世の中にたえて桜のなかりせば

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世の中にたえて桜のなかりせば

世の中にたえて桜のなかりせば  春の心はのどけからまし   (在原業平朝臣) 恋多き美男子と言われた 在原業平の作。 普通に読めば 「この世の中に、 まったく桜という物がなかったならば、 (咲くかな、 風や雨で散ってしまわないかな、 などと心を煩わせることもないので) 春における人の心はのどかであるだろうに」 となる。 じゃあ、 業平さんは、 桜が嫌いだったのかしら?といえば、 そんなことは、ないと思う。 それは逆で、 “好き”だから気になる。 気が揉めるんでしょう、絶対。 今と違って、娯楽の少ない時代。 桜を見ることは、 今よりも一大イベントだったのかもしれませんよね。 それよりも、この歌は、 ほんとうに“桜”を読んだ歌なのか? ということが、気になってしまう、私。 渚(なぎさ)の院という 惟喬親王(これたかしんのう)の別荘で開かれた、 花見の際に作られた作品であることが 『伊勢物語』に記されているし、 『古今和歌集』にも収録されているので、 “桜”を詠んだことには間違いないのだけれど…。 でも、桜が 「咲いたかな」 「もう散るのかな」と気にすることが、 それほど悩ましく “思い煩う思いをかき立てる” “穏やかにすごせただろうに” と思いつめるほどのものなのかなぁ? と考えてしまうのですよ。 恋多き美男子を魅了して止まない、 悩ましい魅力を備えた桜 = 女性 (もしくは、誰かを思い描いて、 その人のことを桜に例えた) のではないかと想像してしまうのは、 私が恋に“餓えている”証拠でしょうか?ひょっとして… 『伊勢物語』には 世の中にたえて桜のなかりせば  春の心はのどけからまし  (在原業平) の歌に対して、返歌として 散ればこそいとど桜はめでたけれ  憂き世になにか久しかるべき   (詠み人知らず) (桜は散るからこそ いっそう素晴らしいのでしょう、 この世にいつまでも変わらないものなどありません) とあるそうです。 この世の無常感を現しているともとれますが、 “永遠の愛”がないからこそ 憧れるように、 “桜”も散るからこそ、 咲いている“今”を大切にし また、来る年も 咲くのを待ち焦がれる。 大好きだからこそ、気になる。 悩ませられる。 異性と同じだと思うんです。 もし、業平さんに 「桜を嫌いな理由は?」 と聞いたとしたら “愛しているから” と答えるんじゃないでしょうか。 私は、恋多き“乙女”でしたけれど、 「この世に男なかりせば…」 などと思い煩うことなどは全くなく、 小1の初恋の後も、 いつも誰かに“片想い”していたな、 こりもせずにね…
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