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□61.グリンダの謎解き開始!□
水に巻かれたグリンダとエルネストは漸く水面まで押し上げられて来た。
泳げないエルネストはまるで水死体のように水面に浮かんで来たが、泳ぎの得意なグリンダは水中でもしっかりと目を開けて必死で周りを観察していた。
漸く水面に顔を出したグリンダはぐったりとなっているエルネストの襟首を捕まえて必死で水から引き上げようとしていた。
「ぷはぁ…!エルネストさん!大丈夫かい?!」
火事場の馬鹿力とはよく言ったもので、年寄りとは思えぬ力強さで大の男のエルネストをグリンダは岸辺に引きずり上げた。
上体を起こして背中を叩いて水を吐かせると、やっとエルネストの呼吸が戻った。
「はぁぁぁ!やれやれっ!まさかこの歳で大活躍役じゃ無いかグリンダ婆さん!」
まだ伸びているエルネストの隣にどっと倒れ込んで見上げた天井は、天然の光が何処からともなく柔らかく差し込んで来る。
ああ、このまま眠ってしまえたらどんなにか楽だろう。
もう限界をとうに越えて疲労困憊のグリンダが瞼を閉じそうになった時、むくむくと意識の水面へと理性が浮上して来た。
「そう言えば…、ここは何処だろう…。滝壺の下にトンネルがあったねえ…私らそこを通り抜けて来たはずだ…」
むくりとグリンダが起き上がる。冷静な気持ちで辺りを見回すと、まるで人口のプールにでも来たような気持ちになる。
木の根が複雑に絡み合う石壁に囲まれた広い空間に、この国には珍しく透き通った真水で満たされたプール。
「不思議な所だね…。教会にでも来たような敬虔な気持ちになるのは何故だろう…」
そう言いながら立ち上がったグリンダの目が驚きにみるみると見開かれた。
「これは…っ!!」
グリンダの目に飛び込んで来たのは全長およそ20メートル、高さ4メートル程の巨大な白亜の壁にびっしりと綴られた古代文字だった。
それは七十年のグリンダの生涯で一番の衝撃的な光景だったに違いない。
シュメールの楔形文字とエジプトのヒエログリフを織り交ぜたような奇妙で不可思議な碑文。
自分達が追い求めてきたのはまさしく、この未知の古代文明の尻尾だったのだ。
中にはシュメールに見られるような神々のレリーフやツタンカーメンの王墓に見られる色鮮やかな壁画も描かれてあり、長い時を経てきたとは思えない躍動感と瑞々しさの前に、グリンダは圧倒されて立ち尽くしていた。
「なんてことなの!…信じられない…!こんな物が…こんな所が…!」
「ううっ、…ミス・グリンダ…ここは…」
漸く正気を取り戻したエルネストがグリンダの背後で呻きながら起き上がる。
「そんな所で伸びてる場合じゃ無いよ、エルネストさん…。私達はどうやら凄いものを見つけたようだ」
グリンダの声は興奮を通り越して既に落ち着いていた。
我が子を撫でるような指先が見覚えのある一つ一つの文字をなぞった。
「今まで必死になって小さな紙切れや切れ切れの古代文字をつなぎ合わせていた事が、全くちっぽけでまるで役に立たないと思えるよ。ここは碑文や碑石があるだけの場所じゃ無い。既に遺跡そのものだ」
蹌踉めきながらエルネストは立ち上がり、夢でも見ているかのような表情でこの場所を眺めた。
「私達はついにやったのか…?ルネの仮説は証明されたのか?!」
エルネストには特別な思いがある。
かつては自分も夢に見て来た東南アジアの何処かにある未知の文明が、亡き親友の途方もない仮説が、十五年の時を経て今証明されようとしていた。
グリンダに遅ればせエルネストも興奮に全身が震えていた。
「この楔形文字はメソポタミア文明やエジプト文明のの流れを汲んでいる。と言うより、恐らく二つの文明こそが、この未知の古代文明の影響を受けていると言う私の仮説は正しいかもしれないね」
「それなら最古と言われているメソポタミアより以前に文明が存在した事になるぞ!驚きだ!…ここに何が書かれているか分かるかねミス・グリンダ」
「ああ、初めてヴィクトーが持ってきた写しを見た時よりは恐らく多くのことを読み解くことができるはずさ」
「ここは宗教施設の様に見えるが貴女はどう思われますかな」
「そこはお前さんの方が分かるんじゃないのかい?」
そう言いながらグリンダの視線は碑文の一番上にまるでこの碑文のタイトルのように一際大きく記されている文字を声に出して読み上げた。
「口を噤む者の…宮殿…と書かれているね」
「口を噤む者の宮殿…?…口を噤む者とはなんでしょうな」
続けてグリンダは左の端から縦に連なる文字を辿り始めた。
「この文明は左上から縦に文章が綴られているのが特徴だ。えーと、……永遠に生ける死者の神…。変な文面だね。私が間違っているのかしら。それから男、女、この文字は分かるんだけど、次に続くこのナントカって文字が何を示してるのか分からないんだよ。この文字は随所に出てくるんだけどねえ…」
既にグリンダは自分の世界に入り込んでいた。相槌を打つエルネストの存在を忘れて夢中になってブツブツと唱えるように碑文を解読し始めていた。
「男…アドモス王。女サママール女王と書かれてあるね。
それから…神官ジャガンの元に十人のナントカが集められたとある。まただ!このナントカが知りたいね!…死者の神と共にありて…永遠に誰しもが、その高貴な者達の事を……口を閉ざし…、記す?
ハプト…マフナ…人の名前らしきものが十人書かれているね。十人目、最後に書かれた名前はメイルールとある。いずれもこのナントカと言う文字が名前の前に記されているんだが…どう言う意味だろうね」
「その十人は王の家来か妾とか…?」
「それなら家来の名前の前には男何某、妾なら女何某と言う性別を表す文字が入りそうなものだねえ。何せ王様や女王様の名前の前にも男アトモル、女サママールと書かれてあるんだからねえ」
「しかし何故そんなに男と女をはっきり分けたがるのだろうねえ…」
「ヴィクトーが何か掴んでいると良いけどねえ」
その肝心のヴィクトー達はと言うと、蝶の道を辿ってますます暗く狭くなっていく洞窟へと進んでいた。
壁からは、ちよろちょろと水が伝い流れ、次第に足元まで水に浸かる程になっていた。
「ヴィクトー、ヴィクトー…ちょっと待ってください…何だか…息が…苦しくて…」
水に濡れた壁に凭れてシュアンの足が止まってしまったのだ。
どうしたんだとヴィクトーが覗き込むと、普段から白い顔は透き通るように青白い。
息を喘がせ手が小刻みに震え、力が抜けてヴィクトーの腕の中に転がり込んだ。
「シュアン!」
その体は熱つく、熱に潤む瞳は精霊を体に降ろした時と同じく紫色に変わっていた。
「ヴィクトー…、見て!紫の蝶が!」
エリックの声に顔を上げると、まるでシュアンを迎えに来たかのように紫の蝶達がシュアンの身体を取り囲んでいた。
「ヴィクトー…、アドモス…。愛しい貴方…もうすぐ貴方に会えますね」
そう言うと、シュアンはヴィクトーの腕からすりと抜けて洞窟の奥へと蝶達と踊るような足取りで走り出したのだ。
「待て!シュアン!シュアン!!」
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