第三章 はまみらい

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 家のドアを開けると、金魚は水槽のなかで涼しそうに泳いでいた。気持ちよさそう。きれいな模様とヒレをゆらし、後ろをふり向くことなく泳いでいく金魚。 「そういえば、まだ名前を決めてなかったな」  最近、頭のなかが色んなことでいっぱいで、すっかり忘れていた。金魚の名前かあ、どうしよう。土佐錦魚のキンちゃん、なんてフツーすぎるにもほどがあるしな。もっと、私が考えたんだっていう個性が欲しい。  そうだ。このあいだ思いついた絵本のストーリー。それに出てくる主人公の名前はどうだろう。 「カガリってば、帰ってたの? ただいまくらい、いいなさい。そんなところで、何してるの」  リビングのドアから、お母さんが顔を出した。ドキン、と心臓がはねる。お母さんに、金魚の名前のことをいってみようかな。私の絵本に出てくる主人公の名前をつけてみようと思ってるんだ、って。お母さん、何か言ってくれるかな。  サーモンピンクのバラの花をポケットのなかで、つるりとなでた。 「金魚の名前、考えてた。よく聞くような、ありきたりな名前じゃないのがいいなって思ってね。それで、私が考えた絵本のストーリーの主人公の名前はどうかなって思って! このあいだ、思いついた話があって……」 「金魚の名前? もう。そんなことどうでもいいから、さっさと手を洗って、野菜を切るの手伝ってよ」  ばたばたと、リビングのキッチンに戻っていく、お母さん。  今回も、うまくいえなかったかあ。伝え方が悪いのかな。私がうまく言葉にできないから、お母さんは……。  苦しい。心をぎゅう、っと鷲づかみにされたようだ。目の奥から、涙がにじみでそうになるのを必死でこらえる。  ダメだ。こんなことで泣いたら、お母さんが困る。〝何で泣いてるの〟って、不思議そうな顔をされる。  でも、一瞬だけでも気になってくれてたんだとしたら、「どんな話なの」って聞いてほしかった。 「なんか、いろいろ……どうでもよくなっちゃったな」  自室で宿題をやっていると、「ごはんよ」といわれた。大皿に盛られた豚もつのどて煮が、テーブルのまん中に置かれている。いつもの自分の席には、ほかほかのご飯と卵の味噌汁。お母さんとお父さんが、私の向かいに座った。 「いただきます」  三人ともに、無言で食べ進める。テレビも音楽もかけない、うちの夕食風景。静かだけど、どこか寂しいと、いつも思ってる。 「あのさ……」  思い切って声を出すと、ふたりの箸が止まった。素っ気ないふうに、「どうしたの」と、お母さんがいった。 「お小遣い? このあいだあげたばかりだけど」 「違うよ。そうじゃないって」 「じゃあ、なんなの? あらたまっていうなんて気になるんだけど」  こういうとき、お母さんは無意識に語気が強くなる。私から食事中に話題を切り出すことなんてめったにないから、何をいわれるのかと警戒しているんだろう。お母さんの反応に、私も委縮してしまう。私のビビりはお母さん譲りなんだな。  でも、今日の私は違う。ノバラさんにもらった、はまみらいのバラを想像する。  いうんだ、もう情けない私はいや。図書館の公募チラシの前で、突っ立っているだけの私は。前に、進むぞ。 「——私、絵本の読み聞かせをしたいんだ。図書館で」  しん、と静まり返る食卓。ただでさえ静かだったのが、よけいに際立つ。〝小〟に設定された扇風機のブーン、という機械音が、妙に鮮明に聞こえた。 「読み聞かせって、なにそれ。大丈夫なの?」 「司書の人はいいよ、っていってくれてるよ」 「カガリ、司書の人と知り合いなの? 本当に?」 「本当だよ、優しい人」  あくまで、さらっと答えていく。必死にうったえると、反対に嘘なんじゃないかと思われてしまうから。今までの経験で、それは心得ていた。  お母さんは不満そうに、眉間にシワをよせている。自分の知らないところで私が何かをやって、他の人に迷惑をかけることが、お母さんは嫌いだから。  お母さんが、お父さんをチラリと見る。いったん、話を任せるときの合図だ。お父さんは「ふう」と息をついて、箸を置いた。 「カガリは将来、何になりたいんだ?」  どうして今、その話をするかな。いや、私はただ答えればいいんだ。何をいわれたって、動じないって決めたもの。  周りのせいにせず、自分から変わっていくんだって。 「私、絵本作家になりたいんだ」 「はあ?」  お母さんの目が見開かれる。今まで「将来は何になるの?」って聞かれても、「まだ決めてない」って返してたから、驚いたみたい。  それは、お母さんを安心させようとして、いっていただけ。いつもお母さんの顔には「声優」とか「アイドル」なんていわれたらどうしようって書かれていたの、私、わかってたからさ。  でももう、二人の顔色をうかがうのは止めた。どう思われたってかまわない。 「いや、ちゃんとわかってるのか? 作家って大変なんだぞ」 「知ってるよ」 「売れなかったら、辛い生活をすることになる。カガリには、難しいんじゃないか」 「それも、わかってる」 「厳しいことをいってるように聞こえるかもしれないけどな。お父さんは、カガリには普通の人生を送ってほしいだけなんだよ」  お父さん。今いった言葉が、どれだけ残酷な言葉なのか、わかってないよね。  それをいわれると、持っていた自分への自信や、自己肯定感がしわしわと干からびていんだよ。 「お母さんも、カガリは普通の子だと思うな。絵もうまいとは思うけど、普通の絵だと思うし。国語の成績も、ズバぬけていいわけじゃないし。作家なんて、むりでしょ?」  お母さんの一言一言に、私だけのぴかぴかの金メダルが、どんどんと錆びついていく。「心配だからいうんだよ」とか「苦労せず、幸せになってほしいからだよ」なんて、そんな言葉はほしくない。  それは、私のための言葉じゃない。私はただ「応援するよ」って、いってくれればそれでよかった。  扇風機でかき消されるほどの息をついて、私は二人に向き直った。 「読み聞かせについては、司書さんからボランティアさんに、話を通すっていってくれてるよ」 「カガリ。あんたねえ、親に相談せずに勝手に……」 「それに!」  お母さんの言葉をさえぎったのは、人生でこれが初めてだった。 「絵本作家になることも、私は本気。だから、読み聞かせをはじめようと思ったの。高校生になったらアルバイトをするつもり。私の夢を応援してなんていうつもりは、まったくないから安心して」 「ちょっと、なんで勝手にそう、ぽんぽん決めちゃうの? 夢の話だって、今日初めて聞いたし……」 「いってた!」  それは、悲鳴のようだった。視界がにじんで、頭のなかが真っ赤に燃えさかっていく。ちっとも減っていないごはんがよそわれたお茶碗。それが、だんだんとゆがんでいく。お米の粒が、ぐにゃりとへしゃげて。ぬるい涙が、ぽつぽつとテーブルに降っていく。 「ノートに書いた物語を〝見て〟って持っていっても、〝今忙しいから〟って見てもらえなかった! あとから〝見せて〟ともいってもらえなかった!」 「あれは、小さいころの話でしょ? 今は、将来の話で……」 「カガリは、ずっと絵本作家になりたいっていってたよ! でも、お母さんが興味なさそうにするから、いわなくなってっただけ! どうせ、カガリの書いたものに興味なんてないんでしょ? もう、私の人生に口出ししないで!」  転げ落ちるようにイスから立ち上がると、リビングから飛び出した。自室に閉じこもると、ベッドのなかにもぐりこんだ。  その日は、そのまま眠りについた。  朝、一階に降りると、テーブルの上に焼けたトーストが置いてあった。でも、気まずくて、両親と顔をあわせたくなくて、ランドセルを背負うと、何もいわずに家を出た。  途中、お腹は空くし、のどもカラカラになった。でも、二人といっしょの空間にいるよりはマシだった。  休み時間ごとに、教室の前の手洗い場で、喉の渇きをうるおした。それでなんとか、給食の時間までをしのいだ。  早く、図書館に行きたい。学校にいるあいだ、家にいるあいだ、そのことばかりを考えていた。
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