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第一章 集団お見合いと一目惚れ
1-1
―結婚はゴールではなく、スタートだ
確かそんな感じのことを、前世、数えきれないくらい参加したお見合いパーティーで、司会者の一人が言っていた気がする。それを覚えているのは、「参加者を煽るしか能がない司会者と違って、割とまともなことを言う人だなぁ」と思ったから。それに、
「…まあ、その通りだとしてもさ。」
―その「スタート」に立てないから今ココに居んだよ!
と、激しく突っ込んだ記憶が付随するから。
「クロエ…?何が『その通り』なの?」
「あ、ごめん、一人言。気にしないで。」
そう?と隣で首を傾げる妹同然の友人には、ヘラッと笑って誤魔化した。一人暮らしが長いせいか、気を抜くとすぐに口から思考が転がり出るこの悪癖を、本当、何とかしなくては。
こちらの言葉に納得したのか、今はそれどころではないと思ったのか、視線を目の前の広場へと戻した友人。その視線を追って眺めた先には、相変わらず何とも言えない光景が広がっている。
「…」
思わず遠い目をしてしまうが、この光景を「奇妙」、「不思議」だと思ってしまうのは自身の「前世」が邪魔するからで、この世界、というかこの地域では当たり前に受け入れられている風習。いや、それでも―
「…パチンコ。」
今度の呟きは隣の少女には届かなかったようだ。チラリとうかがった表情はキラキラと輝いたまま、広場に立つ―或いは座り込む―男性達と、それぞれの背後にドンと構えた巨大な花輪たちを食い入るように見つめている。
「…」
そう、花輪。花輪なのである。
ここが年に一度開かれる「妻乞い」の祭り会場なのだとしても。この日のために近隣の村や町から集まった若者たちのための神聖で由緒正しい出会いの場―ぶっちゃけ、ただの集団お見合い会場―だとしても。
「…新装開店。」
もうね、ほんと、その言葉しか浮かんでこない。
地面に差された木や竹で出来た団扇のような土台に、色とりどりの生花が飾られた巨大花輪。伴侶を求める男性陣の数だけ広場に乱立するその花輪は、それはもう見事にてんでバラバラの指向性と嗜好性に富んでいるから、華やかで綺麗ではある。あるからこそ―
(やっぱり、パチンコ…)
その強烈な印象が、―まともに思い出せることの方が少ない―私の前世の記憶の奥底から、ド派手なイメージそのままに、ネオン輝く光景を引っ張り出してきた。
「前世」、その概念自体、前世の記憶から得たものだけれど、私がそれを認識したのは、物心がつき始めたあたりだったと思う。たまに浮かんでくる「知らないはずの記憶」、「意味のわからない概念」、「見たこともない存在」。そんなものがふとした時に浮かんでくる。幸いだったのは、それを誰かに伝えようにも、小さな頃にはそれをうまく言葉にする能力が足りず、成長してからはそれを隠すだけの分別がついていたということ。
だから私は、「住んでる人みんな知り合い」みたいな小さな村の中でも、「ちょっと変わった女の子」程度で受け入れられてきた。
前世の記憶があるからといって、「農業革命」を起こすだけの知識はなく、魔法が存在するらしい世界で「無双」するだけの力も目覚めず。人より幾分か得意な計算能力とそれなりの文章力のおかげで―ありがとう義務教育、ありがとう教育基本法―、村で一番の有望株だった村長の息子と婚約し、一村人としての人生を生きていくんだと、そう思っていた。
その、緩くて穏やかですっかり満足しきっていた私の今世も、今ではもう、すっかり過去のものになってしまったけれど―
1-2
(まだ三年、かぁ…)
「…」
今度は、意識して口にしなかった一人言。ここでこれを口にするのはマズイ。そんなことをすれば、完全な「かまってちゃん」。この歳で、流石にそれは、
「ねぇねぇ!クロエ、見て!」
「ん?」
思考にはまりそうになったところで、グイグイ左腕を引っ張られた。腕を掴んできた相手、視線を広場に向けたままのキアラが興奮を隠しきれずに耳打ちしてくる。
「あそこのガランテ!凄い!宝石があんなに!」
彼女がこっそりと指差す先には、確かに、他とは一線を画す花輪が陽光を浴びて燦然と輝いている。
「うわぁ…」
「ね?ね?スゴいよね!あんなキラキラしたガランテもあるんだね!いいな、いいなー!」
「…」
花輪―ガランテ―
起源や由来はもう誰も知らないというくらい昔から、この地域の集団お見合い、「妻乞い」の祭事で用いられている求婚のための道具。成人を迎える男性が居る家では、家族総出で土台部分を作成し、伴侶を求める男性自身が真心こめて装飾を施す。かつては、生花だけを飾るまさに花輪でしかなかったらしいが―
「もう!クロエ、反応が薄い!」
「えー、スゴいとは思うけど。」
「けど?何?去年はもっとスゴかったとか?」
「ううん、そうじゃないけど…」
去年、一昨年と、今回で三回目の参加となる妻乞い祭り。始まりは生花飾りだけだったというガランテに、花以外にも貴金属や宝石などの、女性が好みそうな装飾品が加わるようになって久しく、それがその男性の財力や職業などの判断基準の一つにもなっているらしいのだが。
「キアラ、よく見て。ガランテの前。」
「?」
「『家族同伴』…」
「…」
基本が未婚の男女のためのお祭り。祭り会場のあるハルハテの街に、家族がつきそうことはそう珍しいことではない。だがそれも宿屋まで、広場に入るまでのこと。
「…無い、ね。」
「無いでしょ?」
キラキラ輝くガランテを背に、求婚者の一人であろう青年の両脇には、ギラギラとした眼差しの壮年の男女。男性の方は青年そっくりだから、恐らく彼の両親なのだろう。側を通りすぎる女性達を追う、その視線が恐い。
「…お金はありそうだけど。家に来て貰うのは難しそう。」
「…」
小さく息を吐いたキアラがクルリとこちらを振り向いた。
「クロエは?どう?」
「え?あの人?」
思わず嫌そうな声になってしまったのは許して欲しい。
「別にあの人じゃなくても。誰か良さそうな人、居ない?」
「うーん…」
自分でも気の無い返事だなぁとは思うけど、正直、このお祭りで相手を見つけられるとは思っていない。妻乞いは、時代の流れと共に少しずつ形を変えてきてはいるが、その基本原則は変わらない。男性が女性を妻として求め、それに女性が答えれば、即、結婚、即、夫婦なのだ。
(そんなの、無理無理無理!)
結婚式までの準備期間くらいはあるけれど、そこに、恋人同士や婚約者同士の甘々な時間なんてものは存在しない。ファーストインプレッション、長くて数十分の会話で人生の伴侶を決める。ガチ勢もガチ勢による、公共イベント。前世の「合コン」や「街コン」、「お見合いパーティー」でさえ、目じゃない。「後はお若いお二人で」とか、「これからお互いを知っていければ」とか、そんな優しい時間は一切存在しない。
つまり、前世、数多のお見合いをこなしながらもご成婚に到らなかった私には、かなりハードルが高いお祭りだと言える。
それでも、そんなハードモードにも関わらず、年頃の男女の数が限られる小さな町や村から集まる参加者によって祭りは毎年盛況、成婚率もなかなかのものらしい。もちろん、祭りに参加せずとも、その小さな町や村の中で相手を見つけて、時間をかけて愛を育むカップルだっている。私自身、その内の一人、だったのだけれど―
「…クロエは、さ…」
「?」
暫く黙り込んでしまったこちらを心配したのか、キアラが躊躇いがちに口を開く。
「その…まだ、お兄ちゃんのことが好きなの?」
「!」
焦った。まさに今「そのこと」を考えていたから。ただ、キアラがそんな辛そうな、申し訳なさそうな顔をする必要は全く無くて、
「いやいやいや!流石に無いから!無いからね?」
「…」
「ホルスのことは、本当にもう、全く、これっぽっちも好きではないし、忘れてたくらいだから!」
更に言えば、こちらの世界の結婚適齢期である十六歳から十八歳の私を「婚約」という約束で縛り付けたまま、自身は「騎士になる!」と村を飛び出して行ったヤツをアホだと思ってるし、そこそこ恨んではいるけれど。
「じゃあ…お兄ちゃんがクロエに酷いことしたせいで、男の人が嫌いになっちゃったとか?」
「ナイナイ!それも無い!」
飛び出したあげく、適齢期を過ぎようかという私に「婚約破棄」を一方的に、しかも村長を通して伝えてきて、自分は王都でさっさと別の女性と結婚したヤツを、屑だとは思っているけれど。
「村長さんも、キアラも、村の人みんな、ホルスのこと怒ってくれたじゃない!」
「だって、そんなの当たり前だよ!あんな!お兄ちゃんが、あんなことするなんて!」
「うんうん、ありがとね。」
三年前、身内びいきせずに私の味方をしてくれた村長一家、村の権力者の息子を「バカ息子」だと憤ってくれた村のみんな。気づけば同年代の独身男性0という、驚異の狭さの世界ではあるけれど、そんな、普通に温かい世界で生きられることを、私は幸せだと思っている。
ただ、そんな幸せだけでは周囲―特に責任を感じているらしい村長一家―は納得がいかないらしく、婚約が破棄された三年前から、私を毎年こうして妻乞いに送り出してくれていて、それもまた何と言うか、本当に恵まれているんだけれど、
「お兄ちゃんが関係ないなら、クロエももっと真剣に探そうよ!クロエの『旦那さん』!」
「う…そう、だね。」
善意からの言葉だとわかってはいても、「彼氏」でも「誰かいい人」でもなく、いきなりの「夫」。本当、ハードル高いなぁー。
「よし!それじゃ、もっと真ん中の方まで行ってみようよ!こんな端っこじゃ、奥の方なんて見えないし!」
「あ、や!ちょっと待って!」
「だめ!行こう!」
引きずって行かれそうなのを何とか踏み留まって、クロエを引き留める。
「後ちょっと、ちょっとだけ待って。」
「?何で?」
首を傾げるキアラ。その向こうから、見知った顔が走ってくるのが目に入り、漸くかと安堵する。走り寄る青年の顔にはまだいくらかの幼さが残るものの、村で何時も目にする彼とは違う、緊張をにじませた表情を見せている。そのひたむきな眼差しの先には―
「キアラ!」
「え?アル?」
振り返り、荒い息をつく幼馴染を認めたキアラが不思議そうな声を上げた。
「どうしたの?ガランテは?飾るの終わった?」
「…」
「あ!それとも、もう誰かに、」
「キアラ!」
「!」
アルの上げた声の大きさに、キアラがビクリと身体の動きを止めた。そんな彼女の様子に覚悟を決めたらしいアルが、彼の右手、その内に握られたものをキアラに差し出して―
「キアラ、君が好きだ!」
「え!?」
差し出された手に握られた花。前世の菫によく似た紫の小さな花は、求婚者の手の中で強く握り締められ、少し草臥れて揺れていた。
1-3
「え!?え!?アル!?何で!?」
「ずっとキアラが好きだった!僕と結婚して欲しい!」
「ウソ!?」
「何で?」と「ウソ」しか言えなくなったキアラと、彼女に向かって花を差し出したまま微動だにしないアルの姿をニヤニヤと眺める。
アルが手にしているのはヴィオレの花。元々は、生花で飾り立てたガランテの中に一本だけ差したこの花を、これだと思った女性に手渡すことで想いを伝える求婚の花。それを握る彼の手が僅かに震えているのが傍目にもわかる。
アルとヴィオレを交互に見つめるキアラは今までに無いほどの動揺を見せ、ウロウロと視線を彷徨わせていたが、
「クロエは、知ってたの…?」
「うん。」
「!何で言ってくれなかったの!?」
突然向けられた視線にも、つのる声にも、自然と口元が緩んでしまう。
「そんなの、アルから直接聞いた方がいいでしょう?」
「!?でも!だけど!」
「妻乞いを楽しみにしてるキアラに行かせてあげたいけど、他の人にかっさらわれるのは嫌だから、ここで足止めしといてって頼まれたんだ。」
「!?」
私とアルと。忙しなく交互に向けられる視線を受け止めて―
「じゃあ、『後はお若いお二人で』?」
「え!?」
「協力頼まれたのはここまでだから。ちゃんと二人で話すんだよ。」
「クロエ!」
「ちょっと」とか「待って」とか呼び止める声にヒラヒラと手を振って、アルには一言、頑張れと声援を送って、広場の外へと歩きだす。村でも比較的歳の近い妹分と弟分。想いの質は違っても、互いが大事に思い合っているのは知っているから。
「上手くいくといいなぁ。」
そんなことを口にして、自然と緩んでしまう口元を引き締める。広場全体、街全体がソワソワ浮かれた雰囲気とはいえ、流石に一人ヘラヘラ笑う女は危なすぎる。
そんなことを考えながら、広場の外縁―妻乞いの場所取りとしてはいまいちな場所―に立ち並ぶガランテを、何とはなしに冷やかしながら、宿に向かって歩を進めていると、
「?」
周囲の、空気が変わった―
男性陣の、自己アピールに張り上げる声や通りすぎる女性を引き留める声も、遠目に―或いは近づきながら―ヒソヒソ、クスクスと笑いさざめく女性達の声も。潮が引くように消えていって―
シンと静まりかえる周囲の視線が一点に向けられる。その先を追えば、
「!?」
大通りから広場へと向かってくる一人の男性。青年、だけど、周囲の男性陣より一回り程は年上に見える。遠目にもわかる鍛え上げられた肉体は、それだけで他を威圧するには充分。でも、それよりも、周囲をこれだけ沈黙させてしまっているのは彼がその背に担ぐもの。
彼が広場へと向かって来ることや、飾り気が無いとはいえ一応の体裁を保っていることを考えれば、ガランテで間違いないだろう、彼の担ぐソレは、だけど―
「…お葬式…?」
思わず前世の記憶が飛び出してくる程に奇抜な彼の花輪は、華やかさとは一切無縁の茶色一色で統一されていた。
1-4
(いや、お葬式は白と黒だから、やっぱりちょっと違うかな。)
(そもそも「花」感が無いし。あ、でも茶色だけかと思ったら、灰色もある。)
(あの飾りって、何かの毛皮?あっちにぶら下がってるのは何だろう?…ただの石にしか見えない…)
呆気にとられたまま、彼の掲げるガランテの正体を確かめようと凝視し続ける内に、広場の最奥、端の端にたどり着いた彼は、片手でガランテを持ち上げて、
(刺した!?)
地面に深々と刺さるガランテの土台。先が杭になっているとはいえ、踏み固められた広場の硬い地面に深々と刺さっていくことが信じられない。
「…」
二度見どころか、ガン見。視線が外せないでいる内に、無事に刺さったガランテの前に胡座をかいて座り込んだ彼は―
(え!?寝ちゃうの!?)
本当に寝てしまったのかはわからない。でも、ガランテを背もたれにしたその人は、明らかに目をつぶってしまっている。
(いやいやいや。ここで!?この状態で!?寝ちゃうの!?)
固唾をのんで見守る中、動かなくなった彼とは反対に、彼の存在で動けなくなっていた周囲の人達が動き出した。見えない壁でもあるかのように、彼から一定の距離を取り出す。彼の隣にガランテを立てていた青年は、可哀想に、涙目になりながら、自身のガランテを引き抜きにかかっている。確かにこのままこの場で粘っても、ちょっと女性は近づいて来そうにない。かといって、今から移動して空いている場所が他にあるのだろうか―
「…生きろ。」
移動していく彼に心の中で手を合わせ、再び個性に過ぎる茶色のガランテ、その足元に眠る男性へと視線を戻した。
(これは、何だろう?埋没しないための個性の演出?)
思い出すのは、前世のお見合いパーティー。ごく稀にだけれど、こちらの度肝を抜く勢いで奇抜なファッションスタイルで現れる人というのは確かにいた。そこに惹かれるかどうかは別として、他の人よりも遥かに―具体的には生まれ変わっても覚えているくらいには―強烈な印象を残していったことは間違いない。
そういう意味において、彼のガランテは会場の誰よりも目立っていることは確かだ。
「…」
改めて、座り込んだ男性の顔を見つめる。少し離れているとはいえ、これだけ不躾な視線を向けられるのは、彼が目を閉じているから。その顔を穴が空くほど見つめて出した結論は、彼のガランテは「目立つためではない」ということ。何故なら、
「…恐ろしいほどのイケメン。」
その目を閉じていてもわかる。登場の仕方と威圧的な雰囲気に腰が引けてしまったが、ちゃんと観察してみれば、前世と今世を合わせても一番のイケメン。歳は二十代後半といったところだろうか?若干、…いや正直、かなり、野性味が強い気もするが、だが、それがいい。彼がナンバーワンだ。間違いない。というか、滅茶苦茶好みだ。
まぁ、つまり、前世の経験からいっても、これだけのイケメンなら、花輪なんかで周囲の気を引く必要なんてない。顔だけで、周囲にはワラワラと女性が寄ってくる。前世、ワラワラしていた私が言うのだから間違いない。
現に今も、彼のイケメン度に気づいたらしい何人かの女性達が、彼の方へチラリチラリと視線を向けている。それでも、彼から立ち上る「話しかけんなオーラ」が、辛うじて彼の広めのパーソナルスペースを守っている状況。
全身黒ずくめ、上下ともに革?らしき素材の服に身を包み、両手の指にはズラッとはめられたシルバーアクセ。上着にビッシリと打たれたスタッズ、…まで見えた気がしたけど、それは幻覚だったみたい、うん。前を開けっぱなしの上着の内に見えるインナーに包まれた筋肉質な肉体まで、ほんと、格好いい!格好いいんだけど、
(恐い!ワイルド系、苦手!)
前世ならまず間違いなく近寄らないタイプ。遠くから鑑賞させて頂くだけで満足。だって、一体、何を話せばいいのか。共通の話題が見つからない。見つからないけど、話してみたい。
「…」
(…どうする?)
少しでも彼と会話をしたいなら、他の皆が躊躇している今しかない。彼が女性に囲まれてしまった後では、そこに割り込む勇気はないし、一対多では意味のある会話が成立するかさえ怪しい。
そうやって彼をガン見しがらモダモダしている内に、歩いてきた二人組の女性が、彼のガランテに驚いたように足を止めた。そのまま視線を彼に向けた表情に、幻聴が聞こえてきた。
―イケメンじゃん。ちょっと、声かけてみる?
―えー、本気でー?
実際には遠すぎて聞こえないけど。でも、彼女達の表情には既視感がありすぎて、
「っ!」
たまらず、彼へ向かって一歩を踏み出してしまった。
(駄目だ、マズい。)
覚えのある緊張感。前世のこととは言え、数をこなす内に「慣れ」という耐性がついていたはずの「初対面の人へ声をかける」という行為。相手を意識し過ぎるから緊張するってことは、嫌というほどの経験からわかってるのに。
(ダメだダメだ。)
近づく彼との距離。なのにテンパり過ぎて、使い古したはずの「最初の一言」さえ浮かんでこない。
「あ、あの!」
「…」
彼を間近に見下ろす距離。続く言葉が出てこない第一声、にも関わらず、伏せられた顔が持ち上がる。それが、スローモーションのように見えて―
「っ!?」
(ああ、ヤバい…)
見上げてくる紫紺。カチリと合った鋭い視線に射抜かれて、思考が完全に停止した。
1-5
どれくらいの間、フリーズしてしまっていたんだろう―
ハッと気づけば、紫紺の瞳はこちらにヒタと据えられたまま。本当に、一瞬、気絶していたかもしれない。
(マズイマズイ。)
声をかけたまま動かないなんて挙動不審にもほどがある。働かない頭の代わりに、あり得ない速さで高鳴り続ける心臓、嫌になるくらい熱くなった顔の熱を自覚して、何とか彼から視線を引き剥がした。
「お、お隣!座ってもいいですか!?」
「…」
地面を見つめながらの問いかけに、彼からの返事はない。ただ、胡座をかいていた彼の片膝が立てられた。
「え、えっと?」
「…」
心持ち、ではあっても、彼が作ってくれたスペース。それが彼からの許可だと勝手に解釈して、
「失礼します!」
座り込んだ彼の隣。拒絶のセリフを聞くまでは「あり」ということにしておいて、視線を合わせる勇気はないから、彼の胸元辺りを凝視する。
「…」
「…」
(き、気まずい。)
頭頂部に静かな視線を感じて身動きが出来ない。視界には、細身ではあるけれど、服越しにもわかるゴツゴツとした筋肉で出来た肉体が広がっていて、
(これは…!…っ!ゴメンなさい!)
もう顔も思い出せない前世の婚カツ仲間の一人に詫びる。「男は筋肉だ!」と豪語してやまなかった彼女を笑っていたけれど、今はその気持ちが嫌というくらいわかる。
(ヤバイヤバイ。)
ガチガチに緊張しているくせに、目の前の身体に触れてみたくてたまらない。勝手に伸びそうになる自分の右手が信じられない。そんなことばかり考えている頭では、上手い会話も浮かんで来るはずなくて、それでも、声をかけたのはこちらなのだから、話を、何か言わなくてはと探った前世の記憶。引っ張り出せたのは、面白味も個性も何もない、だけど、多分、一番無難な言葉だった。
「…えっと、初めまして。クロエって言います」
「…」
無言―
挨拶に返ってきたそれに、高鳴った心臓とは反対に指先の血の気が引いていく。
(メチャクチャ、逃げたい!)
「何で話しかけたんだ!?」「やめときゃ良かった!」とかの後悔がグングン沸き上がってくるけれど、ここで逃げ出したら、「あり得ないほど失礼な女」として彼の記憶に残ってしまう。惹かれた相手の記憶にそんな形で残るのだけは避けたくて、
「あの…、お名前は?」
「…ユーグ。」
「ッ!」
返ってきた彼の声に、思わず上がりそうになった悲鳴を飲み込んだ。まさか、そんなにあっさり返事が返ってくるなんて思っていなかったから。しかも、
(ほんっとに、ゴメンなさい!)
また別の、婚カツ仲間の友人に頭を下げる。「声さえよければ他はどうでも!」と、合コンで気に入った相手とは必ずカラオケ二次会に突入する彼女を笑っていたけれど―
(これが、これが腰にクルってやつか!)
今まで、異性の声にときめいたことなんて無かったのに。たった一言。彼が口にした「ユーグ」という温度の無い重低音に、耳から溶けていきそうになる。
(悶えたい!思いっきり悶えたい!)
滾る何かを必死に堪えて、会話の糸口を探し続ける。
「え、あの、えっと、ユーグさん、はおいくつですか?あ、私は今年、二十一で…」
既にちょっといき遅れつつあります、なんて自虐的な言葉を彼の胸に向かってゴニョゴニョ呟いて、ヘラヘラ笑う。
「…」
「…」
(会話を弾ませられない!てか、続かない!)
無言に耐えきれず、次の話題、次の話題と考えて、
「あーえっと、お仕事って何、を…」
出てきたセリフを途中で飲み込んだ。
(違ーう!)
いや、お見合いの場なのだから違わないかも知れないけれど、こんな緊張感に満ち満ちたタイミングで聞くことではない。もっと、もっと、何か、場を和ませる、当たり障りの無い―
「…傭兵だ。」
「あ、え?『ヨウヘイ』?」
脳内検索をグルグルかけているところに返ってきた言葉が、一瞬、上手く処理できずに聞き返す。
「…」
「えっと、『ヨウヘイ』。あ!魔物狩ったりとか、そういう?」
「…」
返事は無く、顔も見られないせいで、彼が頷いたのかもわからない。ソロリ、ソロリと視線を上げてみれば、彼の視線はいつの間にか遠く、広場の向こうの、更にその先に向けられていた。
その横顔を下からコッソリ盗み見て、「傭兵」という聞き慣れない彼の仕事について考える。私の今までの人生では、全く馴染みのない職業、
傭兵―
彼には「魔物を狩る」と表現したが、彼らが戦うのは何も魔物に限ったわけではない。戦時には戦力として、平時にも、犯罪者の取り締まり等に駆り出されるような職業で、つまり、彼は、
人を殺す―
「…」
「…」
身体が震えそうになったのを、腕を強く握ることでやり過ごした。
前世はもちろんのこと今世でも、魔物の驚異から遠く、犯罪者に狙われることもないような小さな村で生きてきた私には、到底、想像も出来ないような世界。そんな世界で、命のやり取りをして生きている人。まさに―
(生きてる、世界が違う…)
「…」
「…」
チラリと視線を向ければ、立てた膝に無造作にのせられた彼の腕。剥き出しの肌には、確かに見えるいくつもの傷痕。彼が身を置く世界が垣間見えた気がした。だけど、なのに―
腕を伝って視線を走らせれば、緩く握られた彼の手、指先が視界に映る。
(マズイ、ヤバイ、マズイ…)
厚く、武骨で大きな拳。
(手まで!手まで格好いいとか!ヤバイ!惚れる!何で!?)
手フェチでもない、骨格フェチでも、「男の人の腕の筋、最高!」なんて、思ったこともなかった。なのに、今は、
(全部惚れる!全部好み!滅茶苦茶好き!)
初対面の相手に好意以上の気持ちを抱くなんて、誰かに一目惚れするなんて、思いもしなかった。それも、こんな、別世界で生きているような人に―
「…」
「…」
漏れそうになったうめき声を飲み込んで、彼からそっと視線をそらす。「本当、どうしよう」と途方に暮れて、泳がした視線の先、見えた光景にサッと血の気の引く感覚を覚えた。
(…やだ、来ないでよ。)
先ほどユーグを気にしていた二人組。その二人がこちらへ近づいて来る気配を見せている。
(ヤダヤダ、来るな来るな。…来ないで下さい!お願いします!)
盗られる、と思った―
私のものでも何でもない人を。そして、それは絶対に嫌だ、と思ってしまったから、
「ユーグさん!」
「…」
呼べば、ゆっくりと向けられる紫紺の宝玉。震えそうになるほどの輝きに囚われる。
(ああ、これは…無理。)
僅かに残る冷静な思考が警鐘を鳴らす。
(絶対に無理、こんな人に振り向いてもらうなんて…)
「あの、私!」
「…」
(無理だって。無理、だけど…)
「あなたの、花が欲しいです!」
1-6
(…やっちゃっ、た…)
「…」
「…」
意図した以上に響いてしまった自分の声。比喩でなく、周囲から音が消えた。恐過ぎて確かめることはしないけど、間違いなく、皆から見られている。注目の的だ。これ以上無いほどの羞恥に頭が沸騰し続けている。それでも何とか、目の前の瞳から目をそらさずにいると、
「…俺は、獣人だ。」
「あ、え?」
羞恥の原因である女性からの公開プロポーズ。返ってきた返事はイエスでもノーでも無くて、そのことに、思考がまた空転する。
「獣、人…」
咀嚼して、飲み込んで。そして漸く理解できた彼の言葉に、慌てて彼の頭上に視線を向ける。
「あ、本当だ!耳。」
「…」
立っているのか、立たせているのか。前髪を上げたウルフカットの彼の黒髪からは人とは違う獣の耳がのぞいている。
(犬系?狼?…ああ、けどもう、本当にダメ…)
耳が格好いいって何?そんなの反則―
先ほどまでは目線さえも合わせられずにいたから気づかなかったその存在に、完全に堕とされた。
「…」
「あ、すみません!」
彼が何も言わないのを良いことに、なめ回すような視線を向け続けていたことに気がついて、慌てて視線をそらす。
(ヤバイ、呻いてたかも。変な声、出してたかも。)
「…すみません、本当に。獣人の方って初めてお会いしたので。」
「…」
無言の相手に必死に言い繕う。
「私の住む村って、かなり小さくて田舎で。外の人と会うこと自体、滅多になくて。」
「…」
「だからって、ジロジロ見ていいってわけじゃないですよね。本当に、不快な思いさせてすみません。」
「…」
「えと、それで、あの。あれ?何でユーグさんが獣人っていう話になったんでしたっけ…?」
一人でしゃべり続けながら、ふと我に返った。確か、私のプロポーズへの彼の返答が「獣人」発言だったから―
「まさか…」
「…」
浮かんだ可能性に恐怖がつのる。
「獣人と人は結婚出来ない、とかですか…?」
「…」
自分で言った言葉に心臓が軋んだ。
世界だけではなく、彼とはそもそも種が違うと言われてしまった。だとすれば、彼のガランテだって本来は獣人向けものなのかもしれない。なのに私がそれに勝手に引っ掛かって、勝手に盛り上がって―
「…ご、ごめんなさい。私、知らなくて。」
自分の暴走が情けなくて、悲しくて。彼を見ていられずに俯いた。視界に映る自分の手が、無様に震えている。
「…違う。」
「え?」
臥せた頭の上から聞こえたのは小さなため息と、それから囁きに近い声。
「夫婦になることは出来る…」
「え!じゃあ…」
彼は別に「私と」なんて言ってはいない。だけど、ゼロではなくなった可能性に、勢いよく顔を上げてしまった。
「…」
「え、えっとですね…」
表情の読めない彼の無言に、必死に言葉を探す。
「私、家事は比較的得意で!」
十歳で両親を無くしてから、一人で生きていくために身につけたスキル。彼からの反応は無いけれど、他に、自分のアピールポイントは無いかと必死に探す。
「あとは、畑で野菜作ったりとか!鶏を捌くくらいは出来ます!」
「…」
「それに!」
それに―
無反応な彼に響く言葉、何か。
広場に着くなり寝てしまったユーグ。彼のガランテは飾り気一つ無くて、広場の喧騒なんて他人事と言わんばかりの態度。それが何かを、ボンヤリとした過去の記憶を揺さぶった。
「あ…!」
脳裏に浮かんだのは、お見合いパーティーなんかで、何度か耳にしたことのある男性達のセリフ。
―親がそろそろ結婚しろってうるさいんだよね
―母親が勝手に申し込んじゃって、今日は仕方なく
見合い会場にも関わらずそう口にした彼らの言葉が、どこまでポーズでどこまで真実だったのかなんてわからないけれどー
「もしも!もしもですね?ユーグさんが本当は結婚したくなくて!」
「…」
「それでも、何か事情があって結婚しなくちゃいけないとかだったら!私なんかどうですか!?」
「…」
「実は私はもう、かなり!結構!ユーグさんのこと好きだなぁって思っておりまして!」
こんな短時間で彼の何がわかるんだって話で、こんな短時間で人生の伴侶を決めるなんて無茶振りもいいとこだ、なんて思ってたけど。
「もし!ユーグさんも私のこと絶対に嫌とかじゃなかったら!渋々でも、仕方なくとかでも良いので!後から文句とか絶対言ったりしませんので!お願いします!」
「…」
「私にあなたの花を下さい!」
二度目のプロポーズ。今度は自分の想いまでさらけ出して、捨て身で挑む。
(だって、でも、どうしても…)
こんなに触れてみたくて、触れて欲しいと思った人は、彼が初めて。この人だけ、だから。この先の人生を誰かと歩むなら、私は、この人でなくちゃ、嫌だ―
1-7
見つめ合う視線を先に外したのは、彼の方だった。
「…ヴィオレは無い。」
たった一言、そう言って立ち上がったユーグの姿をボンヤリと目で追う。
「そう、ですか…」
自分の口から言葉が出たことに、あれ、可笑しいなとは思ったけれど、頭が上手く回らない。
―ヴィオレは無い
「…」
わかってはいた。実際、彼のガランテに紫の花は飾られていないのだし。やっぱりね、と思う諦念と、それはどういう意味なの?と食い下がりたい気持ちがせめぎ合う。
「私に渡すヴィオレは無い」?それとも、「誰であろうと渡すヴィオレは無い」?
後者ならまだしも、前者なら軽く心が死ぬ。
(あー、ヤバイ、かも。)
流石にこれはキツイ。溢れそうな涙を必死に堪える。こんなところで泣き出して、彼に迷惑をかけるつもりはない。口を開けば決壊してしまいそうだったから、無言で立ち去ろうとすれば、
「来い。」
「え?」
(私?)
いつの間にか地面から引き抜いたらしいガランテを片手で持つユーグ。その視線は、私に向けられていて、
「…」
「あ!」
歩き出した彼の後を追う。
(私?私にだよね?来いって言ったの…)
不安なまま、それでも追い払われたりはしないのでリーチの長い彼の背を小走りに追った。
無言で歩くユーグが足を止めたのは、広場の中央。役目を終えたガランテが、夜の炊き上げを待って積み重ねられたその場所に、彼も自身のガランテを積んだ。
「…」
「…」
彼の手を離れたガランテ、じっと見つめるユーグが何を思うのかはわからない。感情のうかがえない瞳が閉じられ、やがてゆっくりと開いた。それはまるで、何かに捧げる祈りのようで―
「…行くぞ。」
「あ!はい!」
再び歩き出したユーグの後を追いながら、今の状況を理解しようと考える。
(えっと、これは…)
自分に都合良く考えるなら、これはプロポーズが成功した、ということなのだろうか。それにしては、全く手応えがないし、そんな雰囲気は微塵も感じられない。そもそも、
(ユーグって、妻乞いのルール知ってる、のかな…?)
彼のガランテは正統派から大きく外れていたし、「ヴィオレは無い」なんて直球で言うし―
「…」
(あ、ダメだ…)
思い出したらまた泣きそうになってきた。あれはやっぱり、どう考えても否定、拒絶の言葉だった。ユーグも、同じ振るにしても、もう少し言葉を選んでくれればいいのに。
(ああ、でも、そっか…)
そもそも、妻乞いは男性から女性へアプローチするもので、女性から「ヴィオレが欲しい」なんて、要求することはない。だから、ルールを先に破ったのは私で、彼だってどう返すかなんて考えられなかったはず。だからもう、直球の返事が返ってきたのも致し方ない。私の自業自得なのだから。
「…へこむ…」
このまま立ち止まってしまいたい気分なのに、目の前の彼は振り返りもせずに歩いていく。「来い」って言われたから、「行くぞ」って言われたから。そう言い訳して、歩みは止めない。ついていった先で、何が起こるのかはわからないけれど、このまま彼に置いていかれる恐怖に比べれは、何てことはない。
黙々と歩くユーグが不意に立ち止まった。看板を見上げた彼が入っていったのは、
「宝石商…?」
頭に疑問符を浮かべながら、彼の後を追って店の扉をくぐる。
「いらっしゃいませ。」
「…」
「…こんにちは。」
店の奥、カウンターから掛けられた店主の声に小さく返事を返す。無言のユーグは、迷い無い足取りでカウンターまで近づき、
「…紫水晶の装備はあるか?」
「直ぐにご用意出来るのは、指輪、もしくは石単体のみとなります。お時間を頂ければ、別の装備品に仕立て直すことも可能でございますが、いかが致しますか?」
「いや、いい。指輪をもらう。」
「かしこまりました。」
淡々と進む二人のやり取りを後ろから眺めながら、話の流れに胸がざわめいた。
指輪?私をわざわざ連れて来たってことは、私に?期待していいの?自意識過剰?自惚れが過ぎる?いやいや、でもでもという心の葛藤に翻弄されながらも、本当はわかっている事実。
(腕輪じゃなくて指輪、だもんね…)
こちらの世界では、指輪は装飾品ではなく装備品、「お守り」としての意味合いが強い。ユーグのような傭兵や冒険者達が装備する「付与効果」のあるものから、気休め程度の子ども用の厄除けまで、わりにポピュラーな装備品だったりする。
そのため、「愛の告白に指輪を贈る」という風習も無く、「婚約指輪」も「結婚指輪」も存在しないこの世界。そうした愛の贈り物として一般的なのは腕輪の方で、だから、「指輪を貰えるかも?」なんて、私が胸をときめかしてしまうのは、前世の憧れに引っ張られている、それだけのこと。
「…手を出せ。」
「あ!はい!」
だから―
ユーグの声に、つい、左手を差し出してしまったことにも、
―サイズ的に選ばれた―薬指にユーグが指輪をはめてくれたことにも、
そこに意味なんて、無い―
「動くな。」
「…」
言われるまま、動きを止めた私の左手に手をかざすユーグ。ほんのりと感じる熱とともに、薬指の宝石に浮かんだのは小さな花の意匠。この時期、ハルハテの街や広場で、何度も目にしている紫の花を模した―
「ヴィオレ…」
「代わりだ。」
そう言ったっきり、続く言葉の無いユーグを見上げる。
「あ、ありがとうございます!大事にします!」
代わりだと言ってくれた。ヴィオレの「花」の代わり。彼の少ない言葉から、それが意味することを必死に考えて辿り着いた結論、胸が破裂しそうなくらいの「嬉しい」があふれてくる。
「…」
ユーグが、小さく頷いてくれたように見えた。店の外へと足を向けた彼の後を追う。
説明の少ない急展開、自分の置かれた状態に、不安はある。それでも、それを遥かに上回る喜びに包まれて、貰った指輪に誓う。
―病めるときも、健やかなる時も
ついていこう、この背中に。
立ち止まり、振り向いて、こちらを見つめるこの瞳が、私を映してくれる限り。
1-8
小さな誓いをそっとたてたそれからは、もう、怒涛のような流れだった―
宝石商を出たその足で、「戻る」というユーグの話を良く聞けば、どうやら戻るのはハルハテの宿屋ではなく、彼の活動拠点の街へということらしい。慌てて時間を貰って広場へ引き返し、キアラやアル達にその場で別れを告げた。必死に引き留める彼らを、「必ず手紙を書くから」、「村にも一度は帰るから」と説得し、振り払うようにして置いてきたことは、今でも少し性急過ぎたと後悔している。
置いていかれたく、なかったのだ―
多分、私のプロポーズは受け入れて貰えて、多分、私達は既に夫婦、なのだろうけれど。
前世と違い、婚姻届が存在するわけでもないこの世界。ユーグに結婚式を挙げるつもりがあるのかはわからないけれど、現状、私の立場は未だフワフワとしたまま。目を離せば、歩みを止めれば、途端、彼は私の前から姿を消してしまうのではないかと思っている。
「…」
そんな私の不安を助長する要因はもう一つ。既に何夜かを宿の部屋で共にしたにも関わらず、私達の仲は清いまま。
彼は、私に指一本触れずにいる―
「あの、ユーグ?」
「…」
彼が貸し切ってくれた御者つきの幌馬車の荷台。硬い板の上に寝転んだ彼の横に座ったまま声をかけてみるが、彼からの返事はない。
(これは、本当に寝てる?)
ここまでの道すがらにわかったことは、彼は思っていた以上に口数が少なく、そして、よく眠るということ。宿でも幌馬車の中でも、時間があれば直ぐに眠ってしまうユーグ。彼の短い覚醒時間の合間をぬって、何とか繋いだ少ない会話。その中で、私自身のことはいくらか伝えることは出来たけれど、彼から貰った言葉はごくわずか。彼を「ユーグ」と呼ぶことと、丁寧な言葉遣いを止められた以外には、彼からの要求も情報も何もなし。
それでは流石に不安だったので、何とか聞き出した情報を繋ぎ合わせると、彼は「フォルト」という―聞いた限りでは、対魔物戦線における要塞都市と思われる―街に拠点を置いて傭兵業をしているらしい。そして私達は、今まさにその街を目指して旅をしている最中。一番気になっていた彼の家族へのご挨拶は、彼には血縁者がいないということで、特にすることも無し。
(…ただ、フォルトって、聞いたことすら無いんだよね…)
初めて耳にした街の名に、故郷との距離を感じながら、ふと視線を上げると、
「!」
「…」
パチリと合った視線、それだけで顔に朱が上るのを自覚する。
「…ユーグ、起きてたんだ。」
「…」
「あ、えっと、体、痛くない?大丈夫?」
「…いや。」
「…」
この旅路で何度目かになる台詞をまた口にしてしまった。ユーグの返事も同じ。しつこかったかもしれないと気づいて、紫紺からそっと目をそらす。
幌馬車に乗る度に、私の座るスペースに緩衝材となるような布地を敷き詰めて、自分は直接板材の上に寝転がってしまうユーグ。
(痛いと、思うんだけどなぁ…)
馬車が進むのは整地された道だけではない。クッションを貰って座っている私でもお尻が痛くなるくらいなのだから、ユーグへの衝撃は相当なはずなのに、彼は気にした様子もなく眠り続ける。
(ユーグって優しい、よね。)
馬車のことだけではなく、一緒に過ごした僅かな時間だけでも見つけてしまった彼の優しさ。彼は本当に、必要最低限のことしか喋らない。多分、私が居なければ、一日中黙ったまま―もしくは眠ったまま―なのではないだろうか。それにも関わらず、既に一週間も前になるあの日、突然、テンパりながら話しかけて来た私に、ユーグは返事をくれた。内心はともかく、嫌悪も退屈も見せずに。
そうやって、一瞬で過ぎてしまったあの日からの日々、小さな発見を繰り返す内に、私の彼への想いは、多分、もう、引き返せないところまで来てしまっている。
(…ユーグに捨てられたら、私、生きていけるかな?)
ゆっくりと戻した視線の先、こちらを見つめたままのユーグの瞳に聞きたくなってしまう。
「ユーグは…」
「…」
―どうして、私を連れていってくれるの?
―どうして、私に優しくしてくれるの?
聞きたいけれど、欲しい答え以外は聞きたくない。飲み込んだ疑問の代わりに、別の言葉を口にした。
「あ、えっと、フォルトってどんなところなの?」
「…」
「どれくらいで着く予定?」
「…」
「あ!え?」
答えの代わりに伸びてきたのは彼の大きな手。
「わぁ!」
「…」
掴まえられて、ひき倒されて、思わず可愛くない悲鳴が口からもれた。
「え?なに?ユーグ??」
「…」
何が起きているのかがわからなくて、ユーグの名を呼ぶ。寝転んだままのユーグを下敷きに、抱き締められているのはわかるんだけど、
(え!?え!?なにっ!?何で!?)
彼の突然の行動の意味がわからずに動けなくなる。頭の上から、彼の吐息に近い声が降ってきた。
「…日が落ちる前には着く。」
「っ!」
背筋が、ゾクリとした。
思わず身体が震えたことに、多分、ユーグも気がついている。滾る頭で、彼の言葉の意味を考えて、それが先ほどの私の質問に対する答えだと理解するけれど、こちらはそれどころではない。
「…着くまで、寝ていろ。」
「わ、わかった!」
頬に当たる、厚い胸板。伝わるユーグの匂いと熱に、頭がクラクラする。おまけに、腰にガッチリ回されている彼の左腕、これを意識しながら眠ることなんて絶対に無理。わかっていても―
「っ!」
きつく目を閉じて、息を詰める。下手に動くと変な声を出してしまいそうだから、身を固めて、
(…って、え!?あ!待って!日が落ちる前!?日が落ちる前って言った!?)
先ほど目にした外の景色を思い出す。まだまだ天高くにあった日の光。日没までの時間の長さに、軽く目眩を覚えた。
1-9
ガッチガチに固まったまま過ごした数時間、不意に、馬車の揺れが止まった。
「…」
「…ユーグ?」
抱えた私ごと上体を起こしたユーグを見上げれば、あまりの距離の近さに全力で目をそらしてしまう。彼が立ち上がろうとしていることに気がついて、急いで身を起こそうとしたのだけれど、
「ご、ごめん!」
「…」
思いっきりふらついてしまった身体は、ユーグに難なく受け止められた。今度はソロソロと身を離しながら、幌の外をうかがう。
「着いたの?ここがフォルト?」
「…」
幌の向こう、見えたのは、どこまでも続く、高く長い城壁―
ユーグに支えられながら降りた幌馬車。馬首を返して去っていくその背を見送って、ユーグと二人並んで歩き出す。そびえ立つ壁沿いに整備された街道、右手には鬱蒼と繁る森が広がっている。
(…これが、「魔の森」)
人の手の及ばない深い森。国内にいくつかある魔物の生息地を「魔の森」と呼ぶけれど、実際目にしたのは初めて。外から眺めるだけでも、何やら漂ってくる異様さに気圧されて、思わずユーグの上着の裾を掴んだ。
ユーグが何も言わないのをいいことに、裾を捕まえたまま暫く歩けば、見えてきたのは巨大な門。街への入口であろうそこには、何度か目にしたことのある制服を着た見張りが立っていた。
(王国騎士団…。そっか、魔物と戦うのがユーグ達、傭兵だけってことはないよね。)
王都から騎士団も派遣されているということは、やはりフォルトは、対魔物戦略において最重要都市の一つなのだと納得して、近づく騎士達、その制服を眺める。
(濃紺に黄色のラインか。どこの団だろう?黒に赤のラインは、第一騎士団だって、ホルスが散々、騒いでたけど…)
ツラツラとそんなことを思い出して、気がついた―
「っ!?」
「…」
思わず立ち止まってしまったせいで、服を引っ張られたユーグも足を止めた。向けられた眼差しに、血の気がひいていく。
(どうしよう?どうしよう?忘れてた、完全に!)
だけど、そんなこと、言い訳にもならない―
(どうしよう、最低だ。ちゃんと言わなきゃ。でも、言って嫌われたら、…恐い。でも、言わなきゃ、もっと最低っ!)
「ユ、ユーグ、ごめんなさい!私っ!」
「…」
「あなたに言ってなかったことがあって!態とじゃないの!完全に忘れてて、でも、」
「…」
静かに見下ろす視線が恐くて、下を向く。
「わ、私、以前、婚約してたことがあって。それで、振られたというか、破談になっちゃって、今はもう、全然関係ない、んだけど…」
「…」
ホルスとの婚約解消について、私に非があったとは思っていない。村のみんなだって、そう思ってくれていたはずだ。だけどこの世界、婚約までいった相手と別れるというのは十分に忌避される可能性のある過去。何も知らない人達から、嫌な言葉ではあるけれど、「傷物」と呼ばれてしまうくらいには。だから、
「ごめ、ごめんなさい。あなたに、最初に言うべきだった。」
「…」
プロポーズする前、自分の想いを告げる前に。
それを、今更。ここでこんなことを言い出すなんて、後出しも後出し、騙されたと怒られても仕方ない卑怯な行為だ。それを自覚して、顔を上げられないままでいると、
「…」
「!…ユーグ?」
大きな手が、頭にのせられた。そのままクシャリと髪をかきあげられて、伏せた顔を持ち上げられた。
「…」
「えっと…?」
見下ろしていたのは感情の読めない、いつも通りのユーグの瞳。そのまま、何もなかったようにまた歩き出したユーグに慌てる。追い付いて、並んで、その横顔をこっそり眺めて見ても、やっぱり、彼が何を思っているのか分からない。
(…でも、怒ってはない、ってことだよね?)
頭、撫でられたし、隣を歩いても何も言われないし。
「…」
「…」
結局、ずっと黙ったままのユーグに自然と緊張は解けていき、二人並んで門をくぐる頃には、この先の、初めて目にする町への期待に胸も膨み、気分はすっかり上向きになっていた。
そして、くぐった門の先、
「っ!?」
目の前に広がる夕暮れの町並みに、思わず息を飲んだ―
(世紀末!世紀末感が、半端ない!)
日が落ちてきたとはいえ、まだまだ夕刻といえる時間帯。にも関わらず、そこかしこの店先で酒宴を繰り広げている厳つい男達の姿。派手な彩飾を施された酒場や食堂の軒先には、既に出来上がってしまっている酔っ払い達が酒瓶を片手に転がっている。
(ガラ悪すぎー!)
人も獣人も、人種など関係なく、酒をあおり、大声を上げ、ゲラゲラと笑い転げている姿に、先ほど離してしまったユーグの上着の裾を握り直した。と、同時に-
「っ!?」
突然、横から聞こえたガラスの割れるような音。音と共に酒場のドアから取っ組み合った男達が転がり出てきた。
(いやいやいやいや、仮にも国の要所、要塞都市の大通りだよ!?)
そのまま殴り合いを始めた男達から、慌てて距離をとる。恐いのは、そんな喧騒に隣を歩くユーグが全く反応を示さないということ。
(ま、まさか、これが日常?)
彼らの喧嘩を止める人も現れない街の治安に大いなる不安を抱いて、裾を握る手に力がこもる。
(犯罪率高そう、恐い恐い恐い!)
堪えきれずに、ユーグへと身を寄せる。
大通りから外れ、細い道へと入ったユーグが幾つかの角を曲がったところで、路地の奥、小さな明かりが灯された三階建ての建物が見えてきた。軒先にぶら下がるシンプルな看板には、
(「月兎亭」?)
足を止めることなく、その可愛い名前のお店の扉を押し開けたユーグ。そっと、彼の背後から覗いた室内。一斉に向けられた視線、その先はユーグ、ではなく、こちらを向いていた―
1-10
うん、わかってたー
建物の外まで響き渡っていた喧騒から、この中も、大通りで目にしたアレらと大差ないんだろうってことは。
「…」
「…」
(痛い、痛いよ視線が…)
ユーグにくっついて―飲み屋か食堂らしき―店の奥へと進む。食べ物とアルコール、それから客の体臭らしきものが入り交じり、なかなかハードな有香空間。だけど、先ほど聞こえていた喧騒は嘘のように消え失せて、静まり返った店の中、意識のある者全ての視線が、ユーグ、もしくは私に向けられている。
(恐いー!)
チラチラと視界の端に入る人達は、この街に入ってから目にした人達のご多分に漏れず、厳つく、荒々しい肉体を惜しげもなく晒している。そんな彼らの周りには、チラホラとではあるが、かなり際どい、扇情的な女性達がへばりついていて、もちろん、そんな彼女達の視線も、もれなくこちらに釘付けだ。
「…トキ。」
ユーグが、店の奥のカウンター、そこに立っていたマスターらしき人物の名を呼んだ。
「お帰り、ユーグ。」
優しい声音。この空間に何とも不似合いなその声に、視線を上げれば、
(垂れ耳!?ウサギ!ロップイヤー!?)
一つ結びにした明るい茶髪の上でフワフワな薄茶の耳を揺らす、柔和な笑顔のイケメンに見下ろされていた。
「…こいつに、飯。」
「ユーグは?」
「寝る。」
(え!?え!?)
クァッと欠伸をしたユーグはそのままこちらに背を向けて、店の入口近くにあった階段へと向かっていく。
(ま、待って待って!これは、この状況は、どうすれば!?)
盛大に焦るこちらの心中などお構いなしのユーグ。結局、呼び止めることもできずにその背中を見送って、ソロリと視線を向ければ、トキと呼ばれていたウサミミのお兄さんがヤレヤレと言わんばかりにため息をついた。
「全く、この状況で丸投げされても困るんだけど…」
「!?」
同じようなことを考えて、けれどウサミミさんにとっては、迷惑をかけているのは私なので、
「すみません!」
勢いよく頭を下げた。
「ああ、ゴメンゴメン。謝らなくていいよ。どう考えても、君のせいじゃないからね。」
「…」
「…とりあえず、奥に行こうか?」
促されて、カウンターの横、カーテンで仕切られた奥のスペースに案内されて、再び息をのんだ。
(こ、れは…)
今、通過してきた店の中が、「荒くれ者達の集う酒場」風だったのに対し、こちらの奥まった部屋はどう見ても街のギャングやらマフィアやらが根城にして、ビリヤードやらダーツでもして遊んでいそうな雰囲気、一瞬、この世界に存在しないはずの緑色の台や黒赤白の盤が見えた気がした―
「…?どうかした?」
「あ、いえ…」
こちらを気にかけてくれるお兄さんに強ばる笑顔を返して、室内に視線をさ迷わせる。
(う、わぁ…)
部屋の中央にデンとおかれた立派なソファは、非合法な組織のドンとかボスとか呼ばれる人がふんぞり返っていそう。あ、左右に侍らす美女の姿も見えた気がする。ソファの前に置かれた年期の入ったテーブルにはそこかしこに斬りつけられたような傷が走っていて、ここでいったいどんなお料理ショーが行われたのかが非常に気になるところ―
「お腹は減ってる?」
「いえ、そこまでは…」
「そう?じゃあ、何か軽いもの作ってくるから、そこに座って待っててくれるかな?」
「はい…」
物腰柔らかにそう言ってくれたウサミミさんに逆らえるはずもなく、誘われるようにして、腰をおろした。
ドン・ソファに。
(硬い。思ったより硬い。そしてデカイ。)
深く腰かけてしまうと足がつかずに子どものようにブラブラしてしまうため、ソファの端っこに浅く腰かけ直して周囲を観察する。
(…よく見れば、お洒落な隠れ家的バー?に見えなくはない?あ、あっちにもソファがある。)
窓の無い薄暗い部屋。扉や間仕切りがあるわけではないから、食堂の喧騒―いつの間にか復活していた―も聞こえてくるが、所謂VIPルームのようなこの部屋に一人でいるのも落ち着かない。
前世でこそ、テレビや映画で見たことがある雰囲気だけれど、ど田舎でノホホンと生きてきた今世では全く無縁の場所。前世の記憶が無ければ、裸足で逃げ出していたかもしれない。
そうやって、キョロキョロ、ソワソワしている内に、両手にお皿を 持ったトキさんが戻ってきて、
「お待たせ、こんなものしか用意出来なかったけど。」
「いえ、あの、美味しそうです!ありがとうございます!」
目の前に置かれた美味しそうなスープとパスタの皿に、失せていたはずの食欲が戻ってきた。
「うん、じゃあ、食べながらでいいんだけどね?」
「はい。」
「君が誰で、とか。ユーグがどうして君を連れてきたのかとか、その辺を話して貰えるかな?」
「はい!」
自分でも、上手く説明できる自信のない事態。だから、とにかく、返事だけでも気合を入れた。
1-11
「あの、私、クロエと言います。ハルバナル地方の村出身で…」
まずは自己紹介から、と名前を告げて頭を小さく下げる。告げた出身地に、トキさんが首をかしげた。
「ハルバナル…、ハルハテとか、あの辺?」
「はい。ハルハテよりもっと田舎の、本当に小さな村なんですけど。」
頭の中で地図でも描いているのか、難しい顔をして考え込んでしまったトキさんを横目に、スープに口をつけた。
(美味しい…)
出された食事に舌鼓を打つ私を暫く眺めていたトキさんが、再び口を開いた。
「それで、君とユーグの関係は?何故、ユーグが君をここに連れて来たか、わかる?」
「ここに来た理由、は正確には分かってないんですけど、えっと、ユーグとの関係は…」
自信がなくて、口にするには最大限の勇気を必要とするその単語を、どうにか音にして吐き出す。
「夫婦、です。…多分。」
「…」
「…」
痛いくらいの沈黙。
食堂から聞こえてくる喧騒はBGMにもなってくれない。張り詰めた空気に変な汗が流れ始めた。
「…」
(見られてる見られてる!視線が痛い!)
「…」
(疑われてる?疑われてるよね?当然だよね!私だって、疑ってるくらいだから!)
それでも―
「…嘘ではないんですよ?…多分。」
自信は無くても、少なくとも、私の中では一応、そういうことになっているから。うん、嘘はついてない。
私の消極的自己弁護に、トキさんが小さく息を吐いた。
「ごめん、疑ってるわけではないよ。うん、まぁ、その可能性はあるかもしれないとは思ったし…」
「?」
トキさんの視線が、じっとコチラを見つめている。
「ただ、流石に突然過ぎて驚いてはいるけれど。…ユーグとは、ハルハテ、妻乞いで出会った、ってことでいいのかな?」
「!そ、そうです!妻乞い、ご存知だったんですね!」
「うん。まぁ、聞き齧ったくらいだけどね…」
そうしてまた考え込む様子を見せたトキさんの横で食事の手を再開する。
(ハルバナルからこんな離れた場所で妻乞いが有名ってことは無いだろうし、それこそ、ハルバナル出身の知り合いがいたりするのかな?)
お互い黙り込んだ空間で、黙々と食事を続け、
「…ご馳走さまでした。あの、トキ、さん?」
「ん?」
「えっと、トキさんとユーグは、お友達?なんですか?」
「ああ…」
難しい顔をしていたトキさんの顔が少しだけ和らいだ。
「まあ、友人でもあるんだけど。…ユーグの仕事は聞いてる?」
「はい。傭兵をやっているって聞きました…」
「うん、そうだね。ただ、もっと正確に言うと、」
トキさんの顔に小さな苦笑が浮かんで、
「俺たちは『鉄の牙』っていう傭兵団をやってて、俺が副団長、ユーグが団長なんだ。」
「!?」
「聞いてなかった?」
「…」
言葉が出てこず、コクコクと何度も頷いた。
ユーグの雰囲気から、勝手に一匹狼、一人で生きている人だと思っていたのに、まさかまさか、仲間、団を率いているなんて。しかも、この街の雰囲気から察するに、その「仲間」の人達はきっと―
「まあ、団と言っても、うちは個人主義な奴らばかりで、比較的緩い集まりではあるんだよ?」
「団長が何も言わずに何日も街を離れるくらいだから」と笑うトキさんには悪いが、追従の笑いさえ浮かんでこない。反応の悪い私を心配しているのだろう。トキさんの口からは傭兵団の説明が続いて、
「団長だからって、特に何ってわけでもないし、俺の副団長なんて肩書きもほとんど形だけ。ここでマスターやってる時間の方がよっぽど長いくらいなんだ。」
「…」
「団の連中も、好きな時にフラッと顔見せて好きにしてくだけだから、気にする必要もないし。」
「…ここ…、このお店に?」
「うん、そうだよ。この店は団員の溜まり場になってて、まあ、一応は団の拠点でもあるかな?」
「…」
死んだ―
一縷の望みとして、軍隊のように統率された団員、基地のような場所を想像してみたのだけれど、それも儚い夢と散り。
つまり、食堂にいる―蠱惑的な肢体のお姉さん達は分からないけれど―筋肉で出来た彼らの、少なくとも何人かはユーグの仲間で、ユーグ本人はVIPなこの部屋のトップ。私が座るこの場所で、左右に美女を侍らせて手下達を睥睨するボスー
(あ。滅茶苦茶似合う…)
想像上のユーグが、悪どい笑みを浮かべている。
彼が口角を上げるところなんて見たことないけれど、でも、絶対似合う。悪どい笑いも、酷薄な笑みも。
「あと、一応、この月兎は俺の店ではあるんだけど、ユーグはここの三階に住んでるんだよね。」
天井を指差してそう言うトキさん。「俺は他に家があって、そっちに住んでるから」という彼の言葉に、尋ねてみる。
「…私もここに住んでいい、ってことなんでしょうか?」
「勿論いいよ。夫婦、なんでしょう?大丈夫。狭いけど、浴室もついてるから、好きに使ってね?」
有難い言葉にお礼を言う。ただ、一つだけ不安があるとすれば、その部屋は一室だけなんだろうかということ。ユーグと同部屋。確かに、既に夫婦だし、今までも宿の部屋は同じだったわけだから、何の問題も無い。無いはずなのに不安なのは、
(今まで、なんっにも手出しされてないからね!)
だから、期待と緊張と不安と、やっぱり期待でいっぱいいっぱいになりながら、「今後の話は追い追いね」と言うトキさんに「お休みなさい」を言って、三階への階段を上がった。
上がった先、そこにあった扉は一つ、開けてみれば、ぶち抜きの一部屋と、恐らく浴室と洗面やトイレに続く扉があるのみ。そして部屋のど真ん中には大きなベッドが一つ鎮座していて、見回してみても他にベッドは見当たらない。そして、その唯一のベッドには当然―
(ユーグ…、本当に寝てる。)
唯一と言ってもキングサイズくらいはあるベッド、ユーグが寝ていても余裕があるし、二人で横になっても未だ余るくらい。それに、ここに来るまでの道中、ツインの部屋がとれなかった時は、同じベッドで二人で寝ていたから、本当、今更、今更なんだけど。
「…」
(逆に、逆にね?だからこそ今日はって、ちょっとは、ちょっとだけは期待してたのに…)
今日こそは、ユーグの家に着いたんだし、部屋もベッドも一つ、だったら、ね?あるかも?って思うわけじゃない?
「…寝よう。」
結局、泣き寝入り。ユーグを起こしてみる勇気もなく、有難くお湯を浴びてから、肌着のまま、ユーグの隣に大人しく潜り込んだ。
1-12 Side T
―鉄の団長が連れ帰ったあの女は何者だ
好奇心と不安と嫉妬。しかし、そのいずれも元凶である男本人に向けることは出来ず、それら全てをこちらへと向けてくる奴らの追求をのらりくらりとかわして、閉店時間と共に全員を店の外に叩き出した。空いた皿の片付けに手をのばして暫く、階上から降りてくる慣れ親しんだ気配に顔を上げた。
「…」
「…何か飲む?」
黙ってカウンターに腰をおろした男の前に、男が好んで口にする蒸留酒の杯を出す。カラリと氷を鳴らして男がグラスを傾けた。
「…ユーグ、一体、なに考えてるの?」
「…」
尋ねてみるも、案の定、男からの返事はない。己の思いや考えを滅多に語らない男の意を汲むのは自身の役割だと割りきってはいるものの、所詮は違う生き物。何もかも、全て読めるわけではないのだから、最低限の言葉は欲しい。
それでも、男の妻だと名乗った彼女からの情報に、うっすらと見えるものはある。
「…ダグのため?」
「…」
自分で口にした名に、胸に小さく痛みが走った。
今は亡き己の師。目の前の男の養い親。浮かぶ姿は、未だ、過去にはならない―
「…本当に、そうなんだとしても。タイミングが悪すぎる。」
「…」
「こんな時期に連れてくるなんて。」
自衛の手段さえ持たない、この街で生き抜くにはあまりに脆弱な身体。店の男達に脅え、己の―見せかけの―優しさに惑わされるような、そんな女性。
「ユーグ、あの子を抱いてないでしょう?」
「…」
妻だと名乗り、男のニオイを身に纏う。しかし、注意して見れば、それは表層のみのこと、
「一応、匂いづけはしてるみたいだけど、気づく奴は気づくよ。」
「…」
それが、彼女を守るための、男なりの手段なのだろうとは思うけれど。抱くことさえしない女を、そこまでして側に置く必要などあるのだろうか。
「…あの子にとって、ここが生きづらい場所だってのはわかってるでしょ?」
故人の遺志を慮ったのだとしても、互いの不幸しか呼ばないような関係。不安定であやふやな。それは、この街では命取りになる―
「帰してやる、つもりはないの?」
「…選んだのは、…選ぶのは、あいつだ。」
言って、杯を煽った男に嘆息する。これ以上、言葉を重ねても無駄だと分かってしまって、だとしたら、明らかにユーグを慕っているらしき彼女を、今後自分がフォローしていくしかないのだろう。
一つ、諦めの息を吐いて、切り替える。
「…明日、ギルドの方に顔出して来てね。」
「ああ…」
連絡無しの団長不在、溜まった仕事くらいは振らせてもらうから―
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