1-3

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『グギャァアア!』 覚悟した痛みはなく、代わりに響いた恐ろしい獣の雄叫び。そっと目を開くと、ズシンという地響きをたてて巨体が倒れこむところだった。その巨体に、頭部がない。血を噴き出す体から離れたところに、白目を剥き、口から舌を垂らした熊の頭が転がっている。 「っ!?」 差し迫った命の危機は去ったのだろうが、その異様すぎる光景に腰がぬけて立ち上がれない。何が起きたのかを確かめたいのに。震えたまま動けずに居れば、熊の巨体の向こう、大きすぎるそれの死角になっていた場所に男が立ち上がった。 「…」 一瞬だけ、男と目が合った気がした。けれど気づいているはずの男は、こちらを気にかける様子もなく熊にナイフを立て、器用にその皮を剥いでいく。 立ち上がれずに、上手く回らない頭で男の行動を唖然と眺める。状況から、熊を殺したのはこの男。男が背中に背負っている大きな剣、あれで熊の首を切り落としたのだろうか。背筋がブルリと震えた。 淡々と作業を続ける男は、180はありそうな長身で、体格がいい。ナイフを立てる度に、腕の筋肉がぐっと盛り上がっている。力はありそうだから、あんなに大きな剣を使えるのだろうが、それでもあんなに太い熊の首を切り落とすなんて信じられない。 髪も目も、それに顔を覆う伸び放題の髭も黒いけれど、顔立ちが日本人とは丸っきり違う。彼に声をかけるタイミングを見計らってはいるけれど、言葉が通じるか、自信がない。それでも、このままこうしているわけにもいかないから。作業を終えたらしい男に話しかけようとして、出かけた言葉を寸でで飲み込んだ。 あの巨大な熊の、それに見合うだけの体積があった毛皮が、男の腰に下げられた小さなポーチに入ってしまったのだ。するすると、吸い込まれるように。 『…うそ。何、今の』 唖然としてこぼれた言葉に、男がこちらを振り向いた。 何も言わずに、じっとこちらを見つめる男の眼光は鋭い。髭に覆われているから、表情がよみにくいけれど、友好的な雰囲気でないのは確か。それでも、命を助けてもらって、この訳のわからない状況を説明してくれるかもしれない相手だ。何とか立ち上がって頭を下げた。 『…ありがとう、ございます。助けていただいて』 顔をあげて相手の反応をうかがうが、返事はない。やはり、言葉が通じないのだろうか。 『…Thank you』 得意ではない英語でお礼を言うが、これに対する反応も鈍い。せっかく人に会えたのに、どうしたらいいかわからなくて、項垂れる。 「…ナユタの森の民か?」 低い、男の声にハッとして頭を上げる。動かない表情としばし見つめ合って、男の言葉の響きに全く聞き覚えがないことに気づく。 突然、見知らぬ場所に立っていて、出会った人は聞いたこともない言葉を話す。それに、魔法のように仕舞われた熊の毛皮。そう、魔法のようだった。 嫌な想像が、どんどん膨らむ。ひょっとして、ここは、自分は― 自分の考えに沈んでいれば、男が何も言わずに立ち去ろうとする。 『あ!待って下さい!』 「…」 言葉は通じないけれど、それでも頼れそうな相手。あんな生き物が出てくるような、どこともわからない場所に置いていかれたら、次はきっと本当に死んでしまう。 『すみません。どこか安全な、街とかまで連れていってもらえませんか?』 「…ナユタの言葉は、わからん」 どうしよう。私の言葉も通じていないだろうけど、彼が何を言っているのかもわからない。こんな状況で言葉が通じないなんて、本当にどうしたら。 男がまた、背を向けて歩き出した。彼がなんて言ったのかはわからない。迷惑なのはわかっているけれど、でも、他にどうすればいいかがわからないから。彼の後を、黙って歩き出す。一度、チラリとこちらを振り向いた男は、何も言わずにまた前を向いた。
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