第六章 ショーは終わりました

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 謝りたいと思ってたけれど……。  心臓がどきどきと、うるさいくらいに暴れている。一気に手汗がにじみ出て、絵本を持つ手がすべる。  チラッと、ノバラさんを見あげた。ひじのあたりにしぼりがある真っ白な丸えりのブラウスに、外国の本の表紙がプリントされたグレーのジャンパースカート。腰にはワインレッドのリボンが、きゅっと結ばれている。  頭の上でまとめられた長い髪には、ストライプのヘアバンドを巻いていた。  厚底のストラップシューズをコツコツ鳴らしながら、ノバラさんはキサラギさんのもとへと駆け寄っていく。 「キサラギさん。海外に行っちゃうって……ほんと?」 「ああ、さっそくイザヨイさんから聞いて、来てくれたのね? そうなんです。だから、なかなか会えなくなっちゃうけれど……」 「……そっか」  一瞬、ノバラさんが思いつめたような暗い表情になって、私は息をのんだ。今にも泣き出しそうだったから。  でも、ノバラさんはすぐに笑顔に戻った。 「また、会おうね」 「六門さん。手紙、書くからね」  キサラギさんはそういって、ノバラさんの手を両手で握った。  多目的室の時計を見あげると、もう十六時を回っていたので、私たちはそのまま、解散となった。キサラギさんは来週には日本をたつらしい。 「六門さん、里々原さん。また会いましょうね」  キサラギさんは絵本がたくさん入ったバッグを持って、多目的室を出て行った。  ノバラさんは空間にぽっかりと浮かんだような顔をして、キサラギさんの後ろすがたを見えなくなるまで見送ってから、かわいいブラウスの袖で顔をぬぐった。ノバラさん、泣いてる。 「海外に行かれちゃったら、恩が返せなくなるなあ」 「ノバラさん……」  私たち、今、二人っきりだ。気まずい。  たぶん、ノバラさんはキサラギさんに会いに来たんだ。私がいるとは、思ってなかったかもしれない。  謝るなら、今しかない。私は、息を吸いこんだ。 「キサラギさんはね」  ノバラさんが、ぽつりとつぶやく。私は、吸いこんだ息を吐き出した。謝ることも忘れて、ノバラさんの次の言葉を待った。 「ぼくが家のご飯を作っていることを知ったら、たまにタッパーに入れたおかずをくれたり、野菜をおすそわけしてくれたりしたんだ。掃除に苦戦してるっていったら、百均の使えるアイテムを教えてくれたり。他にもたくさん、お世話になったんだ……」 「そう、だったんですね」 「少なくともぼくは、キサラギさんのことが好きだった。勝手に、お母さんみたいに思ってたんだ」 「お母さんみたいにって……」 「ぼくのお母さん、去年の今ごろ……天国にいっちゃったんだ。病気でね」  夏に彩られた、熱っぽい風が窓から吹きこんで、ノバラさんのグレーのスカートをゆらした。ワインレッドのリボンがさらり、とひるがえる。  ノバラさんは、髪を耳にかける動作をした。夏にひとり、取り残されたみたいに。 「そう、だったんですね……」 「ごめんね。あの家に行ったときにいえばよかったんだけど、こんなことをいったら、カガリちゃんを困らせると思って、いえなかったんだ」  なぐさめの言葉なんて、いえなかった。何かいおうとしても、それは今をとりつくろうだけのありふれたものばかり。ノバラさんの悲しみを救えるような言葉は、何ひとつなかった。 「……さみしいよ。あの人に、もう会えないなんて」  その言葉がキサラギさんになのか、お母さんになのか、どちらにつむがれた言葉なのかは、私にはわからなかった。  パタパタとはためく、ノバラさんのスカート。  クーラーがついているのに、換気対策で開け放たれた窓からの熱気は夏そのもので。ノバラさんの悲し気な横顔は、夏の入道雲に飲みこまれてしまいそうなほどに、辛そうだった。 「お手紙、書くっていってました」 「忘れちゃうよ、ぼくのことなんて」 「そんな人じゃないんじゃないですか……。今日一日だけの付き合いですけど、私はキサラギさんのこと、優しい人だって思いました」 「あはは。その通りだ。あの人は、優しい人だ。こんなことをいっちゃうなんて、やっぱりだめだなあ……ぼくは」  ノバラさんが、笑ってる。でも、わかっちゃうんだ。私たちは、似ているから。  それは、私がお母さんの前でする笑顔といっしょだ。  自分のことを誰かにわかってもらいたいと願う、生きづらさのなかにいる、私たちの不器用な笑顔なんだ。
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