50人が本棚に入れています
本棚に追加
船上の出会い
□1.紫の蝶□
雨の匂いがする。
微かな蝶の羽ばたきが聞こえる。
こんな日は鱗粉を撒き散らしてあの人がやって来る。
その人は眠る俺の傍に座り、憂いる眼差しで俺を見つめる。
俺はその人をそっと引き寄せ口付ける。
東南アジアの花の香り。
いつかかいだことのある花の香り。
ああ、雨の音がする。
熱帯の密林に降る雨に包まれて、俺は遠い国の夢を見る。
紫の蝶よ、君は誰だ?
◆◆◆
ヴィクトーの寝床の中では金髪の美しい少年がその裸の胸板にしなだれ掛かかり、少し怒った顔で彼を睨んでいた。
そんな表情をしている少年の不機嫌など意にも介せぬ様子でヴィクトーはぼんやりと天井を見上げながら、情事の後の至福の一服を味わっていた。当て所なく漂う煙を無意識に目で追いながら。
「さあ、どうかな、行くのかな、行かないのかな…」
「もう!茶化さないでよ!もし先生がそんな遠くに行くんなら僕はもうお別れするよ?それで良ければ行ったら良い」
のらくら答えをはぐらかすヴィクトーに焦れたように胸を一つ叩いて、少年はさっさとベッドを飛び降りた。
「嫌ならお前が一緒に来れば良いだろう?」
「ハハ!そんな未開の植民地へ?僕はゴメンだ!」
「まあ、植民地には違いないが、れっきとしたフランス領だよ。日常生活だってこっちと然程変わらんと聞く」
「あ、そ!だとしても僕は全く興味はないよ。訳わかんない虫とか、きったない水牛とか、そんな物一生知らなくても生きていける!それじゃ!」
床に落ちてるシャツを羽織り、転がった靴を拾い上げて足を突っ込み、自慢の金髪を靡かせて彼はさっさとヴィクトーの部屋を出て行った。
元々遊びのつもりだったし、追うつもりも無かったが、あまりにあっさりと出て行く彼を呆気に取られてヴィクトーは見送っていた。
「あ〜あ、本当に俺は悩んでいるんだけどねえ」
ヴィクトーは田舎の大学の客員教授。とは名ばかりのしがない不良考古学オタクだ。二十八歳の良い大人がちゃんとした恋人の一人も居ないのは彼の偏った好みのせいだ。
ヴィクトーは美しい男にしか食指が湧かない人種なのだ。
そうなるには、それなりの原因というものがあるのだが、そんな事よりも今は当面、先週届いた手紙が彼や彼の愛人達の間で物議を醸していた。
ヴィクトーは思う。世間の者達よ何とでもいうが良い!俺は美しいものを愛さずにはいられないのだ!
あの紫の蝶のせいで…!と。
ヴィクトーは灰皿に煙草を捻り潰し、枕元の手紙を取り上げるとその美しい筆記体の文字を視線がなぞった。
親愛なるヴィクトー
私は今ハノイの空の下だ。
熱帯の生暖かい風に吹かれて君のことを思い出している。
君と最後に会ったのは、もう十年以上も前のことだ。
今私はフランス政府の依頼で仏領インドシナ植民地の都市計画を任される事になった。
今までのローマやギリシャ風の建築とは違う、西洋と東南アジアの融合した私なりのインドシナ様式というやつで街の建設をするつもりだ。
きっとこれからハノイは目覚ましく変わっていく。
そんな時だからこそ、もう一度こちらに来てみないか?
私もフランスを離れて久しい。君から本国の様子なども聞きたい。私の助手と言う事にすれば、旅費はフランス領事館が出してくれるだろう。だが、昔の事もあるだろうし、君の気が進めばの話だが。
ああそれからもう一つ、君の好奇心を擽る出来事があるんだが、それは此方に来た時にでも話そう。
君の友、エルネスト・エブラール
こんな書き方をすれば、ヴィクトーが行きたくなるだろうことをエブラールは良く分かっている。
なかなか小憎たらしい文面では無いか!
だか悔しいことに確かにヴィクトーは揺れていた。だが同時に臆病にもなっていた。
エルネスト・エブラールは厳密に言うとヴィクトーの友では無く、彼の父の友人だった。建築家で考古学者で博識な男だ。
昔はヴィクトーの父とつるんでは、世間が行くならエジプトだ!と言う言葉を物ともせずに、まだ殆ど手付かずの東南アジアの遺跡に夢中になっていた。
ヴィクトーが十二歳の頃、ハノイの密林に眠る遺跡の調査に参加した父にヴィクトーも同行してあの崩落事故に遭遇した。
父と調査隊の全員がその時皆死んでしまったと言うのに、たった一人ヴィクトーだけが助かった。
何故ヴィクトーだけだったのか、どうやって助かったのか何も覚えてはいない。ヴィクトーが最後に見たのは自分の上に降ってくる崩落した遺跡の天井だった。
結局、父の夢も彼の記憶もそこで止まり、ヴィクトーの中には何とも言い難いわだかまりと、あの紫の蝶が残された。
あの蝶はヴィクトーの傷付いた心の見せる幻だ。何かを克服しなければそれはきっと消えないのだ。
だが、その紫の蝶とあの美しい人の事をヴィクトーは誰にも言えないでいる。十五年も経つと言うのに。
何かを克服したらきっとその人には逢えなくなる。
過去に立ち向かうと言うことはそう言うことかもしれないと、ヴィクトーは何処かで怯え、全てが止まってしまったあの地へと再び飛び込んで行く事に迷いを感じていた。
ヴィクトーはエブラールの手紙を閉じて窓辺へと歩いた。
ノルマンディー地方特有の重たい空と波に揺蕩う美しい港町の風景が、この景色とは似ても似つかないあの熱帯の海へと心を連れて行くようだった。
それから程なくしてヴィクトーは愛人全員に振られた。
誰も地の果ての植民地へなど着いてくる者は居なかったのだ。
ああ清々する!
こうしてヴィクトーはしがらみのない世界へ心置きなく飛び立ったのだ。一抹の不安と共に…。
最初のコメントを投稿しよう!