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コマが揃った
□63.壁の向こう側で□
「なに?シュアンが?!」
ヴィクトーの視線が忙しく水面を巡回したがシュアンの影も形もない。
「こりゃいかん!溺れたか!」
焦燥に駆られてヴィクトーは己の息も整わぬままに水中へとシュアンの姿を探しに潜って行った。
だがこんなに緊迫した場面にも拘わらず、エリックの心は何も感じない。
全てが遠い出来事で、全てが虚無だった。
もしシュアンがここで死んでしまってもこんな自分に流す涙などあるのだろうか。
澱んだ頭の何処かがそう囁いていた。
まるで心が何処か遠くに行ってしまったみたいに、今のエリックには何の感慨も湧いてこなかった。
「エリック…、大丈夫?」
タオの手が肩に触れてエリックはハッと顔を上げた。
表情を無くし、呆然と水面に視線を落としているエリックにタオが声をかけた。
「心配しないで。シュアンはボクらがきっと助けるから。君はそこにいて」
そうエリックに言い残してタオもまた慌しく水中へと潜って行った。
その言葉は恐らく今のエリックには的外れだ。
エリックの心に落とされた真っ黒な墨の事をタオは知らないのだから。
ただシュアンの身を案じて暗い顔をしているのだとタオは思っているのだから。
二人が潜って行った水底の水深は然程深くは無く透明度も高く、沈むシュアンは直ぐに見つかった。
平らな岩の上にまるで月が水底に落っこちたように淡い光に包まれてシュアンの身体が光り輝いて見えていた。
まるで自分はここだと言っているかのように。
ヴィクトーとタオがシュアンに手を差し伸べると、それを待っていたかのように、シュアンの身体は静かに浮上した。
二人でシュアンの身体を水の中から引き上げたが、水を飲んだ形跡もなくちゃんと息もしてる。
シュアンは穏やかな顔で眠っているように見えた。
考えれば不思議な事ばかりではあったが、ヴィクトーもタオも今の事態に無我夢中でそれどころではなかったのだ。
「シュアン!おい、シュアン!大丈夫か?!」
ヴィクトーが身体を揺さぶると、シュアンは薄らと目を開けた
「シュアン、ボク達が分かるかい?」
長い時間では無いはずだ。
五分と経ってはいないだろう。
タオの言葉にシュアン頷いて「大丈夫です。すみませんでした」と言って、ゆっくりと身を起こした。
「良かったよ溺れなくて!焦ったなあタオ!」
「まったくです、寿命が縮まりましたよ!」
肩を叩き合って安堵の気持ちを同じくしているタオとヴィクトーの傍でシュアンはゆっくりとエリックに振り返り微かに微笑んだ。
エリックはギクリとした。
「よ、良かったね…」と咄嗟に出た自分の声が震えていた。
シュアンに対して後ろめたさもあったが、そんなこととは違う。
何故だかいつものシュアンとは違う違和感を覚えたからだ。
シュアンじゃ、無い…?
これは…、
パピヨン…?!
四人が洞窟の滝から落ちて来る少し前、グリンダとエルネストは碑文の謎解きに夢中になって壁に張り付いていた。
「見てごらん、エルネストさん。この壁画見事な色彩を保ってると思わないかい?」
その絵の中心には人らしきものが箱のような場所に仰向けで横たわり、沢山の花々と蝶に囲まれている図柄が描かれている。
美しい赤銅色や鮮やかな青は、何かの鉱物から採った顔料のように見える。
横たわる人物の顔はスッキリとした目鼻立ちが美しく、不思議な魅力を湛えていた。
「埋葬の場面かな…。これは棺に見えるが…」
「周りには虫や花の絵が描かれていますな。綺麗な紫の蝶だ!しかし紫なんてどうやって出した色なんだ?」
「松…バルサム…アカシア…、胡麻…、あと何種類かの植物の名前があるねえ…果物?知らない果物だ。見たことも無い奇妙な形の葉っぱもある。太古の植物図鑑を見ているようだ」
絵の隣に書かれた文字を指でなぞりながらグリンダが呟いた。
その文字の羅列は恐らく描かれている植物の説明だと思われた。
「ここに植物学者でもいればはっきりした事が言えるでしょうが、これは絶滅してしまった植物という可能性もありますよ?ミス・グリンダ。…松とアカシアと胡麻?胡麻は油を、松は松脂を抽出していたとしたら、防腐剤の材料によくにていますな…まるでミイラでも作るような…」
そこではたとグリンダとエルネストが顔を見合わせた。
「ミイラ?ミイラを作っていたって言うのかい?それならエジプトのミイラの製法はこの文明の流れを汲んでいたって事にならないかい?」
「そんな!まさか…ははっ、いくらなんでも…」
ミイラはエジプト独自の埋葬方法だ。
身体がこの世に残る限り、魂は再び蘇り、その身体に宿り再生を果たすと言われている。エジプトの人々にとってミイラは重要なものなのだ。
王は死して再び現世に復活するために。
だが、それは何処から着想を得たものだったのだろう。
もしも、この古代文明から派生したならミイラの製法が伝わったとしても不思議ではない。
「ああこれは…バラやジャスミンに似た花もある。美容効果の高い花が描かれているところを見ると、美しく遺体を保存する事にこだわりを感じますな」
「蝶も、美容効果があるのかい?」
植物に混じって描かれている紫色の蝶をグリンダが不思議そうに眺めた。
「蝶に?どうでしょう、しかし、こんな蝶は…見た事がありませんな。胴体が緑で下羽が黒い。これも絶滅した種なのかもしれませんな」
そう話しているエルネストの肩に折良く肩に止まる一匹の蝶がいた。
その蝶にグリンダの目が釘付けになった。
「エルネストさん!その蝶…!」
「え?」
エルネストが肩の蝶に視線を落とした時だった。
それまで興奮に周りの物音が聞こえなかった二人の頭上で、何かが忙しく蠢く音が聞こえる事に漸く気がついた。
同時に二人が天井を見上げると、何千、何万と言う蝶達が忙しなく羽ばたきを繰り返し、びっしりと天井を覆っていたのだ。
「きゃあああっ!!なんだい?!これはっ!」
女性らしい悲鳴をあげたグリンダが天井を凝視しながら驚きによろめいた。
「これは…!この絵の蝶…だっ!凄い数だ!」
天井に目を凝らし、呆然となっている二人の耳に、突然笑い声と共に懐かしい声が聞こえた。
「良かったよ溺れなくて!焦ったなあタオ!」
エルネストとグリンダが同時に顔を見合わせた。
「ヴィクトー?!」
久しぶりに聞くその声は碑文の壁の向こう側から聞こえていたのだ。
「ヴィクトーか?!そこにいるのはヴィクトーかっ?!」
「ヴィクトー!アンタそこにいるのかい?!」
ここまで来れたのが奇跡なら、ここでヴィクトーの声を聞いたのも奇跡だった。二人は夢中になって壁を叩きながら声を限りに叫んでいた。
「お前たち!聞こえるか?!私だ!エルネストだ!聞こえたら返事をしてくれーーー!!」
「ヴィクトー?!ヴィクトー!!」
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