導き

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□62.心の中の最後の住人□ 「待て!シュアン!先に行くな!」 この先に何が待ち構えているのか分からないと言うのに、シュアンは何かに操られるように少しの躊躇も無く臆する様子も見せずに洞窟の奥へと走って行く。 その後を三人が追いかけていたが、走るたびにバシャバシャと足元を濡らしていた水はいつの間にくかその水嵩が増し、今は膝ほどの高さにまでになっていた。 さっきから洞窟内にはゴーゴーと水の落ちる轟音が響いていて、この先に進めば明らかに危険な事態が待ち構えているのは明らかだった。 「滝だ!シュアン!この先には滝がある!!止まるんだ!止まれシュアン!!」 だがヴィクトー達が必死に追いかけても一向に、シュアンのその腕すら捕まえることができない。 まるでシュアン自身が蝶にでもなったように、その背に羽が生えているかのように、シュアンの身体には重みを感じない。 おかしい…!何かがおかしい! ヴィクトーがそう感じた瞬間、シュアンを取り巻く蝶達と共に、その身体がフワリと宙に浮かんだ気がした。いや、紛れもなく浮かんでいたのだ。 宙に浮かび上がったシュアンの銀糸の髪は蜘蛛の糸が網を貼るように広がり、濡れて光る紫の瞳がヴィクトーを求めるように見つめて来る。 それはヴィクトーにとっては酷く懐かしくて酷く切ない眼差しだ。何の理性も働かない圧倒的な眼差し。 シュアンの身体を守るように包んでいた眩い光は、ヴィクトーに伸ばされた指先から溢れるように、ヴィクトーの身体を包み始めた。不思議な光景を目の当たりにしたヴィクトーがシュアンを見上げると、そこには居たのはシュアンではなく、長いことヴィクトーを悩ませてきたあの美しいパピヨンだったのだ。 驚愕、渇望、焦燥、恍惚。そのどれもが正解でどれもが違うヴィクトーだけにしか理解できない強烈な感覚に貫かれてヴィクトーの足は止まっていた。 パピヨンの誘う指先から溢れてくる光はついにはヴィクトーの全身を眩い光のヴェールで包んでしまう。 それはヴィクトーとパピヨン、二人だけの世界が光の繭で包まれたような奇妙で美しい光景だった。 ヴィクトーの眼差しは見開かれ、その瞳はもはやパピヨンしか映してしないかのようだった。 その光景がエリックの心臓に焼けた鉄杖を深く穿った。 ヴィクトーが連れて行かれてしまう! 僕のヴィクトー、僕だけのヴィクトー! 「ヴィクトー!ダメ!…そっちに行かないで…!パピヨンを見ちゃダメだ!」 エリックが叫びながらヴィクトーに手を伸ばすとフワリと浮き上がったヴィクトーの身体はエリックの手から逃げていく。 エリックの宙をもがく手が虚しく空を切り、まるで天使がヴィクトーを天国の門へと導いているようにエリックには思えてヴィクトーに追い縋ろうと必死に足が追いかけた。 今のエリックには、これがどんな幻で何故ヴィクトーを連れて行こうとするのか考える余裕なんてどこにも無い。 ヴィクトーを引き止めたい一心、ただそれだけだった。 「待ってヴィクトー!待って!!待ってーーー!!」 力一杯、エリックは地面を蹴って後先も考えずにその心と身体をヴィクトーへと投げ出していた。 ここで彼を逃せば二度と会えない気がした。 「エリック!ダメだ!その先は…っ!」 激しさを増すゴーゴーと言う音はもう目前に迫っていた。 ここから先は滝になって下に流れ落ちているのだ。 タオがエリックを止めようとした時には既に時遅し、先にパピヨンとヴィクトーがタオの視界から消え、次いでその後を追うエリックの姿が消えた。 一歩踏み出したタオの足元は増水した水に掬われ、速い流れに乗って滑るように直下へと落ちていた。全員が揃って水と一緒に放り出されて落下した。 水圧に全身を殴られながら落ちて行くその中で、エリックの心は様々な思いが逆巻いていた。 ああヴィクトーは僕ではなく、やっぱりパピヨンを選ぶのだ。 自分には彼を引き止める何の力もない。 あのまま船を降りてしまえば良かったのだ。 そしたらこんなに辛い思いも苦しい思いもしなくて済んだのに。 もしここで死んだとしても、共に天国に行くのはあの二人なんだ。 自分じゃない。 この気持ちは何?悲しいの?寂しいの?悔しいの? あんなに悩んで貴方と同じ夢を追いかけようと思えたのに。 そんな気持ちになれた自分を誇らしく思った事もあったのに。 嫉妬や不安に心を灼かれても、貴方と歩いて行こうって心に誓ったのに。 本当は全部全部自分の気持ちを誤魔化していただけだったの? 違う!違う! 貴方が誰を好きでも僕は……。 必死で否定するエリックの耳元で自分が囁いた。 『嘘つき』と。 僕だけを見て欲しかった! 僕だけを愛して欲しかった。 僕だけのヴィクトーでいて欲しかった。 遺跡なんてどうでも良かった。 誰が傷ついても誰が泣いても ヴィクトーさえ側にいてくれたらそれで良かった。 お前の心はいつだってそう叫んでたじゃないか! あゝ、そうだ。そうなんだ。 それが本当の僕の気持ちだった。 心がそれを認めた時、エリックの全ての気力が失われた。 死の間際に立って、どうしてこんな醜い僕の心を神様は突きつけるのだろう。 誰も居なくなった僕のお城に最後に住んでいたのは愛という名の強欲でエゴイスティックで小さな一匹の化け物だった…。 それを僕に思い知らせたかったの? 死がエリックの手を引いているのが分かる。 水に巻かれて呼吸すら出来ず、無抵抗のままでその手について行こうとしている自分がいる。 パピヨンをシュアンを選んだヴィクトーが己の中で自分を置き去りにして遠ざかって行く。 さようならヴィクトー。 僕はただひたすら貴方のことが好きだった。 ーーーそれだけだった。 全てを諦めたエリックが身体の力を抜いた時、水面に全身が激しく叩きつけられる衝撃に襲われた。 水に巻かれて泡立つ水面を見上げると光が見える。 エリックの生きる本能が水を掻き、足をバタつかせ、その光へと必死で手を伸ばしていた。 「プハァっ!!ごぼっ!カハ…っ!」 大量の水を吐き出しながらエリックは水面にうかび上がった。苦しくて苦しくてもがいていたエリックの耳に音が戻ってきた。 「エリック!シュアン!タオ!みんな無事か!生きてるか!」 同じようにもがきながら水面に浮かんできたヴィクトーの声が聞こえ、闇雲に伸ばされたヴィクトーの手がエリックの首を掴み、タオの肩を掴んで無我夢中で引き寄せる。 三人の荒い息使いとタオの喘ぎながら発した切れ切れの声が聞こえた。 「いません!シュアンが…シュアンが…浮かんでこないんだ!」
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