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「忠さん、うちの娘には内緒だよ。あれでも旅館継ぐ気になっているんだ。親からじゃなくて他人から耳に入ったんじゃ可哀そうだからさ」
「雅恵ちゃんには話していないのかい?分かった、任しときな」
その晩のことだった。
「お父さん、旅館閉めるって本当?」
雅恵は学校から戻りそろばんをはじく清吾に訊いた。清吾は笑ってしまった。こうも早く娘の耳に入るとは思わなかった。
「よし、折角だから母さんと三人に話そう」
洗濯をしている妻、礼子に声を掛け居間に集まった。
「いいか雅恵、これはもう母さんにも話して了解を得ている。だからお前は聞くだけ聞けばいい」
清吾は前置きした。活発でお喋りな雅恵に反論されたくない。雅恵はふくれっ面ををしている。
「坂本旅館を閉める。おじいさんの代から80数年続いたが潮時だ。その理由はお前もよく分かっているはずだ。お客さんが来なければ成り立たない。この先お客さんが増える予定もつかない、これに尽きる」
「これからお客さんが増えるかもしれないよ。大船に観音様が出来たし、あたしの友達が泊まりに来るって言ってるし」
昭和35年に大船観音が建立された。まだ5年前である。各地からその姿を拝みに来る観光客も増えていた。
「それも一時的なものだ、それにここは大船じゃない、観音様を拝みに来るのにうちに泊まる酔狂なお客さんはいない。それからお前の友達が泊まりに来ると言う話は信用するな。仮に数人が来たとして逆に困るだろう。経営と言うのはそんなに簡単じゃない」
「あたし、結婚して旦那さんとこの旅館を立て直すわ。だからもう一度考え直して、ねっ、お父さん、お願い」
雅恵は正座して頭を畳に付けた。
「話しはそれだけだ、それからお前の結婚はお父さんが決める。いいな」
清吾は立ち上がりまた帳場に戻った。
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