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第二章 嫁入りと恋の季節
2-1
顔に差す光に、徐々に意識が覚醒する。馴染みのない寝具の感触に、眠気が一瞬で吹き飛んだ。
「っ!」
(…どこだっけ?)
見回してみるも、覚えのない部屋に暫し戸惑う。飾り気のない部屋、壁紙無しのむき出しの木の壁に何も敷かれていない木の床、家具と言えば、今、自分が寝転がっている巨大サイズのベッドぐらいのもので―
(あ、そうか。ユーグの部屋。)
昨日の夜、ここに確かにあった彼の姿、それが今はどこにも見当たらなくて不安になる。慌てて昨日脱ぎ捨てた服を身にまとい、髪もとかしたところで、少し、冷静になってきた。ならざるを得なかったというか、
「…私、臭いかも。」
正確に言えば、臭いのは私自身ではなく、着ているワンピースが、なのだけど、匂うことにかわりはない。一応、ハルハテで一泊するつもりで肌着くらいは肩掛け鞄に詰め込んで来ていたけれど、それ以外の替えは一切持っていない。着たきりのワンピースを洗濯できたのも、道中一度きりで、「服屋に寄りたい」とユーグに言い出す勇気が持てなくて、結局、ここまで来てしまった。
「…服、買わないと。」
ひょっとしたら、他にも必要なものがあるかもしれない。男の人の一人暮らしに飛び込んだのが、前世合わせても初めてだから、何が有って何が無いのかもわからない。一応、鞄の中に全財産―と言っても、貨幣としての私の財産なんてたかが知れているけれど―入っているので、当面は何とかなるはず。
「よし…」
することができて、どうにか気持ちを前向きに切り替えることができた。
部屋を出て階段を下りる。二階を通りすぎて一階まで階段を降りた先、見えた食堂は昨夜目にした姿よりは幾分か健全さを取り戻していて、そのことに少しホッとした。
朝早い時間のためか、店内に客の姿はなく、開け放たれた窓とドア。清掃のためか、椅子が卓上に上げられていて、昨夜のむせ返るような匂いもほとんど消えかけている。
(…ということは、逆に私の臭さはバレるんじゃ?)
別の不安は芽生えたけれど、それを解決するためにも、避けられない接触。カウンターを拭き上げているトキさんに、乙女的にギリギリ、絶妙な距離を保って声をかけた。
「おはようございます。」
「おはよう…」
にこやかに挨拶を返してくれたトキさんだけど、その視線が私を値踏み?確認?するように見つめてきて、
「?あの?トキさん?」
「ああ、ごめん。起きるの早いね?長旅で疲れてるんじゃない?」
「ありがとうございます。疲れはもう全然ないので、大丈夫です。…あの、ユーグは?」
「仕事で出掛けてるよ。どうしても団長が必要な仕事っていうのがあって、ユーグが暫く街をあけてたから、ね?…何か食べる?」
「あ、今は…」
(緊張で胸がいっぱい。お腹が空かない。)
気を遣ってくれるトキさんの言葉に首を振る。
「あの、トキさん、この辺に洋服屋さんってありますか?」
「洋服?」
「はい。私、服とか全く持って来ていなくて。まあ、服以外もなんですけど。とりあえず、着替えが欲しいなぁ、と…」
「ああ、なるほど。」
そう言ったトキさんの視線が、私の身体にサッと走るのがわかった。全く不快さのない、本当に確認しただけ、という感じの。だけど、こちらは今、乙女的にナーバスになっているので、疑心暗鬼になってしまう。
(もしかして、この距離でも臭う?臭い?ひょっとして、獣人の人って、人間より嗅覚がいいとか!?)
気持ち、ジリッと後退した。それに気づいたかどうかはわからないけれど、トキさんが困ったように眉根を下げて、
「確かに、服は無いと困るよね。ユーグはそういうこと気にしないし、何の準備もさせずに連れてきたんでしょう?」
「いえいえ、いいんです!それは、本当に!」
逃がすまいと前のめり気味にユーグについてきたのは私の方なので。
「うーん、でも、君を外に出すのには、今はちょっと問題があるんだよね。」
「問題、ですか?」
「…クロエは、『獣人』について、どれくらい知ってる?」
「えっと、実は、ほとんど…というか、全く知りません。」
前世の知識にある想像上の生き物としての獣人は知っている。けれど、この世界における「獣人」に関する知識はほぼ皆無。「獣人」という種族がいる、という話を聞いたことはあったけれど、ユーグに出会うまで実際に目にしたことは無かった。テレビも新聞も無い小さな村で、獣人に関する情報に触れることもなく、だから、
「すみません、もっと勉強しておけば良かったです。」
「謝るようなことではないから、それはいいんだけど。君がこれからユーグと…この街で暮らしていくつもりなら、ある程度、獣人に関する知識は必要だと思うよ。」
「はい…」
「まぁ、ユーグじゃその辺り頼りにならないからね。何かあれば俺に聞いてくれればいいよ。俺も、君に伝えておいた方が良いって思ったら、話をする。」
「ありがとうございます!」
「うん。じゃあ、まず、初めに知っておいて欲しいのは、この街の住民は半数以上が獣人だってこと。」
「あ!それは何となく。昨日、街を歩いてて、結構、見かけたので。」
「…嫌じゃない?」
「え?」
「嫌悪とか、感じなかった?」
「…獣人の方に対してってことですか?」
トキさんが頷いた。ぼかしてはいるけれど、この聞き方は、多分、人種の違いに対する差別とか拒絶とかそういうことなんだろうと思う。私が知らないだけで、この世界にもそういうものがあるのかもしれない。
「嫌悪、は無いです。正直、ちょっと恐かったりはしましたけど、それって別に獣人の人がっていうより、この街の人が、こう、全般的に…」
正直な思いを吐露すれば、トキさんが軽く笑う。
「うん、愚問だったね。ユーグを選んだくらいなんだから、獣人が嫌ってことはないか。あれ?でも、ユーグは恐くなかったの?」
「…緊張、はしました。あと、無視されたり、拒否されたりしたら恐い、とは思いましたけど…」
「なるほど…」
「まぁ、街の皆さんが恐いっていうのも、失礼な話ですよね。話したこともない相手を見た目で勝手に判断して、」
「いや。」
言いかけた言葉を遮られた。
「この街で暮らしてくなら、その『恐い』っていう感覚は大事にして。」
「…」
「もう気づいてるとは思うけど、ここはそんなにお上品な街じゃない。暴力沙汰なんて日常茶飯事だし、犯罪まがいの事件も多いからね。昼はともかく夜なんて、女性や子どもは絶対に一人歩きをしない。」
トキさんの淡々とした忠告にコクコク頷いた。
「ごめんね、脅すようなことを言っちゃったけど、本当は、まあ、日のある内の一人歩きくらいは大丈夫なんだよ。本来なら、ね?」
「本来、ですか?」
「そう、通常の時期なら。だけど今、この季節は、さっきも言った『問題』っていうのがあってね。」
苦笑するトキさんの言葉を待てば、
「今、この季節は、獣人にとっては繁殖期の始まり、発情の季節なんだ。」
「っ!?」
いっそ、清々しいほどの爽やかさで、当の獣人であるトキさんがそんなことを言うから。
上手い返しの言葉も見つからずに、ただ、あっという間に顔に上っていく熱を強く意識した―
2-2
「まぁ、そういうわけで、中には自分の性欲一つまともに制御出来ずに、女性を襲う馬鹿がいてね?」
「…」
「乱暴を働いて、本能だからで許されると思ってるクズどもなんて、徹底的に潰すしかないんだけど。」
突然、吐き捨てるように辛辣な言葉を使い出したトキさん。その迫力に、ただただ、首を上下に振って同意を示す。
「潰しても潰しても、毎年、懲りずに湧いてきやがる…」
「…」
何かを思い出しているのか、トキさんの眉間にシワが寄り、舌打ちしそうな勢い。物腰の柔らかさに忘れそうになっていたけれど、彼だって、この荒事の多そうな街で傭兵―しかも副団長―を務めているような人なのだ。小さく、身体が震えた。
「それで、暫くは…そうだね、あと一月くらいの間は、一人での外出は控えて欲しいっていう話なんだけど。」
「はい!わかりました!」
十分過ぎる脅しに、「否」と言えるはずもなく、全力で了解する。
「うん。服は俺が買ってくるからさ。君はここで留守番しててくれる?」
「…私も一緒について行く、というのは…?」
「うーん、ごめん。自分で選びたいだろうけど、君を連れていくと、どうしても時間がかかるんだよね。今日は時間が無いから、一人で行ってくるよ。」
「ですよね―。」
服はお任せで構わないのだけれど、今聞いた話から、ここに一人残されていくことに、ちょっぴり、いや、かなりビビっているだけだ。ここは団の溜まり場ということだが、いきなり荒くれどもが入ってきたら、私は一体どうすれば―
「…護衛ってほどのものじゃないけど、一緒に留守番出来るやつを置いていくから、安心して。」
こちらの不安を汲み取ってくれたのか、そう口にしたトキさんが、VIPルーム―奥の部屋―へと消えていく。暫くして、再び姿を現した彼の後ろには、
「っ!」
(デカい!!)
2メートル近い長身に、筋肉鎧を纏った男が、のっそりとついてくる。頭には安定の獣耳。
(熊?熊かな?)
推定、熊獣人、ただし、可愛らしく蜂蜜をなめて満足しているタイプには見えない。アラスカ辺りに生息して、パニック映画の主演をはれそうな威圧感を放っている。目の前に立たれると思いっきり見上げなければならないほどの体格差。彼の掌の一撫でで、私の首なんてコロンともげるんじゃなかろうか。
「ボルド、彼女がクロエ。ユーグの奥さんだよ。」
「!」
新たな登場人物に気を取られていたところに、トキさんの口からサラッと「奥さん」という言葉が出てきた。メチャクチャ照れる。ボルドと呼ばれた男が素直に頷くから、余計に。
「クロエ、こっちは、うちの団員のボルド。まだ若いけど、腕っぷしの強さは保証する。」
「あ、はい!…よろしく、ね?」
「…」
躊躇いがちの挨拶には、これまた無言の頷きが返ってきた。
「うん、じゃあ、ちょっと行ってくるから。ボルド、彼女を頼んだよ。」
「わかった…」
ボルドに私を託したトキさんが颯爽と店を出ていけば、後に残されたのは熊さんと私。
(き、気まずい!)
昨夜も同じ気分を味わったが、昨日は気配り上手なトキさんがなんやかんやと話の水を向けてくれた。しかし、今、隣にいる彼に、愛想というものはこれっぽっちも期待できそうにない。だから、小心者の私は、沈黙が恐くて言葉を探すしかない。
「…えっと、ボルド、は、ここで何してたの?」
「…飯を、食ってた。」
「ああ、なるほど。」
店はまだ営業時間外のようだが、団の拠点ということだから、食事を出して貰えるのだろう。それ以上、話題を膨らませきれなくて、他に何か話題をと探して店を見回して見れば、
「ボルド、お店の掃除用具がどこにあるか知ってる?」
「…」
目についたのは、まだ掃除前らしい床の散らかり具合。トキさんには私のせいで時間を取らせているから、せめて掃除でもして待っていようと思い立った。勿論、手持ち無沙汰だったとか、掃除に熱中している振りすれば、ボルドとの会話が弾まなくても何とかなるんじゃ、という下心ありだ。
ボルドが黙ってカウンターの奥に移動するのについていく。カウンターの奥から取り出された箒に礼を言い、店の奥から掃除を開始した。無心に手を動かしながら、それでも完全な沈黙には耐えきれず、ボルドと、ポツリポツリと言葉を交わす。
「トキさんは最寄りの商店街に出掛けたのだと思われる。」「帰るまで少なくとも一時間はかかるだろう。」「傭兵団の若手はお店でご飯を食べさせて貰えるから、朝ごはんを食べていた。」などなど。
ボルドとユーグ達の関係性も、獣人がどういうものなのかも理解していない現状、下手に突っ込んだ会話はできない。当たり障りのないこちらの質問に、ボルドが短く返事を返す。そうして時間が過ぎる内に、店の入り口に、突然、訪問者が現れた。
「…」
「…」
昨夜、店に溢れ返っていた漢達の一人だろうか。私の存在を認めて凝視する男と見つめ合う。何も言わない男、襲われる気配は感じないけれど恐いものは恐い。大人しく護衛の背後へと身を隠す。男の視線がボルドに向けられ、
「…副団長は?」
「出かけてる。」
「わかった。」
そう言って、しごくあっさりと店を出ていった男に安堵する。やれやれとボルドの背後から脱け出したところで、頭上からの視線を感じた。
「…あんたが、脅える必要はない。」
「え?」
「あんたは団長のものだ。誰もあんたに手を出さない。」
どうやら私はビビり過ぎだったらしい。安心させてくれようとしているのだろう、ボルドの言葉に小さく笑う。
「あー、ありがとう。その、さっきトキさんに、忠告受けてたから、構え過ぎちゃったみたい。」
「団長のものに手を出すのは、馬鹿な奴か、団長の強さを知らない余所者だけだ。」
「そんなやつはここには来ない」というボルドの言葉は信じられるのだけど、
「うん。でも、私がユーグと結婚してることを知らない団の人はいっぱいいるでしょう?」
ユーグはそういうことを喧伝しそうにないし、昨日の今日で団全体に私の存在が周知されているとも思えない。だから、一応、自衛は大事だと思っているのだが、
「知らなくても、わかる。」
「え??」
ボルドの言葉の意味がわからずに聞き返した。
「あんたは、団長の『ニオイ』がする。」
「は!?」
「獣人なら、あんたが団長のものだって、すぐにわかる。」
「待って待って待って!」
淡々と告げられた言葉に、冷や汗が流れる。
(匂い?何それ?移り香ってこと?)
自分では全然わからない。いや、でも、前世の怪しい知識から引っ張り出した可能性を考えると、
(え?ひょっとして、獣人って人より嗅覚が鋭いとか?そういう?)
「っ!」
思い当たったそれに盛大に焦り出す。じゃあ、じゃあ、ユーグの匂いどうのこうの前に、服も洗ってないような私は、
「臭い っ!?もしかして、私、臭い!?」
「臭くはない。団長のニオイがするだけだ。」
と言われても、全然安心できない。ユーグの移り香がわからない私でさえ、時折鼻を掠める自分の服の匂いには気づいている。これはボルドなりの優しさだろうかとその顔色をうかがえば、目を細めた彼と視線があって、
「団長は強い。世界一。」
「え?あ、うん?」
「団長に勝てるやつは、一人もいない。だから、大丈夫だ。」
突然のユーグ賛美。しかも、心持ちウキウキしている様子のボルド。私の曖昧な相づちにも嬉しそうに目を細める。
「俺も、あんたを守るから、もっと大丈夫だ。」
「え?」
「俺は、団長みたいに頭は良くないけど、団長のものだから、俺はあんたを守る。」
「…」
ユーグって頭いいんだーとか、部下に慕われてるんだなーとか。思うことは色々あれど、ボルドのこの無邪気とも言えるもの言いに、先程までは尋ねることを躊躇していた疑問を口にした。
「あのさ、」
「?」
「ボルドって、何歳なの?」
見た目だけなら、二十代後半。だけど、同じくそれくらいに見えるトキさんが「若い」と彼を評していたから、それよりは年下のはず。自分より少し上、それくらいかと当たりをつけていたのだけれど、
「十五。」
「え!?」
失礼なくらいの勢いで聞き返してしまった。
「十五歳なの!?」
「ああ。」
「!!」
なんと、まさかのミドルティーン。思わず、マジマジと見つめてしまった。ごめん。
だけど現金なもので、恐いと思っていた相手が自分より五歳も年下で、その上、自分の夫に心から心酔しているらしいということに、彼への警戒心があっという間に溶けていく。あまつさえ、―動機は何であれ―守ると言ってくれた相手に脅え続けられるほど私の警戒心は強くない。
「えっと、ボルド、ありがとう。その、改めて、よろしくね?」
「ああ。」
笑っているのか。目を細めた彼の表情は、意識して見れば、なるほど、やはり年相応の無邪気さを…、…いや、やっぱ、十五には見えんかった。ごめん。
2-3
「ユーグが連れてきた女ってのは、あんた!?」
「!?」
(ビッ、クリしたぁー…)
開け放しにしてあったドアから、極彩色の色とともに飛び込んできた声。現れた三人組の女性は、酒場でよく目にする華美なドレスを身に纏い、真っ直ぐにこちらを見つめていた。
(違います、は通じない、よね…)
濃いめの化粧に、美しい顔立ち。女の私でも感嘆してしまうほど魅惑的なメリハリのあるスタイル。三者三様の美女達は、だけど、明らかな敵意を含んだ眼差しで、怒りに胸をそらしている。お近づきにはなりたくない。例え、頭上に魅力的な獣耳がついていようともー
「あの、」
「ハッ!信じられない!ユーグがこんなの選ぶなんて!」
「何で、あんた程度の女がユーグの隣に居られると思うわけ?消えなさいよ、今すぐ!」
「…」
穏便に帰ってもらおうという私の思惑は、一瞬で消し飛んだ。
まあ、彼女達の言わんとすることはわかる。彼女達がユーグを好きなのかどうかはともかく、ユーグみたいな極上男子の隣に、私みたいな普通女子は我慢できない、ということだろう。お見合いパーティーなら、周囲をざわつかせるカップリングなのは間違いない。だけど、
「消えませんので、お帰り下さい。」
「なっ!?」
「はぁ!?あんた、誰にもの言ってるかわかってんの!?」
「…」
直ぐにマウントとってくる女は嫌いだ。名乗りもしない相手が誰かなんて、わかるわけない。
私とユーグが釣り合わないのなんて、百も承知。わかっていて、今、ここに居るんだから、部外者にどうのと言われる謂れはない。ユーグでなければ、ユーグに言われない限りは、私は彼から離れない。離れられない。
「あなた達には関係ないことなので、お引き取り下さい」
「っ!?人間が!調子にのるんじゃないわよ!」
「番でもないメスが!偉そうに!」
「…」
吐かれた台詞に気になる単語を拾ったけれど、あえて沈黙で返答する。口で言っても通じない相手に、これ以上、何を言っても仕方ない。言うことがなくなれば、彼女達も出ていくしかないだろう。流石に手を出してくることは無い、と思いたい。あったら、ボルドに守ってもらう。気持ちボルドの方へ身を寄せたところで、ボルドが私を庇おうと口を開き、
「…クロエは団長のものだ、」
「発情期も未だのガキは黙ってなさいよ!」
「!!」
一瞬で、黙らされた。
十五歳になんてこと言うんだと思った口撃が、再びこちらを向く。
「発情期の性欲処理道具が何を勘違いしてるのか知らないけど?さっさと身をひいた方が、あなたのためよ?」
「今までにも勘違いした女が何人も居たけど、結局、全員消えて、二度と現れなかったわ!」
それは、あなた方のせいでは?とも思ったけど、沈黙を貫いた。苛立ったらしい女性達の一人が、こちらに歩み寄って来ようとしたところで、
「…デリア?あなた達、こんなところまで押し掛けて何してるの?」
「マ、マリーヌさん!」
また、一人、麗しい女性が現れた。先に現れた三人と同じような出で立ちだけど、艶やかな黒髪を下ろし、潤んだような翡翠の瞳、薄く施してある化粧に至っては「そんなもの必要無いんじゃ?」ってくらい美しく整った顔立ち。
(これは…)
他の三人とは決定的に、格が違う―
所作なのか、オーラなのか。クルリと回した日傘を畳んで店の中に入ってきた彼女に、店内の空気が変わる。
(な、なんか、良い匂いまでしてきた気が…)
今も絶賛、自分の体臭が気になる系女子としては、完全な敗北。尻尾を巻いて逃げ出したい。
「…こんにちは?」
「は、はい!こんにちは!」
甘やかな声で挨拶されて、条件反射で返した。美女がニッコリ笑って、
「ごめんなさいね?うちの娘達が。ユーグが女性を連れてきたなんて初めてで、頭に血が上っちゃったみたい。」
「あ、いえ…」
「いきなり押し掛けて、…嫌な思い、されたんじゃない?」
「えっと、まぁ、でも、大したことは。」
心底、申し訳なさそうに言う美女に、慌ててそう返せば、
「後でしっかり言っておくから、許して頂ける?」
「はあ、まあ、それは。」
実害は無いので、とモゾモゾ答えた。
「良かった。…お名前を聞いてもいいかしら?」
「あ、クロエと言います。」
「そう、クロエさん。私はマリーヌよ。中央通りでお店をしているんだけれど…」
親しげな笑顔とは裏腹に、彼女の口から、「是非遊びに来て」なんて社交辞令が続かないことに、何となくどんな「お店」なのかを想像してしまう。
「…それじゃあ、お邪魔して本当にごめんなさいね。そろそろ失礼するわ。」
そう言って、すっかり大人しくなってしまった三人組を連れて店を出ていこうとする彼女が、最後、振り返って―
「…ユーグにも、よろしく伝えてね?また、いつでもいらして下さいって。」
2-4
「…」
「…」
「…ボルド、マリーヌさんのお店って、…何のお店?」
「…」
「…なるほど?」
十五歳には、もしくは「妻」という存在には言えないお店、という解釈でよさそうだ。必死に目を合わすまいとするボルドの分かりやす過ぎる態度に、逆に確信してしまった。
(まあ、薄々はね…?)
彼女達の装い、発言の内容、私に対する敵意からも、そういう「女」を匂わすものはあったから。でもだとしたら、
(マリーヌ、そうっとう、イイ性格してるよね!?)
こちらに友好的な態度を見せていたから、コロッと騙されて、油断しきっていた。それを、最後にあの発言。あんなの、あんなの―
「滅茶苦茶気になるー!!『また』って何!?『また』って!?」
「クロエ、マリーヌのあれは、その、仕事で、」
「いやー!!ボルド!言わないで!言っちゃダメ!聞きたくない!ぜーったい、聞きたくないから!!」
「…」
地団駄を踏む五歳も年上の女をどうしていいのかわからず、オロオロするボルドには悪いが、もう、ほんっとう、無理なのだ。
(ムカムカする!イライラする!)
それは、ユーグだって立派な成人男子なのだ。しかも、世界一のイケメン。女が放っておくはずがない。今まで付き合った女なんて星の数ほど居るに決まってる。そういう意味で言えば、マリーヌ達は未だ、個人的なお付き合いではない分、少しはマシ、…マシ、なはずー
(あ、駄目だ…)
ドロドロしたものが込み上げてくる。吐きそうだ。ユーグに愛され、ユーグに大切にされた誰か。そんな人がもし目の前に現れたら、正気じゃいられなくなる。
(って、思っちゃう時点で、もう、結構、ヤバいかも…)
考えて、落ち込んだ。
ユーグの過去、彼が何を思い、何を選択して、何をして生きてきたのか。そんなの、ユーグの勝手じゃないか。そういうの全部の積み重ねで出来上がったユーグに、私はあの瞬間一目惚れしたのだから。彼の過去に勝手に嫉妬して落ち込むなんて、本当、本当、間違ってる。
(そうだよ。私だって、形だけとは言え婚約してた過去があるんだし。)
しかもそれを伝え忘れていた私を、ユーグはあんなに優しく許してくれたじゃないか。
「…ごめんね、ボルド。掃除、続きしよ?」
「…」
箒を掴んだ手を必死に動かす。
考えてしまわないように。考えても答えなんて出ない、ただ、落ち込むだけだとわかっているから。だから、今は何も考えない。これ以上は、もう何もー
「っ!やっぱ、無理ー!!」
「ク、クロエ!?」
(無理だよ無理!そんなの絶対無理!ムカつく!嫉妬する!ドロッドロだよ!)
「っ、だ、だって、私っ…」
(ユーグと、何もしてないー!!)
「クロエ、床、汚い。立って…」
(そうだよ!エ、エッチとか、その前に、キス、キスすらしてないし!!)
そんなの、過去の女に嫉妬しまくり、羨ましくてしょうがないに決まってる。だからせめて、手を出してくれないのなら、別の何かで彼の気持ちを知りたい。せめてー
「クロエ、手。」
「好きって言って!!」
ボルドの言葉に叫んだ私の声が重なって、目の前の大きな手が固まった。「あ、ごめん」とボルドに謝ろうとしたところで聞こえた、二つの声。
「え?何なの、この状況。」
「ボルド、お前、団長の女、護衛してたんじゃねぇーの?」
いぶかしむような、からかうような二人組の登場に、ノロノロと身体を起こして立ち向かう。どうやら、今日は千客万来らしい。
2-5
「はーん?じゃあ、本当にあんたが、団長の番なんだ。」
「番じゃないよ、ガット。ただの奥さん。」
「あー?んー?あ?確かに?何か違うな?は?何で、団長が番でもない女と結婚なんてするわけ?」
「そんなの、俺の方が知りたいくらい。」
突然、店に現れた獣人二人組は、ガットとルナールだと名乗った。ボルドによると、彼らは同じ傭兵団の仲間で、それぞれ猫と狐の獣人らしい。確かに、見た目十七、八の男の子の頭でピコピコ動く耳は大変可愛らしいのだが、
(何だろう。発言が可愛くない。)
ついでに言うと、勝手知ったる感じでVIPルームに侵入してふんぞり返る十代少年の姿も、ふてぶてしくて可愛くない。
「ねぇ、あんたさぁ…」
狐獣人のルナールのこちらを見る目が、スッと細まって、
「どうやって団長に取り入ったの?」
「取り入るって…」
「だってさぁ、変でしょ。あの団長がいきなり女連れてきて、しかも、結婚?」
「あり得ない」と鼻で笑うルナールの瞳孔が開いていく。
「一体さぁ、どんな汚い手、使ったわけ?泣き落とし?団長の優しさにつけこんだ?」
「…」
威圧、されているのがわかるくらいの痛い沈黙の中で、ボルドがそっと身を寄せてくれた。律儀な十五歳は、この状況でも「護衛」を続けてくれるらしい。
「…えっと、一つ、いや、二つだけ、先に聞きたいことがあるんだけど、聞いてもいい?」
「なに?俺の質問には答える気はないって?」
「ううん。そうじゃなくて、先に確かめておかないと、その、つけこむ?とかが、よくわからないというか…」
「まあ、いいけど。」
「後で絶対、俺の質問にも答えろ」というルナールに頷いて、感じていた疑問を口にする。
「…あの、ユーグってさ、その、女の人、彼女とか、あんまり連れてきたりしないの?」
「はぁーっ!?」
何言ってんだコイツ、みたいな声を上げたのはガット、そのままの表情で睨んでくるから腰が引けたが、
(いや、だって、気になるじゃない!)
女性関係において、「あの団長が」とか、「あり得ない」とか言われたら、「あれ?じゃあ、ひょっとして私は特別?」なんて、少し、本当に、少しくらいは、ちょっとは自惚れてもー
「…言っとくけど、団長はモテるからね。」
「あ、はい。」
そうですよね。自分から行く必要の無いくらいモテるから、今まで誰も連れて来なかっただけですよね。
(…ん?あれ、じゃあ、やっぱり、何で私?)
ハルハテでたまたま出会ったのが私で、タイミングが良かったから、というのが最有力ではあるけれど、
「…あの、じゃあ、もう一つ。…『番』って何ですか?」
「はー?マジで?マジで言ってんの?お前?」
「番の存在も知らずに、よく獣人と結婚しようなんて思えたよね。」
「あ、はい。」
すみません。呆れられ、説教口調になった年下男子に、心の中で謝った。
「番っつーのはさ、『魂の半身』ってやつで、獣人にとっての唯一なわけ。」
「…ほほう?」
なかなかロマンチックな響きのガットの説明ではあったけれど、申し訳ないことに、いまいち良くわからなかった。
「…獣人は自分の伴侶を本能で見つけるんだよ、それが番。番が見つかるまでは普通に恋愛も結婚もするけど、番が見つかれば、番一筋になる。」
「…え?」
「だぁかぁらー、番がいれば、他の女なんて必要ねぇーし、もう、番以外、勃たなくなるっつーか、反応しなくなるっつーか。」
「それって…」
言われた言葉に、じわりと、番というものの恐ろしさを理解していく。
「つまり、あんたが本当に団長の奥さんだろうと何だろうと、団長に番が現れれば、あんたはお払い箱ってこと。」
「番いたら、意味ねぇーしな。」
「…」
「そんなことも知らずに団長に取り入るとか、本当、あんたって…」
続く言葉は、痛いほど身に染みた。
(番…。ユーグは、何で言ってくれなかったんだろう。)
一瞬、そう考えて、
「あ。」
「…んだよ?」
思い出した。
(そうだ、ユーグは、伝えようとしてくれてた。)
彼は、言っていた、「自分は獣人だ」と。その言葉を、そのままの意味でしかとらえられなかったのは私で、獣人と人間の違い、番や発情期の存在なんかも、きっと、獣人にとっては当たり前のことでー
(…本当だ、私、馬鹿だ。)
情けなくて、込み上げそうになるものを、必死でのみこむ。ここで泣くのは違う。恥ずかしい。格好悪い。だから、上向きの、まだ頑張れそうな何か、悪あがきの希望を見つけたくて、
「…私が、ユーグの番っていう可能性は、」
「無いな。」
「無ぇーよ。」
「あ、はい。」
ワンチャン、本気で信じてみたかった可能性は一瞬で叩き潰された。
「あのさ?お前、獣人の本能なめてんの?」
「いや、そういうわけでは。ただ、私、人間だから。本能?的にって言うのがわからなくて。」
「…匂い、かな。」
「え?」
「人間の感覚に一番近いのは、匂い。獣人は皆、匂いに敏感だから、匂いに惹き付けられて番を見つける。わかるんだよ、『コレが番だ』ってのが。」
「それは…」
確かに、人間の私にはわからない感覚かもと落ち込みかけて、
「番だけじゃないよ。匂いで個人を特定することも出来る。」
恐ろしいことを言い出したルナールに、ジリッと彼から距離をとる。
「…何?」
「いえ。…続けて下さい。」
「…あんたのソレも。」
「えっ!?」
どれ!?
(やっぱり臭い!?もう、いやー!)
メンタルボロボロのところに、「こいつ臭い」とか言われたら、本当もう、どうやって立ち直れば良いのよ、と別の意味で泣きそうになっていたら、
「…あんたには、団長の『匂い』がついてる。だから、獣人であればあんたが団長のものだってのがわかるんだよ。」
「あ!」
漸く、合点が言って、ボルドを振り返る。
「…」
無言で頷くボルドが、先ほど話してくれたのはどうやらそういうことだったらしい。決して、私が臭いわけでは、
「まぁ、一応ってくらいで、ほとんど団長の匂いはしねぇーけどな。」
「本当。これで本当、結婚してんの?ってくらい。」
「…」
一々、抉ってくる子達に唇を噛む。
「だから、そういうこと。あんたがもし団長の番だとしたら、そんなうっすい匂いで済むはず無いんだよ。」
「あー確かになぁー。番見つけた最初の発情期はやべぇからなぁ。」
「そう。発情期にあんたがこの場でヘラヘラしてる時点で、あんたは団長の番じゃない。」
「発情期…」
そうか、そう言えばそんなものも、というか、今まさにその時期だと言われていたのを思い出して、凹む。
(…ユーグは、多分、いや、まあ、うん、確実に『そんな気分じゃない』って感じ。)
更に凹んだ。
「トキさんの時はヤバかったもんなー。」
「兎は、繁殖欲強いからね。」
「にしても、一ヶ月籠りっぱはヤバいだろ?俺、トキさんの番、マジで死んだと思ったわ。」
「トキさんは独占欲も強いから。俺、まだトキさんの番に会ったことないし。」
「今も、閉じ込めてんだろうなぁ…」
「…」
凹んでるのに。
凹む私の横で不穏な話題で盛り上がる青少年に、ちょっと、仲間内の話を赤裸々に語らないで欲しいと思う。トキさんのそんな情報、本当、知りたくなかった。
2-6
「あー、にしても、腹へった。てか、トキさんは何でいねぇの?」
「買い物。」
ガットの問いかけに一言で返すボルド。「私の服を買いに行ってくれているのだ」と伝えると、
「え?いつから行ってんのそれ?いつ帰ってくんの?」
「俺らの飯は?」と悲鳴を上げるガットの代わりに、ボルドに尋ねる。
「私は聞いてないんだけど、ボルドは?何か聞いてる?」
「…買い物のついでに、家の様子を見てくる、と。」
「あー。」
「あー。」
見事なユニゾンで何かを諦めた二人。その何かに、先ほどの会話から予想はついたから、ここは黙っておく。
「仕方ねぇなぁー。何か、勝手にあさって食うかー。」
「…俺、肉。」
「え?勝手にいいの?」
VIPルームを抜け出し、お店のカウンターの中へ入っていく二人。慌ててボルドに確かめれば、トキさん不在時には自分達で食事を済ますこともあるらしい。
(…とは言っても。)
「あ。あった、何か肉の塊。」
「それ、そのまま食えるやつ?」
「いや。何か、汁に浸ってる。」
「っ!?待って待って待ってー!」
明らかに下拵え済みの、明らかに生食には向かないお肉をそのまま頂いてしまおうとする二人を、必死に止める。
(ヤンチャが過ぎる!)
勝手にお店のキッチンを漁るのは気が引けるが、腹減り男子達をこのまま野放しにするのは危険だと判断し、ここは私がと調理をかってでた。
(私と、ボルドの昼食も一緒に作っちゃえばいいしね。)
ついでに、胃袋を掴む的な意味で、ユーグの仲間である彼らに取り入ろうという作戦でもある。
「…それ、何作ってんの?」
「『カルボナーラ』」
「…肉じゃねぇし。」
文句ばかり言う肉食系男子の声は無視だ。腹減りの空腹を満たす量をかせげ、おまけに失敗が少ない、コスパ最高の、前世の「花嫁修行」の成果をとくと味わえ。
「…ベーコンは、厚めにしとくから。」
「大盛りな。」
注文の多いガットに頷いて、切ったベーコンを炙っていく。手元を覗き込む視線を感じていると、
「…で、結局、あんたはどうやって団長に取り入ったの。」
忘れていた。
そう言えば、スタートはその話だったと思い出し、調理の手は止めないままに、言葉を探す。
「取り入ったというか、さっきの、ユーグがモテる話とか、番の話とか聞いて、余計に、私も何でだろうって思ってて。」
「…どういう意味?」
「うーん。…ハルハテって町、知ってる?」
「知んねぇー。」
興味も無さそうなガットの言葉に、だろうなと思う。この辺りでは、多分、名前も知られていないくらいに遠い。
「私の故郷の近くの町なんだけど、その辺りの風習で、集団でお見合いをするの。」
「お見合い…?」
「そう。」
そのお見合いが一種独特で、その中にあってもユーグはオンリーワンな異彩を放っていたことは、黙っておく。
「で、まあ、そこで一番格好良かったユーグに私が一目惚れして、結婚を申し込んだら、何故かオーケーが貰えて。」
「何で貰えんだよ。」
「ね?」
私も不思議だ、というか奇跡だと思っているけど、嘘ではない。その証拠に、
「じゃーん。」
「…なに?」
鬱陶しそうな視線の前に、左手を掲げて見せる。薬指にはまる指輪を見せつけるようにして、
「結婚の記念に、ユーグに貰いました。」
「…指輪を?」
「え?ショボくね?」
「ちょっと!?」
確かに、こちらの感覚では、大振りの石がついた腕輪やネックレスを贈る方が一般的だが、「本来貰う花の替わりだ」と主張すれば、何となくは理解してくれたようで、今度は興味深げに指輪にはまる紫水晶をのぞき込んでくる。
「で、何の付与がついてんだ?」
「石が小さいからな。…物理防御と魔法防御、一回か二回きりの使い捨てみたいなもんだね。」
「え?そんなのついてるの?」
確かに、ユーグがヴィオレの花を刻む時に、石に何かをしていたのは見たけれど。
(…ちゃんと、付与効果も付けてくれてたんだ。)
急ごしらえの代替品のはずの指輪にそこまでして貰えたことが嬉しくて、顔がだらしなく弛む。ヘラヘラ笑いながら、出来上がったパスタの山を盛り付けようとしていた時、三人の視線が一斉に店の入り口を向いた。
「あ、団長。」
「お帰りなさーいっす。」
2-7
(…どうして、こんなことに…)
後悔というものは、いつでも後からやってくる。その言葉を噛み締めながら、目の前のカウンター、新妻の手作りカルボナーラを口へと運ぶユーグを見つめる。
(…初手料理、もっと、気合い入れたもの食べて欲しかった。せめて、もうちょっとまともに作ってたら…)
お腹に入れば何でもいい十代の胃袋を掴むために作った効率重視の手抜きカルボナーラではなく、生地から作る生麺パスタ、イベリコ豚の無添加ベーコンを使ってー
(もう、明らかにベーコンの厚みがおかしいし。)
それは、私の包丁捌きの問題ではなく、あなたの左右を陣取ってキャッキャしてる狐と猫のリクエストですからねと、心の中で言い訳だけはしておく。
「…ボルド、私達も食べよっか?」
「…」
軽く洗い物を済ませていた私に付き合って、未だ食事にありつけていなかったボルドと二人、カウンターに並んで座る。
(いいよ、いいよ。ボルドがそっちに座りな。)
カウンターの中から、ユーグをチラチラ気にしていたボルド。少しでも彼に近い席が良いだろうと、彼の巨体をユーグ達の方へ押しやる。
(まぁ、間にルナールが居るけどね。)
ユーグには一歩も近づかせまいという意思を感じる二人の布陣だけれど、ユーグを慕っているのは間違いなく、先ほどまでの私へのツンが嘘のようにはしゃいでいる。
(…こうしてじゃれてるのを見る分には、目の保養なんだけどなぁ。)
ガットもルナールも、成長途中の線の細さはあるけれど、ヤンチャ系の整った顔立ちをしている。前世基準ではド派手に見えるガットのツンツン赤髪もルナールの金髪も、こちらでは割とスタンダード、その上のケモ耳オプションを考えれば、女の子にもかなりモテるはず。
『鉄の牙』の入団条件には「※但し、イケメンに限る」があるのか、と考えて、ハッとした。ハッとして、
(っ!ごめん、ボルド!『でも、ボルドが居たな』って、ハッとしてごめん!!)
隣で黙々とパスタの山を消費する男の子に心の中で手を合わせ、
「ボルド、お代わりする?」
「…」
空きそうになっていたお皿に、そう尋ねれば、ボルドはコクリと頷いて残りを食べきった。差し出されたお皿を受け取り、キッチンへと回る。
よそったお代わりの山を、また黙々と消費し始めたボルドを眺めながら、言い訳を続けてみる。
(…いや、実際、ボルドみたいなタイプの方が、結婚相手としては好かれるから。木訥と優しい熊さんとか、モテモテよ?)
前世、シレッと結婚を決めていった周囲の男達を思い出す。お見合い相手としても、中々に競争率の高かったタイプ。結婚に安定と安心を求める以上は、そうなってしまうんだろう。
(…それでいうと、この中で一番、結婚に向かないのってユーグなんじゃ…)
寡黙なアウトロー。家族なんて必要としない雰囲気バリバリの一匹狼が、何故か自分の旦那さん。何度も不思議に思うし、何度も奇跡に感謝する。
思わずうっとりしそうになる視線を慌てて剥がし、残り三人を見回した。
(お代わり、お代わりはいらんかねー。)
彼らのお皿の減りを目視で巡回していたら、ボルドの手元に視線を惹き付けられた。四人並ぶ中でも一番大きな身体。大きな手に握られたフォークが、オモチャみたいに小さく見えて、
(可愛いなー。)
なんて、眺めていたらー
「っ!?」
「!!」
背筋に走った悪寒、同時に、椅子の倒れる音、ユーグの左右で立ち上がった二人、カウンターを飛び越えた巨体が目の前に立ち塞がりー
緊迫した空気、立ち塞がるボルドの背は私を守ってくれているんだろう。椅子を倒して立ち上がったガットとルナールの視線は店の入口、手にはいつの間にか大型ナイフと剣を握り、油断なく身構えたまま。ユーグだけは、変わらぬ体勢で、平然とカップの水を飲み干している。
(…息が、苦しい。)
呼吸音さえも許されないような静寂の中、店の扉が小さく音を立てて開きー
「…これは、一体、何事?」
「え?あれ?トキさん」
「ええぇっ!?」
現れた人物の姿に、一気に二人組の緊張が溶けた。ボルドも漸く身じろぎして、
(っ!よ、良かったー。)
この一瞬で何が起こっていたのかは、全く分からない。でも、多分、問題は無かったか、無くなったらしい気配に、今さらながら変な汗が噴き出してきた。
緊張を弛めた広い背中から顔を覗かせれば、店の入口に立ったトキさんが、大きな荷物を抱えたまま、ユーグを見ている。
(ん?)
よく見れば、全員の視線がユーグを向いていて、
「ユーグ?今のはやっぱり、君の殺気?」
(殺気?)
「見たとこ、何も問題はないようだけど。…何かあったの?」
最後の一言は、何も言わないユーグではなく、周囲の私達へ向けられたもの。そもそも何が起きていたのかもよくわからない私は首を振るしかなく、残り三人も、困ったようにユーグを見るだけ。
結局、諦めたようにトキさんがため息をついて、
「ユーグ、むやみに殺気なんて飛ばさないでよ。ただでさえ、この子らは君の気配に敏感なんだから。」
「…寝る。」
(えーっ!?)
「まったく…」
やれやれって感じのトキさんを放って、本当に階段を上って行こうとするユーグ、一段目で足を止めて、ジッとこちらを見てくるから、魔が差した。
「…美味しかった?カルボナーラ…」
「…ああ。」
「!」
(っやったー!!)
脳内ファンファーレが鳴り響く中、階段を上って行くユーグの後ろ姿を見送る。振り向いて、ドヤ顔のまま残ったみんなを見まわしたら、ガットとルナールには嫌そうな顔をされて、ボルドはうんうんって頷いてくれた。
2-8 Side T
「…それで、本当に何があったの?」
こちらの問いかけに、4人が一斉に首を横に振る。その力の抜ける光景に、もう何度目になるかわかならいため息を飲み込んだ。
「…あのね、ユーグが町中で殺気立つなんて滅多に無いことでしょう?機嫌が悪かったにしても、店の外にいた俺にまで感知出来るってのは相当だよ?」
「て、言われても。俺らもマジでわかんねぇんすよ。」
「団長が急に殺気立って、俺たちが気づけなかった奇襲か何かかと思ったんですけど。」
「…店の周りに特に異常は無かった。…本当に心当たりは無いの?」
顔を見合わせる二人はおいて、留守番を任せていたクロエとボルドに視線を向けるが、
「…ごめんなさい。私は状況も良くわかってません。」
「…」
黙って首を振るボルドに、アプローチを変える。
「ユーグは、直前まで何してた?」
「…俺らと話しながら飯食ってたっす。」
「何の話?」
「えー、俺とルナールで行ったアックスゴアの討伐の話とか、『ゼファーの大盾』の奴らが最近調子乗ってるって話とか。」
「…あと、団長の奥さんがボルドに『好きだと言え』って迫ってた話ですね。」
「っ!?ちょっとーっ!!なに!?何を!?ユーグに何、言っちゃってくれてんの!?」
ルナールの言葉に大声を上げたクロエがこちらを振り向き、必死に弁解を始める。
「違う!違うんですよ!トキさん!ボルドに言ったんじゃなくって、」
「うん、まぁ、それは後で聞くとして。」
切り捨てれば、ショックで固まったクロエ。ただ、今は本当に、彼女のことは置いておくしかなくて、
「ユーグは?その話に何か反応したの?」
「全然。全く興味無しって感じでした。」
「だな。その後も普通に飯食ってたっす。」
「…じゃあ、それも違うんだね。」
「酷い…。なんか、もう、みんながまとめて酷い…」
文句をこぼし始めたクロエにも確かめる。
「クロエ、君は?何をしていた?」
「私?私は、ボルドのお替りよそいにキッチンに入って、みんなを眺めてて…」
記憶を辿るクロエにもやはり思い当たるものはないらしく、反応は芳しくない。
「うーん、ユーグが殺気?立った瞬間は、ボルドの方を見てて、いきなりゾワッっとして、バーン!だったから…」
「…ガットやルナールに虐められたりはしなかった?」
「虐められたりは…」
異常事態の可能性として、未だ扱いが不安定な存在の彼女が鍵かとも思ったが、
「えー!トキさん、俺らそんなことしないっすよ!」
「俺たち、かなり親切にしてましたよ。この人、獣人のこと何にも知らないみたいですからね。そりゃもう懇切丁寧に…」
「遠慮忌憚の無い親切だったけどね!」
じゃれ合い出した三人にこれ以上の追及は無理かと諦める。自身、感じた気配は一瞬で、判断の材料に乏しい。
(あれは殺気、というよりも警告、牽制に近かった気はするけど…)
原因不明のまま放置することに不安は残るが、危険性は低いと結論づけるしかない。内心、嘆息して、
「…お前達、彼女に昼ごはんまで作ってもらったんだろう?その態度はないんじゃないの?」
「飯っつっても、肉じゃなかったんすよ?」
「ベーコン入ってたでしょ!」
「あれは肉じゃない。」
言い合いを続ける三人は放置して、自分の定位置、キッチンへと入る。夜までに必要な店の仕込みを始めようとしたところでクロエが近寄って来た。
「…あの、着替えたら、手伝います。」
「そう?助かるよ。」
「はい。…洋服、ありがとうございました。」
頭を下げて、三階へ上がっていくクロエを見送る。彼女の足音が完全に遠ざかってから、途中だったらしい食事を再開した三人。食べ終わると同時に、ルナールが口を開いた。
「…トキさん、何で、あの女なんですか?」
「ルナール…」
「団長も趣味悪いって言うか、何で番でもないのに、あんな普通の女。」
昨日から、ことある事に聞かれる質問。それをユーグ本人でなく俺に尋ねてくるのも、他と変わらず。
「…何でと言われても、彼女を連れてきたのはユーグだからね。俺にだってわからない。」
「団長は…」
「ユーグからは何も聞いてないよ。」
「…」
確認した「予想」についても、結局、答えはもらえないままだ。ただ、黙り込んだルナールや不機嫌顔をさらすガットが、ユーグを案じているのだとわかっているから、
「…お前達が心配するようなことは何もないよ。」
「でも、じゃあ…」
何故?という最初の疑問に戻る堂々巡り。けれど、その答えがユーグの中にしかないのなら、自身の答えも自ずと出てくる。
「いいじゃない、クロエ。お前たちも仲良くなったんでしょう?」
「…やめて下さいよ。」
「仲良いとか、マジ無いっすから。」
「可愛いくて料理が出来る、あと、掃除もかな?」
店の様子に気づいて視線を向ければ、頷くボルド。
「いい奥さんになりそうじゃない。」
階段を降りてくる気配を感じながら、そう口にする。
「全っ然!トキさん、趣味悪いっすよ!」
「あれなら、まだ、アセナの方がよっぽどマシ。」
「お前達…」
ちょうど階段を降りきったクロエが、こちらを見つめたままカチリと足を止めた。
「…ちゃんと聞いてた?そういうわけで、俺はあんたを認めてないから。」
「だな。お前じゃ無理。」
捨て台詞のように言って店を出ていく二人をため息で見送る。
「…ごめんね、クロエ。あの二人は特に縄張り意識が強いから、新しい人間に慣れるのに時間がかかるんだ。」
「あー、はい、いえ、大丈夫ですよ。」
仕方ないと言ってフニャリと笑う彼女は、困ってはいるようだが、傷ついたり、嘆いたりする様子は見せない。
「…あの、ただ、トキさん?」
「なに?」
「ルナールが言ってた、『アセナ』さんっていうのは?」
「ああ。あの二人の幼馴染、みたいなものかな?今は町を出ているんだけど、ユーグをとても慕っていたから。」
「なるほど…」
うんうんと安堵をのぞかせて頷くクロエが、ポツリと漏らした言葉。
「…良かった、また、マリーヌさんのお店の人かと…」
厄介な人物の名前が聞こえて、彼女の護衛役を振り返る。
「…ボルド?」
「…」
「留守の間、他に何があった?」
「…」
「報告。全部、話せ。」
自身の都合で帰りが遅くなったのは事実。その間に起きた不都合は、予想を越える事態。ここ暫くはなかった類いの忙しさに、元凶である男の無頓着さを久しぶりに呪った。
2-9
(…トキさんはみんなのお母さ、…お兄さんって感じなのかな?)
夜の閉店時間までお店を手伝い、「後片付けはこっちでするから」というトキさんの言葉に甘えて三階への階段を上る。
店でお酒を飲んでいた人達は「鉄の牙」とは関係のない傭兵や街の人、おまけにそういう人たちの同伴者のお姉さん達がほとんどだったけれど、鉄の牙のメンバーだという人たちもチラホラとご飯を食べに来ていた。カウンターに陣取り、食事ついでにトキさんに仕事の相談をしていく人も多く、そういったメンバーにトキさんはかなり親身になってあげていた。中には彼より明らかに年上のメンバーもいたのだが、皆、気負いなく、トキさんに話をしていく。
(トキさんって頼りにされてるんだなぁ。)
副団長という職務柄もあるのだろう。けど、更に言えば、団長がユーグなのだ。ある意味、必然的にというやつなのかもしれない。
(ユーグ、本っ当に、全然、喋らないし。)
きっと必要に駆られればその限りではないんだとは思う。実際、ハルハラからここまでの道中は、もう少しユーグの声を聞いていた気がする。それが、この街に入ってからはYes/Noの返答だけて全てを済ませてしまっているんじゃないだろうか?そして、気が付いた。
(…今日とか、「寝る」と「ああ」しか聞いてない…)
あまりの事態に心臓がバクバクしてきた。
これが熟年夫婦なら、まだいいのかもしれない。けれど、曲がりなりにも新婚ホヤホヤ夫婦の会話が、果たしてそれでいいのか?いや良くない。反語気味に否定して、決意する。
(…よし!明日はせめてあと一言。「おはよう」くらいは!)
たどり着いた三階の部屋の扉をそっと開けた。部屋のど真ん中に鎮座するキングサイズのベットには、就寝中のユーグの姿。折角の安眠を妨げないよう、こそこそシャワーを浴びて寝支度を済ます。
(…寝てる、よね?)
ベットに入る前、こっそり顔を覗き込んで彼が寝ていることを確認し、そっとユーグの隣に転がった。
「…」
上掛けも使わず、片腕を枕に横向きに寝ているユーグ。自分用の上掛けを半分掛けて、彼の意識が無いのをいいことに、間近の尊顔を思う存分堪能する。
(…至福…)
閉じた瞼に昼間の眼光の鋭さがなくなって、少しだけ穏やかに見える寝顔。綺麗な鼻筋に、薄い唇、頬にも触れてみたくてたまらないのをグッと我慢する。ムズムズする指先を必死に抑えて、視線を下げた。
(あ、ヤバい…)
目の前の隆起した胸筋が、薄い肌着の下、呼吸に合わせて上下しているのが視界に入る。
(…どちらかというと身軽な感じだし、全身ムキムキって感じではないのに、でも、凄い、引き締まってる、よね…)
就寝前だというのに、眠れないほどに心臓がドキドキ、…興奮してきた。
(駄目だ、これじゃただのムッツリ。…寝よう。)
このままではいけないと、邪心を振り払うためにクルリとユーグに背を向ける。背後の存在をガンガンに意識しながら目を閉じた。何とか眠気を誘おうとしてみるけれど―
(駄目だ。目が冴えた。あれ?いっつも私、どうやって寝てるんだっけ。)
ユーグの隣でよくもグーグー寝れたな、自分。と思えば思うほど、今までどうやって寝ていたのかがわからなくなってくる。寝返りを打とうにも、それでユーグを起こしてしまいそうで動けない。ただ、モンモンとベットの上で固まっていると、
(ヒッ!?)
「…」
背後から近づいて来た熱に、背筋にゾクリと震えが走った。
(ユーグ!?起きてるの!?)
伸びてきた手に引き寄せられるようにして、二人の間の距離が無くなった。背中にピタリと寄り添う熱。ユーグに抱き締められている。
「…」
息を潜めて、次を待つ。回された腕の重さと温かさは心地いいけれど、彼の手が置かれた場所、自分のお腹が気になってしょうがない。
(プニプニ、そこはプニプニだから。)
緊張に身体が強ばる。でも、それ以上、ユーグは身動き一つしなくなったから、安堵半分残念半分。
(…これ、寝てるから無意識だろうけど、皆が言ってた『マーキング』ってやつ?かな?)
いつもはもっとあっさり眠りについてしまうし、朝起きた時には離れているから気がつかなかったけれど、ひょっとして、毎晩こうやって寝ていたのかもしれない。
私にうっすらついてるというユーグのニオイ。ユーグの奥さんである印を、無意識とはいえ、つけられるのは嬉しい。だけど―
(全然、全くもって、健康的。健全。)
抱き寄せるユーグの手に不埒さは欠片もなく。なんなら、私もユーグもバッチリ服を着こんだまま。発情期のパッションとやらを華麗にスルーしている。
(夫婦なんだから、もうちょっとこう…)
色気ある展開を想像して、一人、悶々とする。結局、寝るタイミングを完全に失った私が眠りについたのは矢明け直前、外が白み始めた頃。そのまま寝坊して、昨夜の決意、ユーグに「おはよう」を言うチャンスさえ失ってしまった。
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