212人が本棚に入れています
本棚に追加
壊すなら、貴方の手で18
その後、黒兎もサポートメンバーとして加わった舞台は、大盛況に終わった。ただ、どうしても初演とキャストやスタッフが変わってしまっていて、寂しさが拭えない、と雅樹は言っていたけれど。
「綾原くん、私はこれから一週間の出張に出る」
「え? あ、はい。また急ですね」
社内では敬語で話すことにした黒兎は、雅樹の言葉にそう返した。
一応、きちんとしたトレーナーではないけれど、身体のことは分かるので、応急処置や怪我予防の為のテーピングなども先輩から教わったりしている。雅樹の私情で入社したにも関わらずみんないい人で、黒兎の精神もだいぶ落ち着いていった。
「きみにも同行してもらうよ」
「……ええ?」
まさか同行とは、と声を上げる黒兎。それに対してにっこりと笑う雅樹はとてもカッコイイ。そして、前のように穏やかに過ごせるのが、とてもありがたいことだと思うのだ。
すると雅樹は黒兎の耳に唇を寄せ、「というのは表向きで、二人でゆっくり過ごそう」と囁く。その甘く腰に来る声に黒兎は肩を震わせた。黒兎は息を吹き込まれた耳を押さえる。顔が熱い。
「さあ、行こうか」
満足そうな顔の雅樹を、黒兎は少しだけ睨む。そして顔の熱が冷めないまま、雅樹の後をついて行った。
思えば二年前から、雅樹との性的な接触はほとんどないことに気付く。ハグやキスはするものの、それ以上のことをしなかったのは、やはり黒兎が全快ではなかったのも大きいだろう。
大の大人が、しかもこれだけ引く手あまただろう美丈夫が、二年間も何もしていないなんてありえない。きっと、外で発散させているのだろうと思っていたけれど。
(やばい、意識したら何か……)
二人でゆっくり過ごそうなんて言われて、勝手に期待している自分が恥ずかしい。黒兎はこっそり、熱くなった顔を手で扇いだ。
◇◇
雅樹の運転する車に乗って、夕方に着いたのは温泉が有名な地。しかし彼が車を停めたのは、緑に囲まれたオシャレな一軒家だ。
「ようこそ、私の別荘へ」
まるで黒兎の疑問に答えるように、雅樹は玄関ドアを開ける。中は綺麗に管理されていて、スイスイと奥へ入っていく彼に慌てて付いていった。
「あら雅樹さん、お早い到着で」
廊下を歩いていたら、奥から慌てたように出てきたのは六十代くらいの女性だ。エプロンで手を拭きながら来たので、どうやらこのひとは家政婦さんで、仕事中だったらしい、と黒兎は思う。いかにも日本のお母さん、といった風情で、穏やかな雰囲気に黒兎も緊張が解けた。
「すみません永尾さん。永尾さんの料理が待ち遠しくて、早く来てしまいました」
笑顔でそういう雅樹に、あら口がお上手なんだから、と笑って答える永尾。仲がよさそうな二人に黒兎は黙ってその様子を見ていると、雅樹が永尾を紹介してくれた。
「私が小さい頃にお世話になった家政婦の永尾さんだよ。まあ、例によって父といざこざがあって、今はこんな形でこっそり雇わせてもらってる」
「よろしくお願いします、綾原さん。お話は伺ってますよ」
一体何を話したと言うのか。黒兎は雅樹を見ると、彼は黒兎を紹介してくれる。
「前から話していた黒兎です。やっと色々落ち着いたから、連れてきました」
笑顔で話す雅樹は、どことなく幼く見えた。そして、ああそうか、と納得がいく。
永尾は、雅樹の母親代わりだったのでは、と。そういえば雅樹から出る家族の話は、父親しかない。家族とまともに食事をしたことがないと言う雅樹は、一体どんな家庭環境で育ったのか。
(というか、色んなひとに俺のこと話しすぎ)
みんな受け入れてくれるからいいものの、そうじゃない人だったらどうするのか、黒兎は肩を震わせた。
永尾によると、もう少しで夕飯ができあがるらしい。少し休んでいてください、という彼女の言葉に甘えて、黒兎たちは部屋に向かう。
部屋は洋室で、ホテルのようにシングルベッドが二台、置いてあった。掃き出し窓からは森が見えるらしいけれど、冬の夕方は陽が傾くのが早いので、もう景色は分からない。
「黒兎」
荷物を置くなり後ろから抱きしめられ、黒兎は身体に力が入る。戸惑いながら振り向くと、頬を撫でられた。
(や、やっぱり、そういう目的でここに来てるんだよな?)
しかも一週間も。目の前の彼氏は、あからさまに欲情を湛えた瞳で黒兎を見ていて、黒兎は掠れる声で名前を呼ぶ。
「雅樹……?」
すると、雅樹の表情からフッと熱が引いた。綺麗な笑みを浮かべたと思ったら、彼はある人物の名前を挙げる。
「牧田智大、三十五歳。化粧品代理店の営業主任。バイセクシャルを公言していて、社内でもそこそこ人気」
「え?」
どうしてその名前を? と思って黒兎は振り向いた。雅樹は黒兎の頬を撫でながら、目を細める。惚れ惚れするような彼の綺麗な顔に、黒兎は目が離せなくなった。
「二年前、言い寄られていただろう?」
「……っ、いやあれは……っ」
そういえば、会社名と名前を菅野に伝えたのだった。彼に言えば雅樹に伝わるのは、少し考えれば分かることだったのに。案の定、雅樹は牧田のことを調べたようだ。
「ああ分かっている。私に助けを求められる状況じゃなかったからね。だから私が直接、『ご挨拶』に伺ったよ」
「……っ!」
綺麗に微笑んでいる雅樹は、黒兎のコートのトッグルを外す。まさか雅樹がそんなことをするなんて、と青ざめていると、彼は話を続けた。
「『綾原さんの恋人って男性だったんですね。じゃあ俺にもチャンスがある』と言っていた」
する、とコートを脱がされた黒兎は、不安そうに雅樹を見ていたらしい。大丈夫だよ、と雅樹は言い、黒兎はまた頬を撫でられた。
「黒兎は高校生の時から、私のことを好いていてくれているから、他人が入る余地はありません、と返したよ」
「……もう、何で勝手に……」
雅樹の言う通りだから恥ずかしい。いずみにキチンとお別れしなさいと言われて、その通りにできなかった自分の落ち度ではあるけれど、と黒兎は俯く。それでも他人の人間関係に首を突っ込んでまで、自分を束縛したいなんて、と少し複雑な気持ちになった。これも、今まで思い通りにひとを動かしてきた、雅樹ならではの行動なのだろうか。
「雅樹……養子縁組のこともそうだけど、牧田さんのことも、きちんと事前に相談して欲しい」
今まで自分で何もかもを決めて、会社を回していただけあって、雅樹はベストやベターな方法を判断するのは早い。けれど二人の関係は会社ではないし、黒兎の意思があってこそだ。タイミングだってある。
「俺は今、確かに治療しながら生活してるけど。何もかもを先回りして世話を焼かれるのは、好きじゃない」
大切な関係だからこそ、黒兎は丁寧に話した。仕事関係や、上辺だけの関係ならそれでも構わないと思うけど、と諭すように言う。
「俺は、雅樹の都合いい人間になりたくない。周りに、俺が雅樹を利用してる風に見えるのは、俺にとっても雅樹にとっても、良くないだろ?」
久々に沢山話したからか、少し苦しくなった。はあ、とため息をついて雅樹に寄りかかる。
「都合のいいだなんてそんなこと、微塵も思っていないよ」
雅樹は黒兎の頭を撫でてくれる。分かっていないな、ともう一度ため息をつくと、雅樹を見上げた。
「どう見ても、俺のこと逃げられないように囲ってるだろ」
「ああ。それの何がいけないんだい?」
雅樹の顔が近付いた。誤魔化すどころか開き直っている雅樹に呆れて、黒兎はその顔から逃げる。しかし強い力で両頬を掴まれ、キスをされた。
最初のコメントを投稿しよう!