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01
目が覚めると、視線の先は見知らぬ天井だった。格子窓から差し込む光が、床に歪な形を描いている。私はそっと上半身を起こした。
(ここはどこかしら? どうしてこんなところで寝ているの? 思い出せないわ。――何も)
サイドテーブルに一枚のメモが置いてあるのが目に留まる。手を伸びしてメモを取り、内容を確認した。
『ソフィアへ
――君は今、オーグレーン侯爵邸にいる。詳しい事情を話すから、支度を終えたら一階の食堂に来るように。着替えは、寝台右の衣装棚にあるものを好きに選びなさい。
ユハル・オーグレーン』
流麗な筆跡で綴られたメモに、首を傾げる。侯爵家にオーグレーンという姓は聞いたことがあるが、ユハルは知らない名だ。
メモを元の場所に戻し、寝台から降りて衣装棚の扉を引くと、私の好みにぴったりのドレスが所狭しと収納されていた。その中から、一番気に入ったアイボリー色のレースディテールが栄えるドレスに着替えた。
寝室を出て、メモの指示通り一階の食堂に行った。大人数用の豪奢なテーブルの奥に、主人と思われる男性が座っていた。彼から最も近い席に、私の分の朝食が用意されている。
「おはよう、ソフィア。さ、こちらへおいで」
愛想良く微笑んだ彼に、どきんと心臓が音を立てた。
艶のある黒髪に、瑠璃色の瞳。
すっきりとした鼻梁に、薄い唇……乳白色の肌。まるで、物語から飛び出してきたような美丈夫だ。そして、なぜか初めて会ったような気がしない。
「は、はい」
私は慎ましく頷き、席に着いた。彼の顔色を遠慮がちに窺っていると、彼は柔らかく目を細めた。
「昨晩はよく眠れたかい?」
「……そのようです」
「結構なことだ。……僕のことが誰か、分かる?」
「いいえ」
「そう」
一瞬、彼の表情に切なさが滲んだ。しかし、すぐに愛想の良い顔を浮かべて言った。
「僕はユハル・オーグレーン。三年前に君と契約結婚している。けれど君は、結婚してまもなく、風邪を拗らせてね。それから、記憶の部分的な喪失に加え、少々珍しい体質になったんだ。毎日記憶がリセットされる――というね。びっくりだろう?」
「……!」
私は、絶句する。
(――契約結婚に記憶喪失!? 特異な体質……? ……色々と情報が多すぎでは??)
自分のことや、家族のことはなんとなく覚えている。しかし、契約妻になった経緯、ユハルのことや三年間の生活については何一つ思い出せない。記憶障害の方は事実のようだ。
「ユハル様……あの、契約結婚……というのは?」
ユハルは、平然とした様子で答えた。
「僕たちは、愛し合っていない形式だけの夫婦だったんだ。体裁を守るためのね」
「もしそのような関係だったとして、ユハル様は私を愛していないのに、三年もの間世話を見てくださったのですか? 実家に送り返してくださってもよかったのでは」
「君と離婚したら、後継のために後妻を迎えろとうるさく言われてしまうだろう。それが面倒なだけさ」
それは果たして、毎日記憶がリセットされる忘却妻を持つより面倒なことだろうか。
伏し目がちに語るユハルは、色香を漂わせていた。彼の低く爽やかな声に耳を傾けながら、その姿に魅入る。
「それに、君の世話なんて楽なものさ。君は毎日同じデザインのドレスを選び、同じ本を読み、同じ曲をピアノで弾く。それから、同じことを僕に尋ねる。こんなに手間のかからない女性は他にいない。契約妻には都合がいいと思わないかい?」
重篤な記憶障害を抱えている相手に、"都合がいい"という言葉は、冷酷に聞こえた。普通は、同情したり哀れんだりするのが先に立つのではないか。しかし、ユハルはこう付け加えた。
「だから、君は何も気負うことはない。僕たちが愛し合う仲だったら、大切な記憶を忘れてしまったことを嘆いたかもしれないけれど――ね。ゆったりと気楽に過ごしてくれ。さ、話は終わりだ。朝食にしよう」
まるで、大切な人を愛おしむような様子で、目を細めた彼。なんの愛情もない契約妻に、こんな特上の甘ったるい眼差しを向けるものだろうか。私はユハルの口ぶりや態度に、違和感を感じた。
(……ユハル様は本当に、義理だけで三年も世話を焼いてくださったの?)
そして二人は、何度目か分からない朝を共に過ごしたのだった。
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