プロローグ

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プロローグ

両想いってなんだろう? ほぼその経験のない私にとって、 未知の世界でもあるし、憧れでもある。 世の中に、 恋愛小説や恋愛漫画、映画から歌まで、(最近はゲームなんかもある) “恋”をテーマにしたものは、 ともかくたくさんある。 むしろ、 恋愛要素の全くない、 文芸作品や娯楽作品を探す方が難しいくらいかもしれない。 それほど、 人がいれば“恋”がうまれるということなのだろう。 失恋ソングや片想いの物語や歌もある。 でも、 一番多いのは、 三角関係やら四角関係やら “恋の駆け引き”が色々あって めでたく、両想いになりました。 ハッピーエンド…のような気がする。 けれど、そうでもないのか? 統計を取ったわけでもなく、 ただ、感覚で言っているに過ぎないのだが…。 というより、 自分が憧れて叶わなかったから、 そう思いたいのかもしれない。 でも、 両想いって、なんなのだろう? 簡単にいえば、 お互いに“好きになる”ことだ。 けれども、それだけでは “両想い”は成立しない。 互いに好きになったとしても、 そのタイミングが少しでもずれていたら、 それは“両想い”にはならない。 互いに想い合っていたとしても、 どちらかがそれを伝えなければ、 “両片想い”のままだ。 ということは、 自分の気持ちを偽らずに伝える“勇気” も必要ということになる。 また、 互いが相手を認識出来る条件(距離とか)がないと、成り立たないだろう。 何も接することがないのに、 恋をすることは、 たぶんないと思うから。 芸能人や有名人のファンになるというのも、片想いに似ていないだろうか。 寝ても覚めても、 その人のことが頭を離れないという状態は“恋”そのものだから。 でも、その想いが還ってくることは、 ほぼない。 今なら、 lineやTwitterで双方向のような 疑似体験はできなくもないが… たとえ、 「愛してるよ」 「大好きだよ」と その人が言ったとしても、 “私”にだけではないから、 両想いとはいえないだろう。 両想いになれる人と 出会えるかどうか。 それは、 “縁”というものなのかもしれない。 そもそも、 “両想い”になれるなんていうのは、 それだけで、物凄く希有な、 有り難いものとはいえないだろうか。 動物や昆虫、植物などは、 繁殖の時期が決まっていて、 それを人間の恋に擬えて(なぞらえて) “恋の季節”などといったりするが、 実際“恋”をするわけではない。 (と思う。感情がないよね。) ほとんどの場合、 種の保存の本能に従って行動しているだけだ。 より優秀なオスと交わることによって、 より良い子孫を残すために、 メスは“良い”オスを選ぶだけに過ぎない。 ところが人間の場合は、 感情(脳)が発達したために、 “繁殖”という本能とは関わりなく“恋”をするようになってしまった。 早い人では、 「保育園に通ってた時に、 担任の先生にプロポーズした。」 などという強者(?)がいたりする。 だから、 “同じ時”にお互いを“好きになる”ということ、 そしてその想いを伝えることができるということそのものが、 結ばれるか否かにかかわらず、 “運命的な出会い”なのだろうと思ってしまうのだ。 歌にもそんなのがあった気がする。 この広い宇宙で、 この地球に生まれて、 今の日本に生まれて、 そして、出逢う… それって、どのくらいの確率なんだろう? 何億分の1?何兆分の1?かも… そのくらい 稀少な、奇跡とも言える確率なんじゃないだろうか。 そう考えると、 “両想い”という“稀有な”体験をすることなく、 片想いしかほぼなかった私の人生も、 そう悲惨だったわけでもないのかなとも思える。 これは、私の、 長い片想い人生の “恋の季節”である20代のころの出来事を中心に、 初恋から今までを振り返ってみた ものがたりである。
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