『つひにゆく道』

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『つひにゆく道』

伊勢物語125段『つひにゆく道』 昔、男、わづらひて、 心地死ぬべくおぼえければ、 つひにゆく道とはかねて聞きしかど   昨日今日とは思はざりしを (昔、男が、病気になって、 今にも死にそうな気持ちになったので、(人間だれしも) 人生の最後に行く道であるとは、 以前から聞いていたものの、 それが昨日今日のこととは 思わなかったなぁ。) 『伊勢物語』の最後の歌だそうです。 『古今和歌集』巻16哀傷歌にも同じ歌があり、 その詞書に 病して弱くなりにける時よめる (病気で衰弱した状態になってしまったとき、この歌をつくった。) とあるそうです。 さすがの天下の美男子も、 病気で死を予感したときには、 こんな弱気な歌を詠んだんですね。 私も、60を過ぎて今闘病中で、 身体の自由が以前よりきかない。 ひとりで近所に買い物に出るのも、 ちょっと自信がないくらい体力も落ちてしまった。 確かに、 痛かったり、 身体が辛い時は弱気になる。 でも、 これでも一応仏法の信者として、 “全てのことに意味がある”と 信じているので、 凹むことはあっても、 “出来ることは必ずある” と、たとえ1ミリでもいいので、 前進することを心がけている。 (こうして、 拙いながらも文章を書くこともそのひとつ。) そして、 懲りもせず、 “恋”もまだ諦めてはいない。 それと、 自分を決めつけない方が良いらしいと、 だんだん分かってきた気がする。 若い時は、 “絶対年上。年下なんて興味ない、 有り得ん”(たとえ芸能人だとしても) と思ってたけど、 30代も終わりの頃からだろうか、 いつの間にか “年下も、あり”に 気持ちが変わってきていることに気付いた。 ちょうどその頃、新聞の記事で、 「女性が年上のカップル」のがあって、 やはり「30代後半から、若い男性が美しいと素直に思えるようになった。」とある女性のコメントが出ていたのを見た。 そうか、そう感じるのは、私だけじゃないんだ。素直になろう。そう思った。 私の母は、自分の青春時代のこととか余り話す人ではなくて、母と“恋バナ”はしたことがなかった。 だから、私と違って“恋多き人”ではないのかと思っていた。 小さな店を60過ぎまでやっていたのだが、 色んな人が来る。 たまに、色目を使う“おじさん”もいたらしく、「気持ち悪い…」と言っていたし。 でも、義姉の話だと、 晩年、老人ホームに入ってしばらく経つと“ボーイフレンド”っぽい人がいたらしい。 そうか、あのお母さんでさえそうなんだから、“私はもう枯れてて関係ない”とか決めつけないほうがいいんだね、と改めて思った。 もちろん、夫のいる身として、 不倫はNGだけれども、 “トキメキ”は、 なくしたくないと思ってる。 今の“彼氏”は「七杜ひかる」さん。 ファンミーティングとかライブに行くわけでもなく、 ただスマホやタブレットで見ているだけ、音楽を聴くだけの“ファン”なので、 やっぱり片想いである。 闘病中&無収入なので、 ファンクラブにもは入れない。 Live配信も見られない。 ないないずくしで、 お金を落とさない、 果たしてこれでファンと言えるのか?と 時に思って凹むこともあるけど、 好きでいることは止めようがない… 恋心と同じ。 この物語の中に在原業平の歌を入れたのは、 一番最初に好きになった曲を聞いた時に、 「あ、これは在原業平!」と 咄嗟にイメージしたからだ。 (七杜さんのイメージはそうではなかったようですが。) 今の病気が、 『つひにいくみち』とは思っていないけれど、 それは突然来るものなので、 凡夫の私にはわからない。 なので、 悔いのないよう、 出来ることはずいぶん少なくなって、 やりかけで放置してしまっていることもたくさんあるのだけれど、 出来ることを、 毎日していこうと思ってる。 こうやって、素人でも書いて発表できる場がある良い時代になった。 コンテストがあると、励みにもなる。 お陰で、書きかけで放置していた小説を、 何本も加筆訂正して完結させることができた。 「誰も待ってる人はいないよね」と思っていても、 “書きかけ放置”は、 ずっと気になっていたのだ。 でも、何かを書くのって、 結構情熱がいるし、 勢いやきっかけがないとできなくて、 気にはなっていても何年も放置していたのだ。 まだ、 書きかけの小説や 詠みっぱなしの短歌があるから、 それも少しづつまとめたり、 完結させることが出来ればと思っている。 仏法によれば、 「人生とは、 自分が書いた脚本を自分が演ずる」のだそう。 たから、 「乗り越えられない困難はない。」 のだそうだ。 (その割に、地味なシナリオにしたものだ。 次回は、ぜひ、世紀の大恋愛のシナリオにしよう。) 今、私は、確かに闘病中だけれども、 だからこそ、 この物語も書くことができたし、 自分の“片想い人生”を振り返ることができたと思う。 お陰で、 まんざら悪い人生でもなかったなと、 改めて思った。 まぁ、 その時々で起こっている事の最中は、 そんな余裕はなくて、 当時は「ともかく大変だぁ」とわたわたしている方が多かったのだけど。 人を“恋うる心”は、美しいと思う。 たとえ、それが“片想い”だとしても。 それは、 その人が幸せであるように祈る心でもあるし、 世界が平和であることを祈る事でもあると思う。 日蓮の言葉にある。 「汝、すべからく一身の安堵を思わば、 まず四表の静謐を禱るべきものか」 (「立正安国論」) ──あなたは、 一身の安堵を願うなら、 まず四表の静謐 〈周囲の平穏、世界の平和〉を祈ることが必要ではないのか 人の不幸の上に、 自分の幸せを築くことはできない。 好きな人が幸せでないのに、 自分が幸せでいられるわけがない。 だから、 “恋うる心”を持ち続けたい。 これからも。 ビバ!“片想い人生”! (でも、来世は、“両想い”がいいな…) おわり
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