても全員で貴方を絶対に助けます。だから怖がらないで、エリック」 「ここまで登れたんだ。同じだけ登ったら到着する。後少しだよ、頑張るんだエリック」 シュアンとタオも懸命にエリックに声をかけ続けていた。 彼らに出来る事は今はそれしかないのだ。 だが無情にも夕闇は迫っていた。 もう登れないのかと誰もが諦めかけた時、エリックが再び登り始めたのだ。 夕暮れで下が見え難くなった事が奇しくもエリックの恐怖心を和らげた。 「良し!良いぞエリック!頑張れ!」 四人は再び上を目指した。 崖の上では足場を作りながら登って行った三名の現地スタッフが待っている筈だった。 それを励みにしながらやっとの思いでヴィクトー達は崖の上に辿り着いた。 時は既に日没間近、眼下に広がる密林は黒い森へと変貌していた。 後少し遅くなっていたら手元は完全に見えなくなっていたに違いない。 「やったな!良くやったなオレたち!エリックも、シュアンも、タオも、ありがとう!」 「ごめんなさい、、僕のせいで遅くなっちゃって」 「皆んな無事で辿り着けたのが何よりです!」 「もうボクは腕が痺れて動けませんよ、あはははっ!」 四人が口々にお互いを称え合い抱き合っていると、暗がりに松明が灯った。 一つ、二つ、三つ、そして四つ、五つ、それ以上の松明。 現地スタッフにしてはやけに多い数の松明が、ヴィクトー達を取り囲んでいた。
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