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第三章 夏祭りと嫉妬する心
3-1
「トキさーん、皆のお昼用のお野菜どうします?何なら食べそうですか、あの子達。」
ユーグに悶々として眠れない数日を過ごした後、図太く熟睡出来るようになった一ヶ月弱を経て、無事、獣人の皆さんの発情期は終わりを迎えた。おかげで漸く町を安心して歩けるようになったのだけれど、私はまだ念のため、トキさんの買い出しに付き合うくらいのことしかしていない。
「うーん。野菜はねぇ。いまだに困るんだよなぁ。」
八百屋の前で悩むトキさんの、今日は荷物持ちとして出向いている。
「…よし、スープで飲み込ませる方向でいこう。」
「了解です。」
頷いて、スープの材料を購入する。受け取ろうとした商品は横からトキさんに奪われていった。
「…今日は私、荷物持ちに来てるんですよ?」
「うん。持てなくなったらお願いするね。」
「…了解です。」
甘やかされつつのお仕事ではあるが、少しずつこの町に慣れていけということなんだろうと思い、今はありがたく甘受させて頂いている。そのまま、今日の昼食のメインであるお肉を買いに肉屋へ向かう途中、トキさんが不意に足を止めた。
「トキさん?」
「あそこ。」
トキさんの促す視線の先、目に飛び込んで来た集団に良くわからないトキメキを覚えた。
(最っ高に、恰好いい!!そして震えるほど怖い!!)
鉄の牙の傭兵たち、団長のユーグを先頭に脇を固めるガットとルナール、背後にはボルドを従えて、道のど真ん中を肩で風切って歩く集団。周囲が自然に道を空けていく。
(どうみてもマフィアのボスです。本当に…)
心の中でお礼を言って、自分の旦那の男ぶりに惚れ惚れする。歩いてるだけで恰好いいとか。
「…トキさん、あれって、今日の、巡回?のお仕事中、なんですよね?」
一応、そう聞いているし、そう見えなくも無いけれど、確認したくなった。
「そうだよ。商店街の巡回警備。…いい抑止力になってるでしょう?」
「…ですね。」
それ以外、何と答えればいいのか。
街の警備は本来なら王国騎士団の仕事。ただ、犯罪率が他所より高い傾向にあるこの町では、騎士団だけでは手が足りない。そのため、ギルドからの依頼という形で、いくつかの傭兵団が持ち回りで街の警備も担当しているらしい。
去って行く彼らの背中を見送りながら、そう言えばと気づく。
「鉄の牙の皆は帯剣してない、ですよね?」
「うん?どうして?」
「この前のユーグ殺気事件の時なんですけど、ガットとルナールが気づいたら抜身の剣を構えてて。」
「ああ。」
「あれって、どこから出てきたのか…。魔剣とか、魔法具的なものですか?」
「うーん、あれはねぇ。」
少し考えたトキさんがニコリと笑って、
「クロエは、うちの団が獣人中心だってのは気づいてる?」
「あ、はい、それは。…お店に来る人達も獣人ばっかりですよね。」
「そう。うちの団名にある『牙』って言うのは、獣人そのものと獣人の持つ能力を意味してるんだ。」
「能力…」
所謂、スキルのようなものだろうかと考える。
「獣人はね、攻撃行動に入る時に『牙』という自身の武器を出現させることが出来る。」
「…」
「…こんな風にね。」
そう言ったトキさんの右手には、いつの間にか十五センチほどの太い針のようなものが握られていて、
「ホントは、こんなところで出すのはマズいんだけど。」
という言葉とともに、一瞬で消えてしまう。
「…ガット達の剣も、今のと同じ?」
「そう。牙はその獣人固有のものだから形は色々変わるけど、本人の得意な得物の形をとることが多いかな。」
「なるほど。」
また一つ、獣人について知らなかったことを知った。こんなことが、後どれくらいあるのだろうかと不安にも思うが、知らないものは仕方ない。学んでいくしかないんだからと、気になったことを聞いてみる。
「ユーグの牙はどんな牙なんですか?」
「…気になる?」
「はい。…て、え?トキさん?」
何の気なしの質問に、トキさんがそれはもう、こちらが怯えるくらいのステキな微笑みを浮かべていらっしゃる。
「獣人が牙を剥く時って言うのは、本来、攻撃態勢に入ってる時なんだ。つまり、相当、気が立ってるってこと。」
「…」
「ユーグみたいに力の強い獣人は特に、強い破壊衝動に襲われて我を失うことになるから、滅多なことじゃ牙を剥かない…」
スッと細められた瞳は、いつかの冷たさが生温く感じるほどで、
「…だから、気軽に『見せて』なんて頼んじゃ駄目だよ?」
「っ!はい!」
全力で頷いた。本気で怖かった。
ただ、ぶっとい釘は刺されてしまったけれど、それでもトキさんは最後に普通に笑って、「ユーグの牙は大剣だよ」と教えてくれた。
3-2
改めて買い出しを再開したところで、女性向けの服屋を見つけた。実はちょっと寄っていきたい、という私の邪な視線を感知したトキさんに、「俺が肉屋行ってる間に見ておいで」と優しい言葉で送り出され、再びそれに甘んじる。
(申し訳ない。けど、私は仕事着が欲しい。)
以前トキさんに買ってきてもらった服は大変可愛らしく、気に入っているのだが、可愛すぎるが故にお店での仕事着には向かない。装飾の無い服が欲しいと、既製服の並ぶ辺りをウロウロとしていたところで、その人達は現れた。
「何で、あんたがこんなとこに居るのよ。」
「…」
現れたのは、いつぞやお店に奇襲をかけてきた三人組のお姉さん達、マリーヌのお店のー
「あんた、まだこの町に居たわけ?いつまで図々しくユーグにつきまとうつもり?」
真ん中のー多分、デリアと呼ばれていたー犬耳の金髪美女が、羨ましいくらいに豊かな胸をそらして吐き捨てる。
「神経鈍すぎて、自分がどれだけ鬱陶しい存在かわかんないとか、本当、ユーグが可哀想。」
デリアの言葉に、残りの二人がクスクスと追従の笑いをこぼした。
「…」
「何よ、その目。…文句があるわけ?」
一方的に攻撃してくる彼女達とはお知り合いにすらなるつもりは無いので、完全黙秘のままその場を離れ、商品棚の間をスルスル移動していく。
「ちょっと!」
(なのに、ついてくるし…)
ひときわ華やかな「余所行き用の服」が並ぶ一角に追い詰められるような形になり、内心、どうしたものかとちょっと焦る。
(三対一とか、普通に怖いんだけど。)
それでも表面上はシレッと、目に入ったドレスが気になったふりで手にとって眺める振りなんかをしていると、
「それ…あんた、まさか。」
「冗談でしょう?夏月祭用の服なんて言わないわよね?」
(『カゲツ祭』?)
知らない単語に、チラッと彼女たちの方を確かめてみれば、何故か悔しそうな顔が並んでいて、
「あんた程度がどれだけ着飾ろうが、どうにもならないってのがわからないわけ?」
「その貧相な身体じゃ、着られる服の方が可哀想。」
随分な言われようだが、手にした服は、桁違いのお値段だけを確認してそっと元に戻した。それに勢いづいたのか、三人組が楽しそうに笑う。
「大体、あんたが何しようと、祭りの時までユーグに相手されるわけないじゃない。ユーグは闘技会に出るんだから、あんた、邪魔なんてしないでよ。」
「ユーグはこの町で一番強い雄なの。闘技会の後なんて、町中の女が彼に群がって凄いことになるのよ?あんたなんて完全に用なし。」
「そうなる前に消えればいいのに。…目障りだから。」
(お祭り、『トウギカイ』、…『闘技会』?)
気になる単語の意味は知りたいけれど、
(…ちょっと、ムカついて来た。)
ユーグがその「トウギカイ」とやらで、毎年、優勝と女性陣の称賛をかっさらっていくという過去話を嬉々として続ける彼女たちに、苛立ちが募る。
私がどれだけ望んでも知ることのない過去のユーグの姿。それを、さも「自分達の方がユーグのことを知っている」という態度で語る彼女たちに、まんまと嫉妬を煽られている。
だけど、それを彼女たちに悟られるなんて冗談じゃないから、逃げ道を探して周囲を見回す。タイミング良く、店のガラス窓の外に助けを見つけて声を上げた。
「あ!トキさんだ!」
「っ!」
「私、もう行かなくちゃ!」
わざとらしい棒読み、トキさんの存在を盾にして三人組を牽制し、彼女たちの横をすり抜ける。もう、呼び止められることも追いかけられることもなかったから、お店は無事に抜け出すことはできたけれど、結局、服は買えず仕舞いに終わった。
3-3 Side T
「トキさん、『カゲツ祭』って何ですか?」
買い出しで合流した後から元気の無かったクロエ。店に着くなり彼女が口にした言葉に、彼女にまた要らぬことを吹き込んだ者がいることを知る。
「…夏月祭って言うのはフォルトの夏の祭り、まぁ、由来はあるのかもしれないけど、要するに、町全体で飲んで騒いで楽しもうってやつだね。」
「…飲んで騒ぐ、いつもと変わらないような。」
「まぁ、ね?ただ、当日は夜店も出るし、舞台なんかもあるから、子どもや女性も夜まで楽しめるお祭りではあるよ。」
「…なるほど。」
頷いたクロエは、買ってきた食材を片付けながら、また迷うように口を開いた。
「あの、そのお祭りで、闘技会?っていうのもあるんですか?」
「…うん、あるよ。」
「…それに、ユーグが出るって。」
「そうだね。毎年出てる。」
「闘技会って、具体的にどんなことするんですか?」
好奇心、だけど、躊躇いのあるクロエの言葉に逡巡する。恐らく、彼女の想像も及ばないような世界に、彼女がどう反応するか。
(怯える…、いや、ドン引きかな。)
「…ただの喧嘩大会だよ。本気で殴り合って誰が一番強いのか決めるっていうだけの。」
「え…?」
「一応、ルールはあるけどね。それでも、興奮した馬鹿が牙をむいたりするから、毎年、大怪我する奴はいるし、死人もたまに出る。」
「…」
目を見開き、青ざめたクロエが、言葉を呑む。ジッと見つめられて、
「…ユーグは、怪我とか…。ユーグは強いって、皆、言ってるけど…」
「うん、ユーグが強いのは本当。だから、あいつが怪我することはまず無いから、それは心配しなくても大丈夫。」
「…」
手元に視線を落としたクロエの手が動き、昼食用に買った食材を黙って刻み始めた。包丁の立てる音が暫く続いた後、
「…ユーグって、そんなに強いんですか?」
未だ不安の滲む声がポツリと聞こえた。
「…強いよ。獣人の中でも段違いに強い。単純な個としての戦闘力なら、ユーグはこの町、…多分、国レベルで言っても、最強に近い。」
「そんなに…。」
「うん。だから、本来ならこんな辺境の町で傭兵団なんてやってる器じゃないんだろうけどね。…俺達じゃ、ユーグの手足にすら成れていない。」
「え?…トキさんでも、ですか?」
その言葉に、揶揄でなく、純粋な自身への信頼を感じて苦笑する。
「そうだね。副団長なんてやってるけど、そもそも俺は力押しの戦闘が得意じゃない。戦闘は補助にまわることが多いかな。後は、罠や暗器なんかも。」
「…それはちょっと、想像できる、というか、とてもお似合いですというか…」
「この店も、幾つか仕掛けてあるんだけど、気づいた?」
「え!?」
途端、世話しなく視線を彷徨わせ始めた姿に笑って、
「まあ、得意と言ってもね、本当は、ユーグもそういうことは出来ちゃうんだ。ただ、面倒くさがってやらないだけで。…ああ、でも、君の指輪。その付与はユーグがやったんでしょ?」
「…はい。」
薄く朱を注いだ顔に、ユーグが何を思ってソレを成したのかを考える。彼にその術を教えた存在ー
「…ユーグの父親、正確には養父かな、ダグって言うんだけど、付与系が得意な人でね。…俺とユーグは、彼に傭兵としてのあれこれを叩き込まれたんだよ。」
「…ユーグには、『家族はいない』って聞いてたんですけど…」
「うん。孤児だったユーグを拾って育てたダグが、ユーグの唯一の家族だったんだけど。…ダグは、去年、亡くなったから。」
「去年…。じゃあ、本当につい最近…」
「…そうだね。」
だから、未だ、こんなにも痛いー
「…鉄の牙は、もともと流れの傭兵だったダグが始めたものなんだ。ユーグや俺みたいな居場所の無い獣人に居場所や仲間を作るためにね。」
「…」
「ユーグはダグを慕ってたから、彼の残した鉄の牙を大切に思ってる。」
「あ、それはわかるかも、です。」
見上げる顔、眩しいものを見る眼差しを向けられる。
「ダグさんのことは知らなかったですけど、ユーグが鉄の牙を大切にしてるってのは、すごく。…皆と居る時のユーグって、素というか、全然しゃべらないで平気というか、…寛いで見えますよね。」
「うん。」
そう、在り続けたいと願っている。
己の強さには頓着しない男が、競う相手も無い闘いを続ける理由も、鉄の牙にあるから―
「…惰性であっても、ユーグが闘技会に出場するのはね、ダグの誇りを守るためなんだ。」
「…」
「彼の残した鉄の牙は最強でなくちゃいけない。だから、ユーグは闘い続ける。」
「…」
理解しろとは言わない。「誇り」のために命奪う力を奮うことを。鉄の牙において、暴力を手段とすることに躊躇う者などいない。
強張る表情、初めて彼女を目にした時と同じ顔で、クロエが問うてくる。
「…あの、その闘技会、観に行っても、」
「ああ、それは駄目。」
「え?」
複雑な戸惑いになど、気づかぬ振りで―
「闘技会は中央広場でやるんだけど、会場周りはね、興奮したバカのせいで、毎年、乱闘騒ぎになるんだ。危ないから、観に行くのは駄目。」
「…」
「祭り自体は、誰かと一緒なら遊びに行っても構わないよ?ボルド辺りに言えば、付き合ってくれると思う。」
「…はい。」
禁じる言葉に素直に頷いたクロエ。その表情に微かに見えるのは確かな安堵。自覚あるだろうそれに、彼女の顔が歪む。
(…逃げる口実に安心した自分が許せない、ってとこかな。…けど…)
クロエには可哀想だが、葛藤に折り合いをつける時間も与えてはやれないらしい。慣れ親しんだ気配の接近に、口を開く。
「…クロエ、帰ってきたみたいだから。」
「え?」
「肉に火、入れちゃおうか。」
「あっ!はい!」
料理が慌ただしく仕上げに入ったタイミングで、開かれる店の扉、
「腹減ったー!飯ー!肉ー!」
「お帰り。」
「お帰りなさい!」
騒々しい男を先頭に帰還した男達の中、クロエの視線がただ一人に向けられる。いっそ、滑稽なほどに憐れな恋情。恐れを隠し切れずに尚、惹き付けられ、逃れられない。
(…本当、厄介なのに惚れちゃったね。)
相容れない二人、彼女の本質は、獣の性から遠いところにあるー
3-4
私的基準で言えば、「ゴング前のボクシング」でギリだ。それもテレビ中継、画面越しの映像に限る。試合終了後のインタビューなんて、「早く治療させてあげなよ!」としか思えない。プロレスも、選手の肉体や技術を賛美することはあっても、流血シーンにはこちらの血の気が引く。大晦日にやるタイプに到っては、「足!?足で蹴るとか!?」と、想像した痛みに勝手に悶えたくなる。
つまり、例えそれがスポーツや格闘技という名のつくものであろうと、私は人を蹴ったり殴ったりが怖い。リアルやんちゃ系はもっと苦手、武装するような人種は未知の世界。なのに、
(…身内がそんな世界にどっぷりとか…)
日が暮れる町の端、月兎亭のテーブルの一つに突っ伏して呻く。人気の無い店内、耳に届くのは、店の外、遠くから聞こえてくる歓声、今日の祭りの盛り上がりを伝えてくる―
(…結局、ダメだったな…)
ごちゃごちゃと悩んだ末、夏月祭に出かける気にもなれなくて、臨時休業のお店に一人残ってのお留守番。「また来年もあるからね」と言ってくれたトキさんは、未だその姿どころか名前も教えてもらえずに幻の存在とかしている彼の番と一緒にお祭りへと出かけて行った。どうやら、番さんに「遊びに行きたい」と泣いてお願いされたらしい。
(それで、お店休んでお祭りデートしてくれるとか、やっぱり、トキさん優しい…)
そして、羨ましい―
「はぁー。私もラブラブデートしたい。」
そんなユーグは想像できなくても、言ってみるだけなら許されるだろう。そうやってグダグダしているところに、いきなり店の扉が開いた。「すみません、今日はお店お休みです」と伝えるつもりで上げた視線の先、現れた大きな影に少し驚く。
「あれ?ボルド?」
「…」
店の中に入ってきた巨体がのっそりと近づいてくる。
「お祭りは?行かなかったの?」
「ああ…。祭りは苦手だ。…人が多くて、潰しそうになる。」
「えー!」
笑おうとして、ボルドならあり得なくはないと気づいて、笑いが引っ込んだ。
「…クロエは、行かないのか?クロエが行きたいなら、連れていく。」
「うーん。ありがとう。…でも、今年は止めとく。」
「…」
いくら皆が認める最強の男だろうと、旦那が命がけで殴り合ってる横でりんご飴を舐める気概は無い。
(…来年までに、その気概が養えるかはわからないけど。)
「ボルド、ご飯もう食べた?まだなら、何か作ろうか?」
「…食べる。」
「了解。」
多分、私を気遣って。ご飯も食べずに様子を見に来てくれた優しい熊の子に、好物を作ってあげようと決めた。幸い、臨時休業で余った食材がそこそこある。その中から、「彼の好む肉料理を」とキッチンに立ったところで、再び店の扉が開いた。
「あー、やっぱ、ボルドも来てたか。」
「お前、暇なの?」
両手いっぱいに祭りの戦利品らしきものを抱えた二人組の登場に、一気に店の中が騒がしくなった。
「…ガットとルナールは、お祭り楽しんで来た後?」
「おー。まぁ、一通りは制覇したな。」
「…はい、お土産。」
ボルドと同じテーブルについた二人が、ボルドの前に戦利品の食べ物を積み上げていく。
「焼いた肉と甘いもんはそこそこあったんだけどさぁ。腹にたまるもんがねぇんだよな。」
「肉も固いしね。マズい。」
「…」
トキさんの料理に舌を慣らされてしまっている彼らに、夜店の味はもの足りなかったらしい。
「…二人も、何か食べる?」
「食う、肉。」
「俺は、腹にたまるもの。」
適当なリクエストにうなずいて、取り敢えず、下ごしらえ済みの鶏の唐揚げを揚げにかかる。
「…」
高温の油の中、ジュージューと音を立てる肉の塊を眺めながら、少しボーっとする。忘れたつもりで、納得したつもりで背を向けた町の喧騒が、騒がしい男たちのおかげで今は遠い。だけど、店の外のあの暗闇の先、光の当たる場所でユーグは―
「…お前、何か顔、変じゃねぇ?」
「…いきなり喧嘩売ってくるなら、ガットは唐揚げなし。」
「はぁーっ!?」
気づけば、カウンターから身を乗り出すようにしてこちらを見ていたガット。彼の目に映る自分は一体どんな顔をしていたのか。
(変な顔はしてたかもしれないけど、顔は変じゃない、はず…)
気を取り直し、盛り付けた唐揚げの山を彼らの前に運ぶ。テーブルの上、お皿を置くこちらをジッと見つめるルナールの金の瞳。
「…なに?」
「…連れてってあげようか?」
「え?」
「行きたいんでしょ?闘技会。…俺が、連れてってやるよ。」
3-5
「…行かない。」
暫し見つめ合って、沈黙の後に返した答え。何度も考えて、自分で決めたはずの。だけど、ルナールの瞳にその決断を揺らされる。
「…それは、トキさんに止められたから行かないの?それとも…、あんたが行きたくないの?」
「…」
「黙ってるってことは、やっぱり行きたくないんだ。…何で?」
「何でって…」
「怖いんでしょう?」
「…」
言い当てられて、黙る。
「あんたって、本当、弱いよね。何も、俺らみたいに戦えるようになれとは言わないけどさ。いつまでも、俺らに、…団長にもビビッて。…マジでむかつく。」
向けられる瞳には隠す気もない嫌悪。
「俺さ、あんたのその目が嫌い。俺らを『異質だ』って拒絶してる目が。」
「…そんなつもりは、」
「まぁね、俺らこんなだから。そういう目を向けてくる奴はいっぱいいるんだよ。けどさ、あんた団長の女なわけでしょ?」
「…」
「だったらさぁ、何で、団長にまでそんな目するの?それ向けられる団長の気持ちとか考えたことない?…少なくとも、その目をしてる限り、あんたは団長に相応しくない。」
ぐうの音も出ないほどの正論。気づいていて、抗えなくて、何も言わないユーグに甘えてしまっている事実。
(…私は、ユーグの生き方が怖い。)
「否定するつもりはない」と言いながら、近づけない、寄り添えない。それを見透かされての糾弾に何を言い返せると言うのか。
「…で?どうするの?」
「どうするって?」
「闘技会、行かないの?…それくらいの誠意は見せてくれてもいいんじゃない?」
「…」
挑発する瞳に答えを迫られる。「正解」を求めての逡巡に、横から声が挟まれた。
「…ルナール、それ、流石にマズいんじゃねぇの?トキさんにも、闘技会にこいつ近づけんなって言われてんじゃん。」
「…ガットはちょっと黙ってて。」
「いや、お前、それバレたらヤバいって。」
「…」
逸らされることの無い瞳に意志を感じる。
(…全部、覚悟の上ってことなのか。)
叱責も何もかも承知の上で、私に見せようとしている。彼らの敬愛する「団長の世界」を。
だったら―
「…行く。」
「ちょ!お前も、待てって。んな、勝手に決めんな!」
「大丈夫。行く、けど、会場までは行かない。…遠目でもいいの、ユーグが見える場所ってない?」
妥協点だとは思う。ルナールの言う「誠意」には届かないかもしれないけれど、勝手をした上で、それに彼らを巻き込むのも違う気がするから。
「…鐘楼の中、階段途中の窓から広場が見える。距離があるから大したものは見えないけど、…まぁ、一応は、見えるから。いいよ、連れてってあげる。」
「うん…」
ルナールの了承に、頷いた。
「あー、じゃあ、俺とボルドはここ残ってっからな?…こいつ、置いとけねぇし。」
「え?」
ガットの言葉に振り返れば、いつの間にか、ボルドが大きな上半身を丸めるようにしてテーブルに突っ伏してしまっている。
「え?え?これ、どうしたの?」
「蜂蜜酒飲ませたからなー。こいつ、他の酒は全然平気なくせに、蜂蜜酒にだけは酔うんだよなぁ。」
「…なんでそんなもの飲ませるの。」
「あー?祭りだぜ?酔って騒いでなんぼだろうが。」
「…」
確かにこの世界には飲酒に年齢制限はないし、普段、ボルドも当たり前のようにお酒を口にしているから、お祭りを楽しむという意義としては間違っていない。けど、
「…大丈夫なの?」
「平気平気。一時間も寝かせてりゃあ、目ぇ覚ます。」
「じゃあ…」
ボルドの世話はガットに任せ、ルナールを振り返る。
「…ちょっとだけ待ってて。行く用意するから。」
「いいけど、十分ね。」
急かすルナールの言葉を背に、三階への階段を駆け上がった。
3-6
「うわぁ。」
お店から続く裏路地を一歩抜けた先、大通りを埋め尽くすほどの人の波に、思わず感嘆のため息がもれた。
「…あんた、ど田舎から出てきたんだっけ?ひょっとして、こんだけの数の人みるの初めてとか?」
「…うん。」
正確に言えば、前世、ニュースに取り上げられる規模の花火大会を観に行った時に何度か経験したことはあるけれど。
「…これは、歩くだけでも大変だね。」
「まぁね。…はぐれないでよ?」
「う。努力する。」
努力でどうにかなるかは怪しいが、目的地の鐘楼は遠目からでも見える。町の灯りに照らし出されているあそこが最終目的地なら、たどり着くことはできるだろう。
「じゃあ、行くよ。ちゃんとついてきて。」
「はい。」
言って、歩き出した途端に、言われたことの難しさを悟る。
(速い!そして、上手い!)
どうやっているのか、対向してくる人の波をスルスルと縫うように進むルナール。彼と同じルートを通っているつもりなのに、気づけば引き離され、距離が開きそうになっていく。振り返らない彼に追いつこうとして、一向に縮まらない距離に焦り始めた時―
「っきゃあ!」
突然、背後から腕を取られた。
(っ!何!?)
振り返り、確かめる自分の腕の先、握っていたのは、
「デリア!?」
夜目にもはっきりとわかる悪意を含んだ眼差し。歪んだ笑顔を浮かべた女が、捉えた腕を思いっきり引いた。
「っ!ちょっと!何!?やめて!」
「…」
静止の声に周囲の視線は向けられたが、彼女を止めてくれる人はいない。引きずっていこうとする力に抵抗するが、周囲に押されて身体が流される。
(マズい!)
混乱する状況に、救いを求めて振り返った。
「ルナール!!」
叫んだ声、かき消すような周囲の喧騒の中、どうにか届いた響きに、ルナールがこちらを振り返った。
振り返って―
(…え?)
確かに、合ったと思った視線。なのに、ルナールは、ただ笑って―
「うそ…」
引きずられる身体に入る力を失い、呆然と、人波に消えていく背中を見送った。
「えー!本当に連れて来たの!?」
「ボーっとしてたから、簡単だったわ。」
「…これって、大丈夫なの?」
デリアに引きずられてきたのは、彼女たちの仕事場、『黒猫の館』だった。力の差に抵抗できずに連れ込まれてしまったその場所に居た二人、せめて状況だけでも把握しようと周囲を見回していたのだが、心がまだ追いつかない。
(…私、すごい、ショックだった。)
デリア達のことよりも、ルナールに見捨てられたことが。
(…結局、私は、ルナールにも甘えてたんだろうな。)
彼の言葉は辛辣であっても、それは彼の意思を伝えてくるもので、決してただの悪意ではなかった。時に嫌悪を見せ、私を追い詰める言葉ではあったけれど、彼の立場を考えれば、それも当然のことで―
「ちょっと、いつまで呆けてんのよ。」
「…」
意識を呼び戻すデリアの声に視線を向ける。
「なーに?また、こっちの言うこと無視しようっていうの?」
「そんなのがいつまでも通用すると思ってるんなら、あんたって、ほんと、馬鹿。」
「…」
「まぁいいわ。…あんた、その服、脱ぎなさいよ。」
「…なんで?」
言われた言葉にゾッとした。浮かんだ可能性。この店の特徴を考えたら―
「いいから。さっさとこっちの服に着替えて。」
「…」
差し出された服は、彼女たちが身にまとうそれと似通った華美なドレス。
「…絶対、いや。」
「あんたは、拒否なんかできる立場じゃないのよ!」
「っきゃあ!」
言葉と同時、デリアに掴まれた服が嫌な音をあげて引き裂かれた。はじけ飛んでいったボタンに唖然としてしまう。
「…デリア、あんまりやるとマズいんじゃない?こいつ、一応…」
「わかってるわよ!だから、手は出してないでしょう!?」
「もう、あんたもさっさとデリアの言う通りにしなよ。ほら、さっさとこれ着て。…それとも、あんた、その恰好で外に放り出されたいの?」
「…着替えたら、帰してくれるの?」
「そうね。あんたが大人しく言うこと聞いたらね。」
「…」
結局、三人から逃げ出すことも出来ずに、彼女たちの指示に従った。着なれないドレスを着こんだところで、髪を結いあげられ、化粧を施されていく。彼女たちの行動の意図がわからないものの、これが善意によるものではないことだけは確か。
(もし、このままお店に出されるようなことになったら、殴ってでも逃げよう。…部屋から出た瞬間を狙って、少しでも人目につければ…)
嫌な想像しか浮かばない中、逃げ道を探す。
「…いいわ。出来た。こんなものじゃない?」
「…」
鏡も無いので、立たされた自分の姿がどうなっているのかはわからない。けれど、下げた視線の先には大きく開いたドレスの胸元が見えて―
「…じゃあ、こいつ、外に出すよ。」
(え…?)
「帰す」という彼女たちの言葉は全く信じていなかったから、彼女たちの次の行動に驚いた。店の裏口に抜け、開いた扉から腕をつかまれたまま身体を押し出される。
「まぁ、私達のおかげで、あんたもちょっとは見られる恰好になっているから、どうぞ、お祭りを楽しんで?」
「お祭りだものねー。酔って理性無くした男とか、女ならあんたみたいなのでもいいってもの好きもいるだろうから。…無事に家に帰れるといいわねぇ?」
「!?」
彼女たちの意図を漸く察し、周囲を見回す。酔って、暗い路地裏にまで倒れ込む男達。覚束ない足取りで壁に寄りかかりながら、フラフラと歩いてくる男も―
「ああ、そうだ。仕上げにこれね。」
「っ!」
吹きかけられた何かに咄嗟に目を閉じた。辺りに甘い芳香が漂う。
(何?香水?)
「ちょっと!デリア、それは流石にマズいわよ!」
「ハッ!別にいいじゃない?こいつは祭りに浮かれて、羽目を外しちゃったのよ。私達とは何の関係もないとこで男引っ掛けて、遊んじゃうだけ。…じゃあね。」
言葉が終ると同時、掴んだ腕を思いっきり押されてよろめく。立ち直す前に閉められた店の扉、背後を振り返り、周囲を確かめる。
一人、二人―
正体を失いかけていた男たちの、暗い双眸がこちらを向いた。
3-7
(…マズい。)
多分、最後にかけられた香水らしき何か。それが、路地裏の男達を刺激した。彼女達の言葉を信じるなら―
(媚薬?魔法薬の類い?)
わからないまでも、この状況が非常に危険だということは間違いないはず。
(…大丈夫、道は覚えてる。中央通りまで出られれば…)
最短は、目の前の路地を抜けていけば大通り。ただ、その前に居る男達がこちらをすんなりと通してくれるとは思えない。現に、明らかにこちらに目を付けた男達が数人、フラフラと近づいてきている。
(…あの人達、多分、獣人、だよね。)
相手が酔っているとはいえ、身体能力で大きく劣る自分が彼らを出し抜けるとは思えない。
(…仕方ない。)
逡巡の末、男達に背を向けて走り出した。裏通り、数軒先にある宿屋の裏庭を目指す。狭い通りを走り抜けながら、背後から聞こえる足音に耳をすます。どうやら、後を追ってくる気配はない。それでも、スピードを緩めることが怖くて全力で駆ける。
五月蠅いほどの心臓の音を聞きながら走り続けた先、たどり着いた宿屋の裏庭。侵入し、裏口の扉を思いっきり叩いた。
「すみません!」
何度か呼びかけた声にも扉が開く様子はない。それでも、これ以上の大声は、背後の暗闇から追いかけてくる何かに捕まりそうで躊躇する。
「…どうしよう。」
暗闇を見回して、目についたもの。裏庭の隅、恐らく、洗濯用の井戸。浮かんだアイデアをまともに吟味する時間はない。
(やってみるしか…)
駆け寄り、深い井戸の底にある釣瓶を引き上げた。汲み上げた水を頭から思いきりかぶる。
「っ!」
結い上げられていた髪が崩れて貼りついた。
(…化粧は、とれた?香水は、…匂いがわからない。)
髪や服にも染み込んでいるかもしれない匂いが怖くて、二度、三度と続けて水を浴びる。結果、水を含んだ服は重く、動きづらいものになってしまったけれど、
(…これで、表に出られれば。)
滴る水を払い、出来る限りドレスの水を絞ってから、宿屋の裏庭を出て裏路地へと戻る。表通りに繋がる路を探して、いくつかの横道を通り過ぎたところで、不意に、声がした。
「あーん?なんだぁ、こんなとこに女?」
(っ!)
恐怖に、全身が粟立った―
「何だぁ、お前、すごいカッコしてんなぁ。男に捨てられたかぁ?」
「…」
横道から、フラフラと近づいてくる厳つい男。その頭部に見える、ボルドによく似た耳―
「いいぜぇ、俺が拾ってやるよぉ。可愛がってやるからなぁ。」
「!」
手を伸ばしてくる男に、背を向けて逃げ出した。
(ああ!でも、このままじゃマズい!)
大通りに繋がる路の明かりを確かめる暇もなく、いくつもの横道を通り過ぎる。最悪は、袋小路に追い込まれること。だけど、このままじゃいずれ―
「おいおいおい。逃げんなよぉ。」
「ヒッ!」
突如、目の前に現れた男の姿に悲鳴が漏れる。
(何で!?)
いつの間にか、この細い路地で回り込まれていた。獣人の能力を侮っていたわけではないのに。
「仕方ねぇなぁ。捕まえとかないと逃げるってんなら、多少、痛い目見ることになるぜぇ?」
「やめて!」
「!…てめぇ。」
伸びて来た手を咄嗟に払った。途端、男の声に怒りが混じる。
「ふざけんなよ。人間ごときが、俺に歯向かうなんざ…」
「っ!」
一瞬で詰められた距離、男の右手が喉元を掴む。
「暴れっとぉ、死ぬぜ?」
「グッ!」
喉にかかる圧力が強められた。息が出来ずに「苦しい」と思った、瞬間―
「ウギャァァァァアアア!!!」
「!?ゴホッ!」
喉から、弾かれたように離れた男の手、その手から炎が立ち上がった。一瞬で燃え上がった炎は男の全身を舐めつくそうとする。
「ヒッ!」
怖くて、怖くて―
逃げ出した。背後で聞こえる悲鳴にも、後ろを振り返れない。振り返ったら動けなくなりそうで。ただ、
(ユーグ!ユーグ!ユーグ!)
心の中、彼の名だけを呼んで、彼の姿だけを思い描いて。止まりそうになる足を必死に動かす。
幾つも駆け抜けた路の先、明るい大通りに出られた時も、人込みの中を無理矢理に割って進んだ時も、まだ怖くて止まれなかった。見慣れた路にたどり着き、心から安心できる場所の灯りが見えてきたところで、漸く足が止まった。
(…帰って、これた…)
月兎亭の灯りに、流れ出した涙。走り疲れて重たい足をどうにか前へと進める。
「あ…」
「…」
お店まで、もう後十メートルというところで、お店の扉が中から開いた。
(ユーグ…)
扉の前、灯りを背に立つ長身の影。安堵して、嬉しくて、今すぐに抱き締めて欲しくて。駆け出そうとした瞬間、ユーグの姿が消えた。
「え…?」
不意に、背後で風が舞い、
「ッギャァアアッ!」
「!?」
真後ろで聞こえた悲鳴、振り返れば、暗闇に佇むユーグの姿。その足の下にー
「っ!」
「…」
力無く転がる男の身体。倒れ付したその頭には先ほど目にした丸い熊の耳。
「…ユーグ。」
「…」
怖くて、でも、ユーグが居るから安心のはずで、なのに、男を見下ろす彼の姿が恐ろしくて、近づけないー
「…始末をつけてくる。店に入ってろ。」
「…」
固まって動けずにいる内に、それだけ告げたユーグが男の襟首を持ち上げた。そのまま、男を引きずって歩き出すユーグ。暗闇の中へと消えていく姿を、引き留めることも出来ずに見送った。
3-8
ふらつきそうになる足で店にたどり着いた途端、待っていてくれたらしいトキさんに「先に服を着替えておいで」と促されて、三階への階段を上った。水を吸って身体に張り付く重い布を脱ぎ捨て、温いシャワーを浴びる。何度も身体をこすって、まだ身体に染み込んでいる気がする匂いを落とした。
「…トキさん、すみません、お待たせしました。」
「…少しは、落ち着けた?」
「はい…」
男に追いかけられた瞬間を思い出せば、まだ身体が震えそうになる。それでも、灯りの点る店内、馴染んだ匂いの中に居ることにホッとする。
「うん、じゃあ、こっちに来て。話を聞かせてくれる?」
トキさんの声に導かれ、連れていかれたのは店の奥の個室。布の間仕切りで区切られたそこへ足を踏み入れた途端、目にした光景に息を呑んだ。
「っ!」
(何でっ!?)
店に居ないと思っていたガットとルナール、ボルドの三人が、直立不動の姿勢で立たされていた。しかも、三人の頬には傍目にもわかる殴られた痕。
「…」
「…じゃあ、何があったのか、話してくれる?」
三人には触れず、そう尋ねるトキさんと彼らを見比べた後、結局、どうしていいかわからずに、トキさんに問われた質問に答えることに神経を向けた。
「…ルナールにお祭りに連れて行ってもらったんですけど、途中で、はぐれてしまって。」
「…どうしてルナールだったの?ボルドじゃなくて。」
その質問にどう答えるべきか、一瞬、並んで立つ三人を視線でうかがうが、彼らは直立のまま、視線も合わない。結局、正直に答えるしかなくて、
「…ボルドは、その、寝ていて、それで、ルナールが連れて行ってくれるというので…」
「そう。で、ルナールとはぐれた後、何があったの?」
「…黒猫の館のデリア達に捕まってしまって、服を着替えさせられたり、お化粧をされたりして…」
「化粧…?」
「はい。…多分、お祭りに放り出して、私が酔っ払いにでも襲われればいいと思っていたみたいです。」
「なるほどね。…されたのはそれだけ?濡れていたのは?」
聞かれて、濡れねずみだったことも心配をかけていたのだと知る。
「濡れていたのは…。…香水、何か媚薬のようなものをかけられて、それを落としたくて、水は自分でかぶりました。」
「媚薬か。…ルナール、何の匂いか分かる?」
「薬…、多分、疑似フェロモン系の匂いだと思います。」
「っ!下種がっ…」
小さく呟かれた声、だけど今までで一番のトキさんの怒りを感じる声に、身体がこわばった。トキさんの問いかけに淡々と答えたルナールは、無表情のままジッと床を見つめている。
「ごめん、続けて」というトキさんの言葉に、ルナールから視線を外し、続きの言葉を探す。
「…水をかぶった後、路地裏から抜け出そうとしたんですけど、その前に、獣人の男の人に見つかって、逃げたんです。けど…」
「…」
逃げた後の光景がまざまざと浮かび上がる。
「直ぐ、捕まって、首を絞められそうになって。でも、その人が、急に、燃え、燃えてっ。」
「…大丈夫、クロエ。大丈夫だから、ね?」
「…」
慰めるように背中に置かれた手に、目をきつく閉じて呼吸を整える。
「…それで、また逃げて、お店まで逃げて、でも、多分、追いかけられてたみたいで、お店の前でユーグが、ユーグに…」
「ああ。店の前でユーグが潰してた男がそうなんだね?」
「はい…」
「そう、なるほどね。…うん、まぁ大体わかった。」
そう言ったトキさんの真っ直ぐな瞳に見つめられ、
「ルナール達から聞いたのとは、少し話が違うようだけど。」
「!」
その言葉に思わず三人を見る。
(話が違う?どこ?何がだろう?)
示し合わせるつもりはないが、正直に話したつもりだったから、それが彼らの話と異なるということに不安を感じた。
「…ルナール、もう一度、話して。」
「はい。」
答えたルナールが淡々と話し出す。
「俺が、祭り…、闘技会を観に行こうと言い出しました。」
「!違っ!それは!」
「クロエ、君はちょっと黙ってて。口を挟まずに最後まで聞いて。」
「!」
トキさんの声の冷たさに言葉をのめば、ルナールがまたゆっくりと口を開き、
「…鐘楼から見ようという話になり向かっていましたが、途中、俺がクロエを故意に撒きました。」
「!」
ルナールの言葉に、やはりあの時の視線と笑いは見間違いではなかったのだと知り、胸が痛んだ。ただ、それも一瞬のこと―
「撒いた後、デリアに連れていかれるクロエの後を追って黒猫の館に行きました。」
(え…?)
続いたルナールの言葉に救い上げられる。
「直ぐに連れ戻すつもりでしたが、館でマリーヌに足止めされて助けに入れませんでした。」
「…それで、自力での救出は諦めて、俺たちに助けを求めたってことだね?」
「…はい。」
(そう、だったんだ…)
ルナールに見捨てられたと思っていたけれど、ギリギリのところで見捨てないでいてくれた。それが、自分で思った以上に嬉しくて、ガチガチに強張っていた身体の緊張が僅かに解けた。
こちらの様子を黙って見ていたトキさんが口を開く。
「…俺たちが館に着いた時には君は既に館に居なかった。一旦、こっちに戻っていないかを確認してから、手分けして探そうとしてたんだ。…そこに、君が自分で戻って来た。」
経緯の顛末を教えてくれたトキさんに頷く。
(良かった…)
怖かった、けれど、最悪の事態ではなかった。少なくとも、みんなが私を心配して探そうとしてくれていた。その事実が、先ほどまでの恐怖を遠ざける。
(本当に、良かった…)
もう一度、安堵の息をついて、トキさんを見る。その視線は真っ直ぐにこちらを見つめたまま―
「…さて。じゃあ、クロエ、君はこいつらをどうしたい?」
静かな声が、鋭利な刃物みたいに突き刺さった。
3-9
「…どうしたい、って言うのは…?」
「ルナール達はユーグの妻である君を危険に晒したからね。その責任を取る必要がある。彼らにどう責任をとらせるか、クロエの希望はある?」
「!ちょっと待って下さい!悪いのはデリア達で、三人は、」
「もちろん、彼女達にも相応の対処はするつもりだよ。けどね、関係ないんだ。」
「え?」
「彼女達が何をしようと、彼ら三人は君を守らなくちゃいけなかった。それに失敗した以上、その責任をとるのは彼ら自身、でしょう?」
「!」
温度の無い声で告げられた言葉に、理解した。トキさんが言わんとすることを。
彼らの世界では、「敵対する者が居る」ことは前提でしかないのだ。当然のものとして存在する脅威に、対処できることもまた当然で、それが出来なければ―
「…あの、でも、三人をどうしたいとかは、私、無いです。」
「…それで済む話じゃないのはわかるよね?結果として、君が自力で逃げ出したから大事には至らなかっただけで、一歩間違えば、君は死んでいたかもしれない。」
「でも…」
「わかった。じゃあ、彼らの処分はこっちで勝手に決めておくよ。それでいいかな?」
「!」
処分という言葉にゾッとした。彼らの腫れ上がった顔に視線が行く。多分、殴られた痕、トキさんがやったのか、ユーグがやったのか。だけど、彼らの「処分」はこれから課されるのだという。それはきっと、こんなものでは済まない―
「あの、トキさん!でも、本当に違うんです!そもそもお祭りに行きたいって言ったのは、私で!」
「そう?でも、それだとルナールが嘘をついてるってことになるけど…」
「っ!確かに、きっかけはルナールだったかもしれません!彼が『行かないのか』って誘ってくれたから!」
「誘う?それは、脅しじゃなくて?だって、君、祭りに行く気はなかったよね?」
「脅されてません!行くって決めたのは自分の意志です!」
ルナールの言葉に挑発はされたけれど、でもそれは―
「発破をかけてくれたんです!…ユーグに…。…ルナールは、ユーグのこと、私にちゃんと見るようにって。ユーグのこと、もっとちゃんと知って、ユーグのこと、理解できるようにって…」
「…」
庇うための言い訳に聞こえるかもしれないけれど、でも、結局、本当にそういうことなのだ。
「トキさん、ごめんなさい。」
言って、頭を下げた。
「私の我儘に三人を巻き込みました。だから、怒られるのも、処分を受けるのも私です。」
「…俺が、君を処分したり出来ないって、わかって言ってるよね?」
「…」
「わかって」いるわけではない。その証拠に、こんなにも、震えるほどにトキさんが怖い。だけど、これは違う。これは駄目だ。自分の情けなさがルナールの行動を招いた。その結果を三人に押し付けるなんて、そんなのどう考えても間違っているから。黙って頭を下げ続ければ、
「…はぁ、もう、わかった。」
トキさんのため息が聞こえた。
「クロエ、頭上げて。…仕方ないから、今回の件はこれ以上は不問にする。」
「トキさん…、ありがとうございます。」
「うん。けど、クロエ、君が今回のこれを自分の責任だって言うなら、これからは自分の行動が及ぼす範囲っていうのをもっと考えてから行動するようにしてね。」
「はい。」
答えれば、確認するように頷いたトキさんの視線が三人に向かう。
「お前達三人は、当分、ギルドの依頼には参加させない。そうだね、一カ月はクロエの護衛について。」
「「「はい。」」」
三人の返事にも頷いたトキさんは最後に一つ大きくため息をついてから、
「…俺はユーグの方のフォローに行ってくるよ。…クロエ。」
「はい。」
「ひょっとしたら、ユーグ、今日は戻って来ないかもしれないけど…」
「…」
「…戸締りだけはきちんとするようにね。」
「はい…」
言って、直ぐさま身を翻したトキさん、その背中が店を出ていくのを見送った。
3-10
トキさんの背中が扉の向こうに消えて、そこで漸く、身体中の力が抜けてへたり込んだ。
「っああ~!」
(怖かった!)
辛うじて飲み込んだ言葉。デリアに捕まって男に襲われたことも、ユーグやトキさんが見せた暴力的な姿も、目の前の三人の腫れた顔も、何もかもが怖くてたまらなかった。緊張から解放され、安堵が広がっていく。
へたり込んだ姿勢から、「そう言えば」とノロノロ上げた視界に入り込んだものに、重い身体を何とか気力で立ち上がらせた。
「…取り敢えず、三人ともそれ、冷やさないとね。」
「…」
黙ったままの三人を放って、冷凍庫から適当な大きさの氷を取り出す。有り合わせの布に包んだそれを三人それぞれに持たせて、頬に押し当てた。
「…ごめんね。」
「…なんで、あんたが謝んの。」
「いや、だって、凄く痛そうだし…。ルナールは百歩譲ってしょうがないとしてもさ、これ、ガットやボルドは完全なとばっちりじゃない?」
「…」
黙ったルナールの代わりに、ボルドが首を振った。
「俺は、クロエの護衛だから。守れなかった俺が悪い。」
「でも、ボルドが寝てる間に勝手に出て行ったのは私だよ?」
「それでも、だ。」
「…」
頑ななボルドは本当にそう思っているらしく、大きな肩をしょんぼりと落として黙り込んでしまった。代わりに、ガットが口を開いて、
「俺も、お前ら止めなかったからさ。まぁ、これは当然っつーか、軽すぎるくらいなんだよ。」
「ガット…。…でも、一カ月もお仕事できなくて、私の護衛だよ?」
「それもな。甘いっつーか、そんなんで許されて逆にビビるっつーか。」
「…」
ガットの言葉に、彼らが覚悟していた「処分」がどんなものだったのかを想像して、また一人、冷や汗を流す。
心底、そんな事態にならなかって良かったと再確認したところで、ルナールが口を開いた。
「…何で庇ったの?」
「…」
聞かれた質問に何と答えればいいのか考える。
(庇った、か。…これ以上、ルナール達が罰を受けるのが嫌だったのは確かだけど。)
ただ、それ以上に―
「…私ね、ユーグが好きなの。」
「…あんだけ、ビビってるくせに?」
「そう。まぁ、バレちゃってるから言うけど、正直、ユーグを怖いと思うこともあるんだけど、でも、やっぱり、好き、なんだよね。」
「…」
「だから、ユーグには笑って、…うーん、幸せで?いて欲しいの。」
私の行動理由なんて、それだけで充分―
「ユーグはさ、ルナール達のこと好きでしょう?ルナール達といると楽しそうだし。」
「…そんなの、団長が楽しそうなんて分かるわけないよ。」
「いやいや、わかるよ。楽しそうだよ。」
だから、本当は「庇った」わけじゃなくて―
「ユーグが好きなあなた達が、これ以上傷つくのを見たくなかっただけ。しかも、それをトキさんかユーグがやるんでしょう?そんなの絶対、無理。嫌だよ。」
「…あっそ。じゃあ、別に、お礼も要らないってことだよね?」
「うん。」
こちらの返事にフイと顔を逸らして、「帰る」と言い出したルナール達。見送りがてら、気になっていたことを尋ねてみた。
「あの、さっき、トキさんが言ってた、『後始末』って…?」
「…団長が帰って来たら団長に聞きなよ。」
「でも…」
話してくれるだろうか?
(いや、そもそも、聞ける?さっきみたいな状態のユーグだったら…)
そう考えて、また臆病風に吹かれていたのを、ルナールに敏感に察知されてしまったらしい。
「団長が言わないなら、あんたが知る必要は無いってことでしょう?」
「…うん。」
逃げ道を用意してくれたルナールに頷いた。ユーグが連れて行った男の姿がチラリと浮かんだけれど、それを振り払う。
「…あと、ごめん、もう一つだけ。…その、襲って来た人が急に燃えたんだけど、あれって…?」
「ああ。」
ルナールの視線が、こちらの左手に向けられた。
「指輪の付与、物理防御の効果なんじゃないの?」
「やっぱり、そっか…」
一番、あり得そうだと思っていた可能性。あの状況で、私を守るように発動した力―
「…ちょっと、見せてみて。」
「…」
言われて、ルナールに見えるよう、左手の指輪、そこにはまる飾りの石を掲げる。
「ああ、やっぱり。ほら、効果が発動したから石が変色してる。」
「本当だ…」
菫色だった水晶が、濃い青紫?ユーグの瞳の色みたいな色に変わっている。そして、そこに白く浮かぶヴィオレの花模様―
「…でも、まぁ、物理防御で反撃の火魔法が発動するなんて、聞いたこともないんだけどね…」
「…」
ルナールの呟き。規格外らしい力で人が燃えてしまったことは、確かに、心底怖かった。でも―
(守ってくれた。)
ユーグが、ユーグの力が私を守ってくれた。その事実さえあれば、他はもうどうでもいいじゃないかと、もらった指輪を握りしめた。
3-11 Side M
一目見た時からわかっていた。
あの雄は、私のものだと―
「ッキャァァアアア!!」
「何だっ!?」
客をもてなすラウンジ。一夜の夢を買いに来た男達が、酒を片手に今宵の蝶を品定めするこの場に、いくつもの悲鳴が上がった。
「…これは、何事かしら?」
向けた視線の先、美しい獣がグラスを蹴散らしテーブルの上に降り立つ。掴んでいた男の身体を無造作に放り投げ、飛んできた身体にまた周囲から悲鳴が上がった。
「ユーグ…」
「…」
名を呼べば、鋭い視線に囚われる。男から立ち昇る怒気は、この身を溶かす媚薬。
「一体、これはどういうことかしら?彼は何者?何があなたの機嫌を損ねているの?」
「…手を出すな。あれは俺のものだ。」
「…あら。困ったわ。あなたが、何の話をしているのか…」
男の口にした、「俺のもの」という言葉に、僅かに気分がささくれ立つ。彼の言う「あれ」、彼の傍に居るというだけの、彼の本性を理解しようともしないただの人間―
「…でも、そうね。あなたが言うなら、きっと、このお店の誰かがあなたのものに手を出してしまったのね。」
「…」
「ごめんなさい、ユーグ。こちらできちんと対処すると約束するわ。だから、どうか、許してくれる?」
「…」
黙ったまま、抑えきれない怒気をぶつけてくる男を見つめる。ゾクゾクするような視線に晒され、身体が歓喜の悲鳴を上げる。
(ああ、素敵…)
ユーグの怒気に触れ、それでも恐れを感じないのは、理解しているから。
彼がどれほどの怒りを湛えていようと、その力が私に及ぶことは無い。他の誰にその怒りをぶつけようと、
ユーグは私を許すー
絶対的な確信を持ったそれに、陶然と二人の時間に身を任せる。
暫し見つめ合った後、ユーグが視線を逸らした。
「…」
「あら?もう、お帰りになるの?」
何も言わず背を向けた男に、自然、口角が上がる。
(やっぱり、あなたは…)
「ねぇ、ユーグ?今日はこんなことになってしまって残念だわ。でも、どうか、また遊びにいらしてね?」
「…」
去り行く男の背中を最後まで見送って、さて、とその場の後始末を考える。
(…ユーグにも、ああ言ってしまったし、流石にあの子達はなんとかしないと駄目ね…)
彼の怒りに触れたのだ。稼ぎは良かったので気に入っていた子達だが、このまま店で飼い続けるわけにはいかないだろう。こんな事態を引き起こした張本人達、少しは期待し、今回は手も貸してやったというのに。結局、無力な女の一人も消すことができなかった。
(本当に、やっと邪魔者が消えたと思っていたのに、今度はあんな女に邪魔されるなんて。)
それでも、もう、あと少し―
ユーグの傍に居るせいで、少々、手間はかかるが、何の力も持たない女を排除することなど容易いもの。諦めるつもりはない。取り返してみせる。今度こそ完全に手に入れる。あの美しい獣は私のもの、私だけの雄なのだから―
3-12
(…ユーグ、帰って来ない。)
灯りを消した部屋、広いベッドに一人転がり、冴えてしまった頭で考える。いつもなら、大抵、先にベッドで寝ているユーグ。彼のその温もりが、今ここには無い。
(…私、本当、馬鹿だ。)
いつもいつも、「ユーグは何もしてくれない」なんて、一人勝手に拗ねて落ち込んで。だけど、
(ユーグは、いつも、ここに居てくれた。一緒に、同じベッドで寝てくれていたのに。)
それを、いつの間にか当然のように受け入れて、彼の温もりを当たり前のものだと勘違いして―
(…謝ろう。帰ってきたら、色々。それで、お願いしよう。)
これからも、せめて側にいて欲しいって。
ベッドに入ってからどれくらいの時間が過ぎたのか、結局、いつまでも寝つけないまま寝返りを繰り返す内、聞こえた扉のきしむ音。
「…ユーグ?」
「…」
開いた扉、そこに立つ人の姿に、それだけで泣きそうになった。身を起こし、帰ってきてくれたその人の名を呼ぶ。
「ユーグ、お帰りな、」
「服を脱げ。」
「え…?」
(脱ぐ…?)
唐突な一言。言われた言葉の意味がわからずに混乱する。そんなこと、今まで一度も言われたことが無かった。
ベッドの上、動けずにいるこちらに、ユーグが近づいてきて―
「…」
「…ユーグッ!?」
乗り上げたユーグの重みでベッドがきしむ。
「!だめ!いや!ユーグ!?」
「…」
着ていた寝間着代わりのワンピースを、抵抗する間もなく頭から引き抜かれ、脱がされてしまう。
「ユ、ユーグ、なんで…?」
「…」
心もとない恰好、肌着だけになってしまった自分の身体を必死に隠す。何も言わないユーグの瞳に、ただ射すくめられて動けない。
「ユーグ!」
伸びて来た手、ベッドの上に押し倒されて、縫い留められた。
「待って!待って!何で!?」
悲鳴に近い声が上がる。ゆっくりと降りて来たユーグの顔が首筋にたどり着き―
「ッ!」
舐め上げられた感触に全身に震えが走った。
(何で!?どうして、急に、こんな…)
熱と匂いに包まれて身体が熱くなる。だけど、心の芯は冷えていて、これが異常な事態なのだと告げている。
(違う、これは、こんな、こんなのは、違う…!)
言葉には出来ず、ただ、きつく目を閉じた。次に訪れる何かを覚悟して、身を震わせる。
だけど―
「…」
「…」
覚悟した何かはなかなか訪れず、不意に、覆い被さっていた熱が離れていった。
(…ユー、グ?)
「…匂い。」
「え?」
目を開く。ユーグの、怖いくらいに真剣な顔に見下ろされている。
「…店でつけられたな。」
「あ。」
香水。そう言えば、ルナールが薬だと言っていた、媚薬のような何か。シャワーで落としたつもりで、まだ残っていたらしい。
「…消してやる。」
「え。ユーグ、」
「黙っていろ。」
そう言ったユーグの顔がまた近づいて来て―
「っ!」
今度は飲み込んだ悲鳴。耳元に触れる熱さ、濡れた感触が這う。ひっそりと、でも確かな水音が耳奥に注がれて腰が跳ねた。
「!」
自分では抑えきれない動きに、顔が羞恥で熱を持つ。
(こんなのっ…!)
「黙っていろ」と言われて、反射で出そうになる言葉を飲み込むけれど、口を閉じても鼻から抜けそうになる吐息を止められない。
「っ!」
「…」
耳から滑り降りた感触が、下へ下へ、首筋を這い鎖骨を伝う動きに、我慢できない涙が浮かぶ。通りすぎた舌が、反対側の首筋を舐め上げ―
「ぁ!?」
不意に、胸元が大きな掌で包まれた。薄い肌着一枚、ゴツゴツした指の硬さも熱さも伝わってくる。やわやわと動く掌の動きに、否応無く呼び覚まされていく熱。
「…ユーグッ…」
「…」
もう、全身が熱くて堪らない。逃がせない熱に、身体の自由を奪われる。痺れる指先を伸ばせば、その手を握られた。真っ直ぐな瞳がこちらを見下ろしている。
(ユーグ、ユーグ…)
止めて欲しいのか、そうじゃないのか。このまま流されてしまいたいとも思うのに、ユーグを薬の力で惑わすような行為、変なプライドが邪魔をして、「それは駄目だ」とブレーキをかける。
掴まれたままの手を引き寄せたくて、でも出来ないまま、一心に見上げる先、ユーグの瞳が揺れた気がした。
ボーっとする頭でその瞳を見つめ続ける。濡れた瞳、ユーグが小さく息を吐いた。
「…寝ろ。」
「…」
優しい響きが落ちてきた。何か答えようとして、だけど、それが音に成る前に、大きな身体に包み込まれる。一瞬、感じた重み、直ぐに身体を引き寄せられ、向かい合うようにして抱き締められた。
心地よい熱と重みに誘われて、あれほど激しく鳴っていた心臓がユックリと落ち着きを取り戻していく。
ここは、安心できる。この人の、この腕の中なら、私は大丈夫―
(ユーグ…)
急激に訪れた疲労感、意識が眠りへと落ちていった。
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