第三章 はまみらい

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 両親との会話がない日が続いた。お母さんが話しかけてきそうになったら、急いで二階に上がった。「ご飯よ」といわれたら、黙っておりて、急いで食べて、また二階に上がった。  お風呂には夜中、こっそり入った。喉がかわいたらいけないので、コンビニでペットボトルのお茶を買った。小腹が空いたときようのチョコレートや、スナック菓子も。  二人の顔を見ると、胸のなかがぐちゃくちゃになって、苦しくなった。  そんな状況のまま、土曜日をむかえた。  私は、めいっぱいのオシャレをした。ゆるっとしたシルエットのセーラーカラーのブラウスに、黒のガウチョパンツ。トートバッグには、財布とスマホ、あと絵本を一冊入れた。  息をひそめて、階段を降りる。お父さんは、仕事のつきあいで朝からどこかへ出かけて行った。お母さんはリビングで、テレビを見ている。  足音を立てずに、廊下を渡り切らなきゃいけない。 「カガリ」  ビクッ。 「出かけるの?」  どうして、降りてきたってわかったの。返事をしなきゃ、という気持ちと、したくない、という気持ちがせめぎ合う。 「どこに、出かけるの? あまり遠くじゃないよね? 遅くならないようにしてよ」  私は、リビングのドア越しにうなずくと、スニーカーを引っかけて、玄関を飛び出した。  しばらく、走り続けた。心臓がバクバクする。背中を、汗が垂れていく。  ノバラさんに会う前なのに、すっかり汗だくになってしまった。  朝の九時四十五分。早く着きすぎちゃったかな。ベンチに座って、ノバラさんを待つ。  あれから、お母さんもお父さんも、進んで私のことを放っておいてくれるようになった。そういう年頃なんだ、と諦めたのかな。  二人は、私がクラスで浮いていることを知らない。知ったら、どう思うんだろう。悲しむかな。お母さんだったら「カガリは社交的なんだから、そんなことになるはずがないんだけどなあ」とか、いうのかな。  私がそう見えるのは、無理して、いろんな人に気をつかってただけ。お母さんは、何もわかってない。私のこと。やっぱり、興味がないんだ……。  厚底のストラップシューズがカツカツと近づいてくる。ノバラさんだ! 「おはよう」 「おはようございます、ノバラさん」 「わっ、今日の服いいね」 「う、嬉しいです」 「ふふ、じゃあ、さっそく行こうか」  ノバラさんを追いかけ、図書館を出た。  そういえば、さっきノバラさんのカバンの中身がチラッと見えたんだけど、驚いた。小説と絵本が何冊も入っていたから。いつも重そうだなあとは思っていたけれど、本があんなにも入っていたなんて、びっくり! 「お、重くないんですか?」 「大丈夫。小学生のランドセルと同じくらいの重さだよ」  たしかに私も、毎日何冊も教科書を持って、学校に通っているけれど。でも、それとこれとは話が別。  だって、ロリータ服だってけっこう重いと思う。昔、七五三で着物を着たとき、すごく重く感じたのを覚えてる。だから、これだけ色んな布やレースでできた服が、重くないわけがないのだ。  しかも、こんなムシムシした暑い日に、重いカバンまで持ち歩いてるんだよ。ロリータさんって、アスリートかなにか? 三年に一回、ロリータオリンピックでもあるの? 「一冊でよくないですか?」 「それじゃあ、足りないんだよ」 「一日に何冊、読む気ですかっ?」 「短歌集や児童書をふくむ日は、三冊は読むかな」 「ええ!」  本って、一日にそんなにたくさん読めるものなの? 「ぼくのお母さんが、よく本を読む人だったんだ。ファッションへの思いや、ぼくの物事の考え方は、ほとんどお母さんの影響」  ノバラさんの大きな瞳は、ここじゃない、どこか遠くを見つめている。 「すてきな……お母さんなんですね……」 「うん。お母さんは、ぼくの憧れの人なんだ」  それは入道雲よりもその先の、青い空の向こう側だ。もしかして、ネバーランドかな。  しばらく、ふたりで雑談をしながら歩いた。  内容は、「このへんで、黒猫をよく見かけるんだ」とか、「近くにカレーパン屋ができたらしいよ」とか、他愛もないこと。  あと、ノバラさんと私の家は、意外と近いのかもしれないこと。歩くとけっこうかかるらしいけれど、自転車だったら、もう少し早く着けるかもしれない。 「本当に、うちから近くじゃないですか。驚きです!」 「うん。ちょっと前までね、そのへんに住んでたんだ」  そのいいかたに、私はきょとんと首を傾げた。 「……今は違うってこと?」 「うん。今は、別のところに住んでるんだ」  図書館からまっすぐ歩いて、何軒かコンビニを通り過ぎた。大きな交差点を左に曲がる。  すると地域のみんなに人気の喫茶店「トム・キャット」が見えてくる。  そして、その隣が、今日の目的の場所らしい。 「ここは……?」 「さっきいってた、ぼくが前、住んでいた家だよ。さあ、あがって」 「お、お邪魔します」  手慣れたようすで玄関の鍵を開け、なかに入っていくノバラさん。あわてて私も、それについて行った。  ノバラさんのイメージとはだいぶ違う、昔ながらの日本家屋。上がりかまちの高い玄関に、せまい廊下。ロリータとはかけ離れた家だ。  廊下を突き当たると、すりガラスの引き戸があった。なんだろう、とその部屋を開けようとする。 「だめ! 開けないで!」  ビクン、と反射的に手を引っ込める。  とても大人びていて、優しいノバラさんが、こんなに大きな声をあげるなんて。 「あっ……ご、ごめんね! 怒鳴ったりして。でも、ここ掃除してないんだ。絶対に開けないでほしかったの! 本当に、ごめん……」 「そ、掃除……?」 「恥ずかしいことだけど、ちゃんとできてないんだ。本当に、本当に、ごめんね」  掃除をしてないくらい、気にしないのに。それに、ここはもう住んでいないって、さっきいってなかった?  なら、掃除してないところがあっても無理はないし、むしろしなくても全然いいんじゃないかな。  ふしぎに思いながらも、私は何もいえなかった。  トントン、と軽快に二階への階段を登っていく、ノバラさん。 「この家はね……ぼくのお母さんの実家なんだ」  階段をあがるたびに、ノバラさんのスカートのすそが、ひらひらっとゆれる。なんだか、うちの金魚みたい。 「お母さんが、子どものころから住んでいた家でね。つい最近まで、ぼくとお母さんのふたりで住んでたんだよ」  あれ、お父さんは——?  ノバラさんのお父さんとお母さんは、別々に暮らしてるの?  ノバラさんはよく、ご飯の用意をしなくちゃって、いっているから……お父さんとはいっしょに住んでいるんだと思う。  じゃあ、お母さんは? この家のホコリ具合。人が住んでいる感じじゃないよね。  ノバラさんのお母さん、今は別のところに住んでいるのかな……。 「ここが、ぼくの部屋だよ」  二階にあがってすぐの部屋を、ノバラさんは指さした。  すりガラスの引き戸から、赤やピンク色がぼんやりと浮かんで見える。 「さあ、どうぞ」  ガラッと開けられると、そこには夢のような空間が広がっていた。  ベビーピンク色の壁紙に、天井からつり下げられた小さなシャンデリア。バラのもようのカーテンに、白を基調とした家具。  部屋の奥には大きな本棚があって、小説や絵本がぎっしりとつまっている。  床には、赤い絨毯が敷かれていた。  金色のハンガーラックには等間隔にお洋服がかけられ、トルソーにはノバラさんがコーディネートしたお洋服が着せられている。  童話に出てくるようなお洋服が、ずらりと並ぶここは、どこかのお城のひと部屋みたい。  目の前の光景が、とても信じられなくて、目をぱちくりとさせてしまう。 「すごい……。こんな部屋、見たことない」 「ふふ。ぜんぶ、ぼくの宝物だよ。ここだけは掃除をかかさないの。だから、安心して入って」  嬉しそうにほほ笑む、ノバラさん。ハンガーラックから服を一着、手に取って私に見せてくれる。 「これはね、『不思議の国のアリス』のお茶会をイメージしたお洋服なんだ。ぼくはこのお話が大好きでね。ほら、ここにウサギがいるでしょう。このお洋服を着るときは、必ずこれをかぶるんだ。トランプもようのボンネット。ボンネットっていうのは、昔のヨーロッパの貴族がかぶっていた伝統的な帽子のことだよ」  ボンネットを実際にかぶって見せてくれる、ノバラさん。  大きなサンバイザーみたいなものに長いヒモがついてる、って感じかな。サンバイザーのツバの部分を上向きにして、あごの下で、ヒモをむすぶらしい。  ボンネットには、フリルやリボンがついていて、とってもかわいい。  ハンガーラックを見ていると、ひときわ輝くお洋服が目に飛びこんできた。 「あっ。このイチゴがプリントされたやつ、すごくいい!」  まるで生クリームのようなフリルを何層にも重ね、イチゴシロップのような前開きのスカートを重ねたジャンパースカート。真っ赤なイチゴがプリントされていて、これを着たら、ケーキになれちゃいそうな、すてきなお洋服。 「着てみる?」 「え! い、いいの?」 「うん。ぼくも、カガリちゃんがロリ服を着ているところ、見てみたい」  私が、こんなにかわいい服を着るなんて、いいのかな。でも、ノバラさん以外、誰も見てないし……。 「いや、やっぱりダメ。私、ノバラさんみたいにきれいな肌じゃないもの」 「何いってるの。きれいだよ」 「ううん。足にね、うぶ毛がたくさん生えてるの。もじゃもじゃだから、はずかしい」  いつも、長ズボンをはいて、それを隠してるの。夏だから暑いけれど、仕方がない。  でも、服を着替えたら、もじゃもじゃがバレちゃうよ。 「ぼく、そんなの気にしないよ。でも、そんなにはずかしいなら、長いソックスで隠せばいいよ」  ノバラさんは未開封のかわいいソックスを、クロゼットから出してきてくれた。赤いリボンがついている、さっきの服とのコーディネートにぴったりのソックス。 「ほらほら。後ろを向いててあげるから、着替えて、着替えて。着方がわからなかったら、ぼくを呼んでね」  部屋の奥に、えいやっと押しこまれる。本棚の前で私は、どきどきしながら服を着替えた。  お洋服を汚さないよう、今着ている服の上から、ジャンパースカートをかぶる。下は、ノバラさんに借りた、雲のように盛りあがった、たっぷりのパニエに着替えて、さっきのソックスをはく。  パニエを着ると、お洋服はドーム状に広がり、よりショートケーキに近づく。 「ノバラさん。着替えました……」  私のすがたを見て、ノバラさんは思いっきり拍手をしてくれた。 「似合うよ、すっごくいい!」  そして、ジッと私のことを見つめてから、「そうだ!」と白いチェストから、細長いチューブを取り出した。洗い流さないヘアクリームだ。 「髪形を少し整えるだけで、ロリータ度は上がるのだっ」  博士みたいな口調で、クリームを手につける、ノバラさん。それで、するすると私の髪をなでていく。  それを終えると、「よし」といって、最後にイチゴやピンクの造花があしらわれた、麦わら帽子をかぶせてくれた。  おそるおそる、すがた見で自分のかっこうを確認する。  すると、そこには今まで見たこともないような、かわいい服を着た私がいた。着せられてる感はぬぐえないけれど、でもわくわくが止まらない。すてきな服を着ているだけで、こんなにも幸せになれるんだ。 「めちゃくちゃ似合ってるよ、カガリちゃん」 「ほんと?」 「うん! 着替えちゃうのが、もったいない。記念に、何かやりたいな」 「何かって?」 「……そうだっ、アクセサリーを作ろうよ。ぼく、レジンをいっぱい持ってるんだ」 「レジン?」 「樹脂のこと。百均とかでも売ってるよ。ぼく、これでいろんなアクセサリーを作ってるんだ」  ノバラさんはさっきのチェストの違う段から、小さなボトルを取り出した。  それから、次々といろんなものを取り出しては、猫足のローテーブルに並べていく。  丸いお皿に、さまざまなパーツが入ったケース。ピンセットに、パレット。 「どう? いっしょに、作らない?」 「はい! やりたいです!」  テーブルの前に座ると、ノバラさんはさっそく、流しこみ口のついたパレットにレジンを出していく。 「まずこれで、色を作る。白と、黄色と……」    色ができたら、シリコンの型にそれを交互に流しこむ。ミルフィーユを作るときみたいにね。固まったら重ねて、また固まったら重ねる。  そうしたら次は、一番大事なお仕事。とっておきのいちごのパーツを、作った生地の上に、ていねいに乗っける。 「最後に、指輪台に接着剤をぬって、できたケーキをくっつけたら、完成」  すごい。いちごのショートケーキの指輪だ!  初めてのアクセサリー作りだったから、うまくいくか心配だったけど、なんとか作り上げることができた。形は……ガタガタだけど。  ノバラさんのケーキは、層のバランスがいいし、形も崩れてない。売りものみたいに、できがいい。  私のは、層がぐちゃっとしてて、つぶれかけたケーキみたい。 「うーん、まだまだ修行が必要だ……」 「味があって、いいじゃない」 「どうしても、ノバラさんのと比べちゃうんですよっ」 「ふふ、ぼくは手先が器用なんだ」  テーブルにひじをついて、得意げに笑うノバラさん。楽しいな。ロリータ服を着て、ケーキのアクセサリーを作って、こうしてノバラさんとおしゃべりして……。  いつのまにか、自分が自分じゃなくなるような感覚になる。今だけは、ふてくされてる里々原カガリはどこかに行ってしまっているよ。  そうか。ロリータ服は、「自分に魔法をかけるための服」なんだった。 「このノバラさんの部屋、本当にすてきです」 「あ。いや、この部屋はね……」 「ここは、ノバラさんの魔法がつまった部屋なんですね!」  ノバラさんの魔法の部屋を、うっとりとしながらながめる。  すると、ノバラさんははっきりと「うん」と答えた。 「……そうなんだ。ここは、ぼくがぼくであるための、大事な部屋なんだよ」 「呼んでもらえて、とっても嬉しいです」 「ここに誰かを呼ぶのは、カガリちゃんがはじめてだよ」 「うそ!」  高校のお友達とか、呼ばないのかな。 「カガリちゃんなら、このお洋服たちをまっすぐに見てくれると思ったから、つい誘っちゃったんだ」 「まっすぐ、ですか?」 「うん。まるで宝石みたいだって、思ってくれると思ったから」 「こんな素敵な部屋、みんなわくわくするし、宝石みたいだっていうと思いますよ」  ノバラさんは、ちからなく首を振った。 「ロリータ服はね、着てるだけで見世物扱いだよ。こんなハデな服を着てるなんて、おかしいやつだって、みんな思ってる」 「そういう見方をされたことがあるってことですか?」 「うん」  悲しそうな、すべてをあきらめきったような声で、ノバラさんは目を伏せた。カールされたまつ毛が、ノバラさんの白いほっぺたに影を落とす。  私は、ぎゅ、とこぶしを握りしめた。イザヨイさんの「ガラスの靴」という言葉が浮かぶ。イザヨイさんは、慰めるんじゃなくて、ただただ私に寄り添ってくれていた。それが、どれだけ嬉しかったか。  私は、イザヨイさんにたくさん助けてもらった。だから、今度は私が、私の言葉で、ノバラさんに寄り添いたい。  「ノバラさんは、この町で一番のロリータですよ。私が保証します!」  するとノバラさんは、ぽかんとした顔をして私を見た。でも、すぐに「ぷふっ」と吹き出して、満面の笑顔になった。 「たしかに、この町ではぼく以外のロリータは見たことがないね。でも、町一番のロリータって、なんだかおとぎ話みたいないい回しだねえ」  しだいに堪えきれなくなったのか、大声で笑い出す、ノバラさん。  その表情は、ちっとも、お人形じゃない。私たちと同じ、普通のかわいい女の子だ。 「でも、町一番のロリータだって思ってくれる人がいるなんて、幸せだよ。この言葉は、最高のプレゼントだ。ありがとう」  いいながら、ノバラさんは何もない両方の手のひらを私に見せた。そして、鳥が羽ばたいていくようなジェスチャーをする。  頭の上に、ハテナマークを浮かべる、私。 「はい」  左手をトントンと突かれる。 「ぼくからは、これをプレゼントするよ」 「え? ……わあっ!」  気づくと左手に、ノバラさんがさっき作っていた指輪が乗っていた。  ノバラさんの魔法だ。胸がぽかぽかとあたたかくなる、不思議な魔法。 「い、いつのまに……いいの?」 「うん」 「嬉しいです……ありがとう! あっ、じゃあ私からは……」  さっき作った指輪を、と思ったけれど、これはもともとノバラさんが用意してくれた材料で作ったもの。いや、それ以前に、こんなへたっぴな指輪、あげられないよ。 「え? ぼくはもう、もらったよ。〝町一番のロリータ〟をね。ふふふっ」 「ご、後日、ちゃんとしたものをあげたいです! 待っててください!」  こめかみのおくれ毛を耳にかけるノバラさんは、まぶしそうに目を細めた。 「ありがとう。それじゃあ、楽しみにしてるね」
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