邂逅

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□55.シャングリラで会った人□ 第55話 シャングリラで出会った人 そこは不思議な場所だった。重苦しい暗闇を抜けると、これまでの緊迫感や緊張感とは無縁の世界がそこに広がっていた。 目の前には明るい草地が広がり、亜熱帯とは異なる木々が風にその梢を揺らしていた。 沢山の蝶達が踊り絡まりながら花々の間で戯れ、小鳥の囀りに混じって何処からか滝の落ちる音までも聞こえてくる。 皆はまるで異次元にポンと吐き出されてきたような錯覚に陥り、揃いも揃ってポカンとした顔を連ねていた。 シャングリラ、ユートピア、理想郷。そんなものがあるとしたなら、恐らくこのような場所なのだ。 「何だ、ここは…、 あの岩山の洞窟の反対側はこんな事になっているなんて!信じられない光景だ!」 辺りを見回しながら広がる草地を歩いていると、まるで密林での事が全て夢の中の出来事のように感じる。 いや、そうではない。この風景こそ、現実味がありすぎて返って胡散臭さすら感じてしまう。 「まるで…スイスの高地にでも来たようです。…ここは本当にインドシナなんでしょうか…」 その風景を見渡しながら、ぼんやりとした口調でエリックが言葉を漏らすその傍で、タオは思案顔をヴィクトーへと向けた。 「僕らは密林を抜けてハノイよりも北の高地にいるんですよね。だとしたら、こんな風景があってもおかしくは無いとは思うけど…、もしかしたら未だ誰も知らない場所に僕らは来ているんでしょうか」 「どうだろうか。だがこの地図はオレたちの登って来た崖より上は書かれていない。つまりは…、未開と言って差し支えはないかもしれん」 ヴィクトーは胸のポケットから取り出した地図をタオに広げて見せた。 皆も地図を囲もうとしていた時、鈴の音にも似た音が聞こえて皆そちらに目を向けた。 そこには二本角を持った水牛に良く似た茶色い生き物が数頭、のんびりと草を食んでいた。 牛の角にはカラフルな布が巻かれていて、その先端に鈴らしきものが付けられていた。 牛が首を動かすたびにそれが可愛らしい音色を響かせていたのだ。 「放牧されているのかな、きっとあの部族が飼っているんだね」 エリックの口元がその長閑で愛らしい姿に微かに綻んだ。 「私が最初に崖の上に蝶の群れを見つけた時は、まさかこんな場所への入り口があるだなんて思いもしませんでした。今まで見てきた碑文や遺跡のような物があるものだとばかり…」 そう話すシュアンの指先には花と間違えたのか蝶たちが遊びに来ていた。 「ここの何処かにそれらしきものがあると言うことか」 ヴィクトーがそう言った時、シュアンの指先から蝶がフワリと飛び立った。 蝶は小高い丘の方へとまるで誘うように飛んで行く。皆無意識にそれを追いかけていた。 見えてきた丘の頂上にはシンボルツリーのような、一際大きな巨木が一本、空に向かって姿勢を正している。 四方八方へと腕を伸ばす枝には美しい緑の葉が豊かに茂り、風を孕んではざわめいている。 ふと、ヴィクトーはその幹に寄りかかって座る人影がある事に気がついた。 人だ! それは近づくほどにはっきりと、くっきりとその姿形が見えて来る。 その人は歳をとってはいたがここの部族の人達とは違い、青い瞳と薄い唇を持つ自分達と同じアングロサクソン系の面差しをしていたのだ。 「あの…、」 ヴィクトーは躊躇いながら話しかけてはみたものの、その後なんと言葉を繋げれば良いのか躊躇った。 老人は驚く事もなく、穏やかな顔をヴィクトー達に上げた。 だがヴィクトーはこの老人を何処かで見た気がした。 懐かしいような、酷く切ない気持ちに駆られる。 この老人は一体…。 「オウム…。十番目のオウム」 その老人の口からあの合言葉が不意に飛び出した。 ヴィクトーの目が見開かれ肌がザワリと泡立った。 「…その言葉…、何故…貴方が…知っているんですか…」 「オウム…、十番目のオウム…」 老人はその言葉ばかりを繰り返す。 「貴方は誰ですか…?何処からここへきたんですか?この村は何と言う村ですか?」 ヴィクトーは矢継ぎ早に老人へと質問をしたが、微笑んでいるばかりで何も答えない。 「おじいさん、おじいさんは…」 そう言いかけたエリックの肩にシュアンがそっと手を置いた。 「この方は、喋れないのではなく、何も覚えていないのですよ。多分…」 シュアンは老人の前に跪くと優しくその額に手を当てた。 老人の瞳は何処かずっと遠いところを彷徨っていたが、その乾いた唇からか 微かに燻んだ声が「ヴィッキ」と言った気がした。 その瞬間、ヴィクトーの胸の何処を衝撃波が貫いた。 「ヴィッキ」遠い昔、誰かが自分をそう呼んでいた。 それは誰だったろうか…。 「おじいさん…今なんて?ヴィッキと…、言ったのではないですか?」 ヴィクトーの中から熱いものが蓋を失ったマグマのように込み上げる。 思い出した!幼い頃、自分は両親にそう呼ばれていた! ヴィクトーも老人の前に膝を折り、思わずその肩を揺さぶっていた。 「もしかして…もしかして貴方は…ルネ・マルロー教授…、オレの父ではありませんか?!」 面差しは似ても似つかなかったが、その瞳の色が同じだった。 深い海のようなブルー。ヴィクトーはその瞳を懸命に覗き込んでいた。 だが父は十五年前、遺跡の探索中に遺跡と共に崖下に落ちで死んだ筈だ。 病院で目が覚めたヴィクトーにエルネストがそう教えてくれた。 だが、確かに誰も遺体を見た者は居なかった。 高い崖下の激流に遺跡もろとも飲まれて遺体は探そうにもその場所へは行けなかったのだ。 だとしたら…? 父がそこで生き延びていたとしたら…! そう思うと矢も盾もたまらず、ヴィクトーは老人の足元に跪き、無我夢中でその両肩を揺さぶった。 「貴方はオレの父さんじゃ無いのか?!オレだよ!ヴィッキだ!ヴィクトーだ!頼む、何か答えてくれ!ルネ!ルネ・マルロー教授!父さん!」 皆の中に激震が走ったのは言うまでも無い。 この老人が、ヴィクトーの父親かも知れないなどと、唐突に降って沸いた話に皆は驚きを隠せず呆然と突っ立っていた。 そんな中、必死に老人の肩を揺さぶるヴィクトーを抱きしめるように引き止めたのはエリックだった。 「やめてヴィクトー!お父さんかも知れないけど、この人は覚えていないんだよ!」 誰とも視線の合わないその眼差しが、それを物語っていた。 謎の老人を目の前に、ヴィクトーはその場に崩れ落ちていた。
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